屎尿・下水研究会

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玉川上水の通舩一件

△講話者 松田 旭正 *

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

1.多摩東京移管問題

 玉川上水が開かれたのは,江戸時代の承応二年(1653)といわれている。当時の江戸は急激な人口の増加により,飲み水の確保が最大の課題であった。江戸の人口は当時約六十万人といわれて,日本最初の水道「神田上水」だけでは水飢饉の対応は不可能であった。
 幕府は,多摩川から水をと考え,羽村の堰から四谷大木戸まで四十三キロ,高低差九十二メートルを利用して水路を作り,江戸市中の飲み水を確保した。
 水路は武蔵野台地の尾根筋を貫通し日本最大の都市江戸(東京)へ流入した。
 その後明治の新政府ができて,明治4年(1871)10月廃藩置県が行われ,11月には多摩郡の大半は神奈川県に所属した。当時の東京府は玉川上水を東京の行政区域に編入するよう新政府に申請を始めた。
 明治5年(1872)9月中野村外58ヵ村(東多摩郡)を東京府に編入した。翌年の明治6年(1873)年6月東京府は玉川上水両縁の羽村外26ヵ村(神奈川県)と上保谷新田(入間県)を東京府編入を申請した。
 明治11年(1878)11月郡区町村編制法が施行され,神奈川県下の多摩郡が南北西の三郡に分かれ,三多摩郡が成立した。
 明治14〜15年(1881〜1882)東京府は将来玉川上水の管理を安定的に行う必要から,上水縁を官有地移管や民有地の買い上げ実施を開始した。
 明治19年(1886)東京府は,西多摩,北多摩二郡の編入を申請した。
 明治26年(1893)2月18日三多摩郡東京府移管法案「東京府及び神奈川県境域変更に関する法律」,衆議院提出,同2月28日可決,同年4月1日から三多摩郡は東京府として行政が実施されるようになった。

2.玉川上水通船計画

 多摩川や街道を利用して江戸に物資を馬や船で運搬するには時間や経費が多くかかり,玉川上水に船を通そうという計画が元文三年(1738)から江戸時代には三回出されているが,幕府は上水が汚れるという理由で許可しなかった。
 しかし大量に能率よく運搬できる船運はこの地方の念願で,当時の日本各地においては船運が盛んで,地理的に近い新河岸川の船運も同時期には江戸との物資の交流がさかんであった。
 慶応三年十月に砂川村源五右衛門は,羽村名主源兵衛と,福生村名主半十郎を加え,その二年後の明治二年(1869)九月二日に通船願を出した。

3.玉川上水の通船と運航事情

 明治二年九月二日の通船願から,およそ半年の明治三年四月に,玉川上水の通船願は許可になり「布告書」がでた。
 これを受けて明治三年四月十五日羽村から東京市内大木戸間に通船が開始され,このときの船持は二十一人で船数百四艘であった。上水通船は物流が主目的であったが,客船としての人の交流も見逃せない。上水べりの小金井桜は近郊の観光地として注目され大勢の人びとを運んだ。

4.通船資料(玉川上水通舩一件)

 通船事業の基本資料である(玉川上水通舩一件)は,四冊分を合本されている。土木寮の資料として,明治六年から八年までのいずれかの時期に謄写されたものである。
 内容については,明治二年(1869)の「羽村より通船の割増願」から始まり,通船事業に関連した請書,届,通達,その他の事務文書や絵図など百四十三件綴られている。

5.船の乗客と運賃

 乗船記録による(通船資料集)と巴河岸(現在の砂川町三丁目)から四谷大木戸まで約三十三キロメートルの運賃が,下り一人銀六匁,上り銀十二匁(舟運の上り・下りは上流に向かって上りその反対を下り)また一人の運賃が荷物一駄(馬一頭に背負わす荷重量,日本の近世では40貫)と同額である。
 乗客は,村役人・政府の役人の出張,商用,行楽(多摩から浅草のお酉様参り,小金井堤の花見,などに利用された。
 漢学者 林鶴梁が明治四年九月三十日から青梅・奥多摩を旅行し紀行文を書いている。

6.林 鶴梁 著

  豈止快録(きしかいろく)
鶴梁は青梅から多摩川の下りの船に乗る。船は三十人乗りである。羽村に出て多摩川の本流から直接玉川上水に乗り入れが出来た(鶴梁は玉川上水を支川と表現している)川幅極めて狭い。小金井まで下ると風が背後から起こり舟が走り,両岸の桜の枝が揺れる,午後になると皆弁当を開き,行商をおこなう。「我輩は閑に山水を談して其の中に厠生するもまた一奇なり」と記している。(「西多摩郷土研究 七号」)

7.通船営業許可申請等運行準備

 明治三年に通船許可がおりると,村役人や在地の豪農は,遠く甲州や・多摩の物資を江戸へ安く輸送するために,船の製造や運航許可願,橋の架け替え,船溜り,荷揚げ場の設置を始め,すべての準備が完了すると,船の初乗りが始まる。「船卸し初 明治三午年七月四日小川橋河岸より乗船,昼九ッ時(午前十一時ごろ)出船,船頭甲州鰍沢 庄助召連,御上水乗下ヶ川下」とある。(内野敷隆 里正日誌)山梨県の富士川は古くから船運が開け,川船の造船技術も発達し技術指導として鰍沢の船頭を乗船させたと考えられる。
 また「指田家日記」には明治三年五月九日にも,「船乗様として出府,大木戸一泊」とあり,十三日の帰宅途中,「引上ヶ船ニ,小金井ニ而追付,引上差配いたし」とある。人夫が人力で引っ張り上げる船よりも徒歩の方が早かったし,その上,運賃が下りの倍では,上りの乗船者は少かった。 「玉川上水通舩一件」の中に野中新田(現小平市)の定右衛門からの出願である。
 この願書の内容に「舟毎ニ便桶壱ツ宛用意仕置」と書かれており,乗船者のし尿が上水を汚さないよう配慮したものである。

8.便桶の設置について考察

@便桶は何に使用したのか。
 便桶の使用は大小の用のどちらにになっていたのか?この船は江戸の人々の飲料水の流れを利用した舟運であることから,用水に汚物の混入を防止する目的で便桶を設置したので,船内の汚物量を最小限にする必要があり,小便桶のみとしたのだろう。
A一つの便桶は男女共用か。
 「桜の季節には舟の中から小金井桜の花見もできた。」(玉川上水事典 通川事業)とあるが当時女性は特別の理由がなければ乗船はしない,また林 鶴梁著 紀行文中にも「舟の人は行商」と記しているところから,女性の乗船者は少ないと考えられる。また小便桶を置いただけのオープンの桶では両側の堤の上から見えるので,囲う方法もあるが,船の構造上無理があり,女性は使用できなかった。
B船内尿量の算定
 「玉川上水通舩一件」の書類に「船毎ニ便桶壱ッ宛用意仕,」と明記されており,この船の乗員は船頭一人舟子二名の合計三名で,最長距離の羽村から四谷大木戸まで42.4km,どの河岸からでも略一日行程であった。
 船中での尿量を想定する。健康成人の昼間の尿量は最大1.2リットル,3名の合計尿量は3.6リットルは絶対必要量となる。船の乗客定員を23名とすると乗員3名合計26名の半数(13名)の尿量と仮定すると15.6リットル以上の便桶が必要になる。 C乗客定員の想定・略
D仮想便桶の形状

(1)便桶側面・単位mm(下関市立豊北歴史民俗資料館蔵)
(2)便桶平面・単位mm(下関市立豊北歴史民俗資料館蔵)

E便桶容量
 便桶は蓋付で当時農作業に一般に使用されていたよりやや小型であったのではないだろうか。
 便桶の容量を写真(1)と(2)から試算する桶の平均面積(706.5cm2)桶の有効深さ(34cm 706.5×34=24,021cm3 24,021×0.001=24リットル 桶の容量24リットル÷1人/日の尿量1.2リットル=20人便桶の容量24リットル1日の便桶使用延人員20名となり,この程度の蓋付の便桶を置いたと想定した。

9.出船定日と上り船の所要日数との関係

 玉川上水の管理役所「土木司(寮)は両線の草木竹を切り払え,上水の幅の狭い所では減水の際水溜めをして水行二間幅になるようにせよ。」との命令を出している。
 この命令にもあるように,水量の少ない場合通船可能にするよう幅員を確保する為の処置で二間(約3.6m)幅では,船溜り以外では上り,下りの交差は厳しい状況である。
 そこで下り出船日を「巴河岸」では五・九の日「小川河岸」では四・九・五・十にきめて運行された。下りはどこからでも一日,上りは一日目「新橋上河岸」まで,二日目「拝島村」まで,三日目羽村,一艘の船は予備日を入れて三日ないし四日の運行が可能である。
 上り船と下り船が途中交差しないスケジュールで運行を調整したと思われる。

10.上りの引船

 船の上りは川幅の狭く浅い川は引船職人(人力で船を引く職業)が船を引いて上流にのぼる。川幅の広い川では帆や櫓で漕いで前進させる。また引船の場合片岸で曳くか,両岸で曳く方法がある。
 玉川上水では二つの説がある。
 玉川上水の引船の条件からみると,人口の水路であること,両岸の引船道があること,船の上り,下りの交差がない,条件では両岸からの引船であったのではないか。

11.玉川上水路通船禁止

 明治五年四月十五日政府は東京府に通達して玉川上水の通船を禁止した。船が通れば上水の水はよごれるが,通船に関わっている人々や,周辺の村々の物流が直ちにストップすることになるので,問題となって,舟の持ち主は,新水路を作って通船を続けようとしたが許可されなかった。わずか二年の通船であった。

玉川上水羽村堰
(多摩川がほぼ直角に曲がるところに堰が設けられ,上水は直線に延びている)

※日本下水文化研究会会員