読み物シリーズ
シリーズ ヨモヤモバナシ
和船の歴史と便所
△講話者 松田 旭正 *
コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)
1 はじめに
「ふね」と言う漢字について,舟 船 の主として二種類の文字で表現されているが,「ふね」に関する文献に使用されているそれぞれの文字は「ふね」がどのような形態において「ふね」の二文字が区分され表現されるのか,あまり明確ではないように思われる。
そこで漢和辞典等で調べてみると,舟部(ふねへん)の部首は「ふね」に関する字を作る,とある。「舟」の字のなりたちは,板をめぐらして作った「こぶね」とある。「ふねへん」のつく字の多くは「船」に関係する名称や船の道具名に使われる字が多い。
船 舟(音は周)舩(俗字)『方言』に,関西では船といい,関東では舟という(和漢三才図会5 平凡社)
字の使い分けは船(ふね)・舟(ふな)船…水上の大きな乗り物,舟…水上の小さな乗り物,と漢和辞典(角川書店)にあるが「ふね」の大小で字を使い分けするのもやや無理があるのではないだろうか。
近年急激に増えてきたレジャーボートや水上オートバイは和名でどのように表現するか,以下の辞典もやがて見直される時代も遠くないだろう。
@ふね(船 舟)
木材・鉄などで造り人や物をのせて水上を渡航するもの。「舟」は手でこぐ小型のものに使うことが多い(広辞苑 第5版岩波書店)
Aふね(舟・船・艦)
人又ハ物ヲ載セテ水ノ上ニ浮べ渡ス具 木材又ハ鉄材ニテ中ヲ窪ク作ル 大小製作種々ニシテ小サキハ田舟ヨリ大ナルハ千石船,軍艦等ニ至ル(大言海 冨山房)
Bふね(船・舟)
人や荷物をのせて水上を進む交通機関,ふつう推進力に動力を用いる大型のものは「船」手でこぐ小型のものは「舟」と書く(大辞泉)
2 船の発達
人類が水上を移動するようになると,つぎに人だけでなく物を運搬したいと考えるようになった。さらにできるだけ多くの人や物が運べないかと工夫するようになった。また早く安全に移動するにはどの様な道具「船」が必要かを人々は考え新しい船を造りだしてきた。
しだいに船が発達すると陸上の運搬よりも一度に大量の物資や人を運ぶようになって陸上よりも便利になって来たが,船は海上において嵐に遭い生命までも失う危険が常にあった。近世前期の朱印貿易船のような外航船は,航海でほぼ半数は目的地に到達することができないほど危険な運搬手段であった。
船は主として河川を航行する「川船」と海を航行する「海船」にわけられ,それぞれに大きさや構造が異なるのは川と海では自然条件(気象・地形)の違いや航続距離の違いによるものである。
3 和船とその変遷
明治以前の日本で造られ,使われた船,特に江戸時代初期に考案された船造りの技術「棚造り」,即ち大板を接合わせての船は日本独特のもので,この技術で造られた船を「和船」と言い,この和は船の所属国のことではなく,日本の伝統的な技術で造られた事の意味であります。(出典:和船・お伽話と鉄・屈原・岩手の鉄文化 発行揺藍社和船探求覚之書 菅井但俊)
和船の歴史は,縄文時代の単材刳(コ)船(丸木船)に始まる。瀬戸内海・太平洋では,複数のクスの刳船部材を前後に継いだ複材刳船に棚(タナ)板を取り付けた準構造船をへて,16世紀に刳船部材による船底部を板材に置き換えた棚板造りの船が出現します。軍船を代表するのが安宅船(あたけぶね)と関船です。商船の代表格が二形船(ふたなりふね)
伊勢船・弁才船(べんざいせん)で,クスの木の生育しない日本海沿岸では棚板造りとは異なる北国船・羽ヶ瀬船などの主木(おもき)造りの商船が発達している。17世紀に多種多様であった商船は18世紀前期に弁才船に統一された。(船の博物館資料より)
@千石船(弁才船)
江戸時代から明治の中期頃まで日本各地の生産地から大消費地の大阪,江戸に物資を運び,帰途は特産品を寄港地や出港地に持ち帰る,物資の流通事業の中心的な役割を果たした船である。この船の正式名称は「弁才船」である。
この船の模型は全国各地の博物館・資料館に展示されている。
大型の模型は,東京都品川区の「船の科学館」に展示されている「江戸時代の弁才船」,東京都墨田区にある江戸東京博物館の「菱垣廻船」,富山県高岡市立萬葉歴史館には「遣唐使船」,福岡市博物館にも「遣唐使船」の展示がある。
A復元された「千石船」
近年実物大の復元が佐渡・大阪で完成し展示されている。
新潟県佐渡市・佐渡国小木民俗博物館(千石船「白山丸」の展示が見られる。)
千石船「白山丸」は全長 23.75m 最大幅7.24m積石数512石 帆の大きさ約155畳 安政五年(1858年)佐渡国宿根木にて建造された「幸栄丸」の実物大を当時の板図を元に復元された。
大阪市住之江区なにわの海の時空間 菱垣廻船「浪華丸」復元の基本とした資料は,国立国会図書館所蔵の「千石積菱垣廻船弐拾分一図」。この図は現存する菱垣廻船の図面としては唯一で学術的な評価も高いもので,作図者や年代が記されていないが,垣立の様式などから,19世紀初頭の文化・文政期の作と考えられる。「浪華丸」の大きさは全長約30m,高さ約27.4m 幅約7.4m 船の重量約90トン 帆の大きさ18mx20m(畳の約200畳分)積石数八六五石である。浪華丸は大阪湾を帆走実験され最高速度7ノット(1ノット=約0.5m/S)の帆走ができた。
4 船の大名行列と便所
1 御座船の区分
1.川御座船
川御座船とは,河川で使用する大名の御座船のことで,海上で使う御座船を海御座船(御召関船)と区分するための名称である。
町方で船遊びに使う船を町御座船(町屋形船)と呼び船体・屋形とも形式を異にする豪華船であった。
江戸時代の大阪には,紀伊国丸以下四艘の幕府の川船と参勤交代に利用する中国・四国・九州の諸大名の川船が置かれていた。図1(上)は琉球施設一行を乗せた川御座船一艘目が宇和島藩,後の一艘が長州藩と判断できる。
寛永十一年(1634)建造の紀伊国丸は全長九八尺(29.7m)肩幅二十尺という川御座船としては最大級の大船で,屋形の廻りや室内の装飾華麗極めたものであった。
雪隠は二階下の間五畳にあったと『図説和船史話 日本海事史話叢書1』に記されている。
また『和船・お伽話と鉄・屈原・岩手の鉄の文化揺藍社』の和船探求覚之書に,江戸時代の御座船の便所は船尾舵床の後ろ,左舷甲板に長方形の穴を水面に向けてあけてあり,立派な蓋がしてある。船体と同じ「ウルシ」で仕上げおそらく将軍や殿様以外の人々の用に供されたのだろう。殿様やお姫様は専ら「オマル」を用いた。ただ左舷に不浄の物を設置することは中国船の慣習と同様で中国文化の影響を受けたと考えられる。御座船の便所の使い心地は,武者走りのとも側の垣立の影になるので,余り気にならず用が足せただろうが「とも」のゆれの激しい所なのであまり力めなかっただろう。完全な水洗であり,時に下からの海水で洗い流されて思わぬ自動処置を受けることもあるだろう。(『和船探求覚之書 菅井但俊』)御座船にかぎらず大型船は船尾の左舷から直接水面に向けて放出した。
図1(下)は宇和島藩の川御座船で正徳元年(1711年)朝鮮使節来日の際の迎賓船を措いたもので,船尾に10人の棹を使う水手,櫓を使う12人の水手,屋根の上で指揮するもの,船首の幟は上判事第ニ船とかかれている。
2 海御座船(御召関船)
天地丸は三代将軍家光のときの寛永七年(1630)から幕末の文久二年(1862)の廃船にいたる長いあいだ将軍の御座船の地位にあった。
七十六挺立と百挺立の二通りの説があるが一般には七十六挺立,上口長さ15間3尺,肩幅3間5尺7寸,深さ1間3寸である。
図1 大阪に置かれた川御座船
慶長14年(1609),江戸幕府は諸大名の水軍力削減のために500石積以上の大型船の所有を禁止し,西国大名が持っていた強力な軍船安宅船のすべてを没収した。
諸大名の船行列は御座船を中心に,漕ぎ船,橋船,水船,台所船,供船,用船,『漕ぎ船』は先手船にて御召の船を引くもの,『橋船』とは船にて橋の役目をする,『水船』には船中に水櫃(すいき)を据え置き,水を蓄え積む船,『台所船』または厨(くりや)船,調理するところ,『供船』は行列の供船,『用船』とは御座船に付く厠船,などの船で船団を組む。
3 藩主を乗せた熊本藩の船団
万延元年(1860)の帰国の際に措かれた絵馬は,御座船以下123艘の船団を組み,藩主一行1,186人を船頭・水手等の総勢2,563人の人々で運んでいる。
長い航海と総数延3700余の人達の食料・し尿処理・入浴・飲料水等,日常の生活の必需品確保や,それぞれの作業は,随行する専門船が対応していた。し尿についても,用船(厠船)が付いた。
4 御座船の雪隠
和漢舩用集 金澤兼光編集
1.巻第五 舟名數江湖川船之部においては,用船(厠船)を川御座船に付くと解釈できるが『図説和船史話』では,「雪隠は二階下の五畳間」としている。また江戸時代の御座船の便所は,船尾,舵床の後ろ左舷甲板にあり,長方形の穴が直接水面に向けてあけてあり…将軍やお姫様はおまるを使用した。」としているが,川御座船は大阪から京までの淀川に使われた船で,淀川は川幅も狭く大きな船団は組めなかった。「大阪に置かれた川御座船」の絵を「熊本藩の船団」に比べて見ると用船の方が少ないことがわかる。川御座船の船団の船の数を少なくすると,引船(海船には付く),水船,臺所船,用船など航続距離の短い航海には最小限の供船にしたと考えられ,用船(厠船)をつけない船団にした。
2.巻第三 舟名數海船之部では,用船(厠船)はないが,引船,水舟,臺所船,御召替舟,などがあり,海御座船の船団は航続距離も長く供船が多くなる。厠は,巻第十の船處名之部によると,『下主棚(ケスタナ)湯殿 雪隠,この所にあり。となっており,この場所は『おまる』を使用する間でし尿の処理には,用船を必要としたと考え方が妥当である。
5 弁才船(千石船)の構造
1.弁才船は3−@に述べた通り千石船の名前で江戸時代から明治の中ごろまで日本の流通産業の中心的な役割を果たした大型船であった。「天下の台所」大阪と大消費都市・江戸の間には菱垣廻船という定期船が就航し,上方から木綿,油,紙などを積んだ樽廻船(たるかいせん)とならぶ重要な輸送手段であり,その名の由来は,船の側面に菱組の格子を取り付けてあったことによる。
文化期(1804〜17年)に描かれた1千500石積の菱垣廻船の図をもとに復元された。(江戸東京博物館蔵)
菱垣廻船(船名・寿悦丸)
2.弁才船(千石船)の航海
弁才船(千石船)は帆走するので,江戸時代の商船は,日和待ち,追い風でも強風のときは,風待ちを繰り返しながら沿岸の陸の目標物を目当てに航海する航法『地乗り』で大阪から江戸にむかった。『地乗り』だと遠廻りになる場合には,『沖乗り』,遠沖の直航路を行く航海も行っていた。
江戸時代には港の整備が不十分で岸壁に接岸して荷役を行うことが出来なく,特に吃水のおおきな弁才船は沖に停泊せざるを得ず,荷物は茶船(瀬取船)や上荷船と呼ばれる小船に積み替えて陸揚げした。
乗組員は千石積級で12〜15人前後であった。
江戸時代初期は大阪から江戸までの航海は約一ヶ月程度かかった。しかし天保期になると操船技術の進歩と夜間航行が可能となり,平均12日,早いものは6日の航海であった。
3.弁才船(千石船)の特徴
大きな一枚帆,水押(みよし)と呼ばれる船首材,隔壁が無く大板と梁で構成される船体が特徴である。
弁才船の外観上の特徴は船側の垣立(かきたつ)と呼ばれる欄干状の構造で,船首部の垣立は千石積級で約三尺(約90センチ),船尾部はその2倍程度あり矢倉の側面を構成している。
4.復元された「浪華丸」の海上帆走試験
平成11年7月20日から8月2日まで帆走試験が行われた。船の搭載物重量は約82トン(五百五十石)。今回の試験では横風向かい風にも対応できたと報告書にある。
船内部の乗組員の居住空間を復元し海上生活がわかる資料がないのが残念である。「時空館の関係者は船には便所はありません,帆走時には艫(とも)から放尿したが,当時も同じ様な状況では,」との説明であった。
日本の海では弁才船が活躍した時代,船の便所は特別に必要としなく,水上に直接し尿を流し,殿様・お姫様のような高貴な人達は「おまる」を使用したため,便所を記録として残すことをしなかったと考えられる。
5 黒船「ペリー艦隊旗艦 サスケハナ」
1853年(嘉永六年六月三日)の夕刻,4隻の巨大な黒船が江戸湾に現れ浦賀沖に投錨した。4隻はアメリカ東インド艦隊司令長官ペリー提督が率いる艦隊で,蒸気フリゲートの「サスケハナ」と「ミシシッピ」,帆走スループ※の「サラトガ」と「プリマス」であった。
狭い浦賀水道を帆を使用しないで,自由に航行する大きな船を見て人々はびっくりした。
当時の日本人が目にしていた大きな船は千石船であった。当時の日本の千石船とサスケハナの大きさを比較すると,千石船の積載能力1,000石(150トン)排水量約200トン(船の重量と同じ),サスケハナの排水量は3,824トン千石船の19倍もあった。
1.各艦の概要
「ミシシッピ」は1841年(天保12)12月に完成した,アメリカで最初に建造された蒸気フリゲート,排水量は3,220トン。
帆走スループの「プリスマ」は1843年(天保14)989トン,「サラトガ」は1842年(天保14)882トン,共に木造帆走艦であった。
蒸気艦の「サスケハナ」が「サラトガ」を「ミシシッピ」が「プリマス」を曳航して入港した。
2.黒船の日本に来た目的
ペリーは日本に「開国と通商」を求めるアメリカ大統領フイルモアの国書を日本に手渡し,承諾の返答をもらうために来航した。
3.ミシシッピの航路1852年(嘉永5)アメリカのノーフォクを11月24日出港して,大西洋を横断し,12月12日マディラ諸島に到着した。
マディラ諸島で,石炭,水,食料,を補給し12月15日出港,1853年1月10日セントヘレナ島に寄航,水,食料,石炭,を積んで,ナポレオンの墓に詣で出港した。1月24日喜望峰のケープタウンに入港し石炭,水,食科,の他に12頭の牛と18頭の羊を積み込んだ。2月3日にケープタウンを出港,モーリシャス島に寄航し,次にセイロン島(現在のスリランカ)のゴールを経て3月25日シンガポールに入港,香港,上海,那覇に到着し,日本との交渉の準備と最終の遠征艦隊を編成し,サスケハナを旗艦とする4隻の艦隊で7月2日,那覇を出港し,7月8日に浦賀沖に投錨した。
サスケハナ内部配置断面図(1/4分割図)
※帆走スループ:1本マストに縦帆を持った帆船
(1)艦暦1850年(嘉永3年)12月24日,アメリカのフィラデルフィア海軍工廠で完成した。完成後ただちに東インド艦隊に配属され,ペリーの日本遠征に参加した。1861〜65年南北戦争では北軍所属の軍艦として,活躍した。1868年(明治元年)軍艦籍から除外,1883年売却,解体された。
(2)主要寸法 長さ250フィート(76.2m)全幅45フィート(13.72m)深さ26.5フィート(8.08m)
(3)帆走装置 3本マストのバーク型,帆の総面積1,970平方メートル
(4)推進装置 ボイラ,蒸気機関,外車で構成され,燃料は石炭を燃やして蒸気を発生させ蒸気機関のシリンダ内のピストンの往復運動を与え外車の駆動軸に動力をあたえる。
(5)艦内居住環境
上甲板下の第一層は居住区画で,「分割図1/4」船尾右舷に司令官の便所「第二甲板」に艦長の便所があるが,そのほかの乗組員約300人の便所は配置図には表示されていない約300人の乗組員は,この居住区で寝泊りしている。船尾には提督と艦長の部屋があり,その次は上級士官の居住虜,左右舷(ふなばた)に1〜4等尉官,海兵隊士官,主計官,軍医,軍医補,牧師マスターの部屋がある。
区画の中央に大きなテーブルがあり食堂となっている。機関室と上級士官の間は下級士官の居住区左右両舷に士官候補生,機関室の直前は調理室で調理用の竈が設けられている。
調理室の前方は水平の居住区画で,大部屋で寝台はなく吊り床(ハンモック)が天井からつりさがっている。
居住区の下の甲板は倉庫区画で,その下は最下層で,石炭庫,飲料水用の水タンクが多数置かれ,当時の水タンクは鉄製で鉄さびが出た。「1860年日米通商条約批准書の交換のため,アメリカ船ポーハタンでアメリカに出かけた新見使節団の副使節,村垣淡路守の日記に「飯を良く見ると茶飯かと思うほどであった。どうしたのかと尋ねると,(水タンクの水が少なくなると船の動遥で鉄さびが水と混じったのだ,との説明であった。鉄分だから腹の具合が悪くなることはない,安心していい,)というので仕方なくがまんした。
(6)船の絵図における便所・風呂の表示
船の絵図面において,幕末から明治の中期頃までの日本の船や外国船には,便所・風呂(シャワー)の位置がほとんど明示されていない。このサスケハナは,指令官と艦長の便所が措かれている,が大変めずらしい。その他300名近い乗組員の便所はどこにあったのか?の疑問が残る。船は限定されたスペースにできるだけ多くの必要な物質(食料・水・燃料)と人員を積載する必要から,便所や風呂(シャワー)は無駄なスペースと考えられたのではないか。
特に長い航海をする外洋の船はこの傾向がある。日本の千石船でも明確な記述がない。
特例としては,将軍・殿様・お姫様のような高貴な人の乗る御座船は厠の位置が示されていることもあるがお供の人々の便所については示されていない。
これらの船から出るし尿は,水面に直接廃棄することが合理的であると,考えたのでは,船との関わりを持つ人々は,いまでもこの考え方は変わっていない。
また風呂(シャワー)については,海上では真水は大変貴重なもので,風呂は,「甲板に海水をくみ上げ使用した」と推測して見た。
*日本下水文化研究会会員