読み物シリーズ
シリーズ ヨモヤモバナシ
農民日記『農民哀史』にみる
屎尿の購買・運搬の実態
△講話者 地田 修一 *
コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)
1.はじめに
今日,お話します舞台は,埼玉県の川越の近くの富士見市です。東武東上線に乗って,池袋から普通電車で40分ほどのところにあります。最寄りの駅は,鶴瀬駅です。図−1の地図をご覧ください。一番下のところを東上線が走っており,その中ほどに鶴瀬駅があります。
詩人であり,農民運動家の「渋谷定輔」が生まれ,『農民哀史』や『野良に叫ぶ』の原稿を書いた彼の生家は,この地図の上の方にある旧荒川沿いにある砂原という集落の一画にあります。
鶴瀬駅までは,片道10キロメートルほどです。大正の頃の富士見市のエリアは,渋谷が生まれ育った南畑(なんばた)村など三つの村に分かれていました。
さて,「東京の屎尿は,鉄道によって貨車輸送されていた」という話を,聞いたことがあると思います。一般的には,「昭和19年から30年頃までの戦中から戦後にかけて,東京に屎尿が溢れかえっていたことを打開するために,東京都の要請を受けて,西武鉄道や東武鉄道が緊急避難的に実施していたこと」を,思い浮かべると思います。
図−1 南畑付近の地図
ところが,これより30年も前の大正の初めから,東武東上線の沿線では,東京から貨車で運ばれてきた屎尿を取扱う所がいくつかの駅に設けられていたのです。このことは,案外と知られていません。
渋谷は,『農民哀史』の中で,過酷な農作業の合間をぬって行われた大正末期の屎尿の運搬について,赤裸々で詳細な実態を日記体で書いていますが,今日はこのことを紹介するとともに,この時代の「肥料としての屎尿」の位置付けを明らかにしたいと思います。
2.屎尿を買う
渋谷は,晩年の81歳のときに出版した『農民哀史から六十年』の中で,このように回想しています。
「江戸の昔から,私たちの村で使う下肥は, 東京から荒川,新河岸川をさかのぼって,屎尿専門の運搬船で運んできたもんだ。」
「大正の初めまでは,南畑に船問屋が何軒か ありましたよ。」
「それが,大正3年に東武東上線ができると,物資の輸送は船から汽車に替わった,…」
「屎尿の場合も,東京の集荷業者が汽車で送り出したのを農民が買う。だから屎尿はすでに商品なんですよ。」
渋谷が屎尿の購入に通ったのは,大正3年に開設された鶴瀬駅に設けられていた屎尿引取り所です。写真−1は,その全景です。牛車も見えます。このほかに,昭和2年に駅ではありませんが,屎尿の降ろし場としての仮設のホームが,今の富士見市域の志木駅寄りのところに設置されました。この仮設ホームでの屎尿の降し業務は昭和13年まででしたが,鶴瀬駅でのそれは昭和30年頃まで続けられました。
樽に入れられた屎尿が,毎日,東京方面から貨車で運ばれてきました。そして,多くの農家が牛車や大八車で屎尿を買いに来ました。
ところで,『農民哀史』の主要部分は,大正14年から昭和元年までの1年半にわたって書かれた農民日記です。渋谷は明治38年生まれですので,19歳から21歳までの間の日記です。7冊のノートに書き継がれた克明な記録です。このノートは,その後長い間,生家の納屋の屋根裏で挨をかぶっていましたが,昭和34年に研究者によって発見され,11年後の昭和45年に勁草書房から刊行されました。
先ほど紹介しました『農民哀史から六十年』は,昭和61年に岩波書店から刊行されています。
写真−1 鶴瀬駅の屎尿引き取り所
3.『農民哀史』にみるタメ曳き
「鶴瀬駅にタメ樽を返す…」との記述がありますように,タメ樽(屎尿が入っている樽)は,東京の屎尿集荷業者の持分でした。樽入りの屎尿を購入した農家は,自分の畑の肥溜にあけた後,タメ樽をきれいに洗って,その都度,駅に返しに行っています。
タメ樽の形状については,はっきりと述べていませんが,いくつかの記述を勘案しますと,注ぎ口の小さい,背の高い,ワイン樽のようなものであったと考えられます。
屎尿が満杯に入った 1樽の重さは,12貫目(45キログラム)ありました。
屎尿の値段は,1樽当たり,13銭5厘であったことがわかります。これは,「昨夜,樽が二本足りなかったので担当者に話すと,27銭返金してくれた」との,文からの類推です。
鶴瀬駅にタメ樽が着くのは,通常は午後6時頃でした。しかし,遅れることもしばしばあり,数時間も遅れ,夜の10時過ぎになることもあったようです。
タメ樽の引取り業務は,朝6時から始まり,夜の10時頃まで行っていたようです。貨物ホームにタメ樽が並べられており,事前に予約しておいた数のタメ樽を引取るのです。
写真−2 破堤復旧工事現場(農民哀史の筆者の生家は上部右側)
渋谷は,通常,牛車を使って屎尿の運搬をしていましたが,牛を他の農作業で使っているときは,やむをえず,大八車による人力の運搬になることもありました。ちなみに,大正の半ば過ぎから,馬よりはるかに安い朝鮮牛が入ってくるようになりました。それまで,馬を持てなかった階層の農家でも,朝鮮牛ならば購入できるようになり,農耕と運搬に使うため,その普及が急速に進みました。
タメ曳き(屎尿の運搬)作業を具体的に記述しているいくつかの場面を,次に紹介します。
「午後4時半,製糸工場の汽笛が鳴る。私と弟は田から上り,本家のタメ曳きに行く。牛車4台。鶴瀬駅にタメ樽を返して帰宅すると夜の11時だ。ああ。」
本家のタメ曳きは,小作として借りている田んぼの代金の一部としての頼まれ仕事なのでしょうか。
「けさは3時半に起きて,鶴瀬駅へタメ曳きに行く。正味3時間の睡眠である。…鶴瀬駅に着くころには夜が明けて,ぼつぼつタメ曳きの人びとの姿が見えはじめる。駅の貨物ホームには,すでに,東京から昨夜おそく輸送されてきたタメ樽がたくさん並んでいる。…私より先に引取りに来ている人が,すでに2組はどおり,私は3番目。6時きっちりに係員がくる。荷渡しが始まる。…30分もたたぬうちに樽引取り人と車で満員になる。
私の家ではこのタメを篠山(しのやま)の桑畑の肥料にするのだ。鶴瀬駅から篠山までは2里半も離れている。そこへ1人で運搬するわけだ。これを半日に2回やらねばならぬ。今日は牛車が使用できないので,荷車だから運搬するだけでも相当な仕事である。
私は午前中にこのタメ樽運搬を2回やり,午後から小麦の棒打ちをした。」
片道10kmを2往復運搬したのですから,半日で40kmもの運搬距離となります。駅ま
では空樽としても歩くだけでもたいへんな仕事量です。
「起きると豪雨である。私はすぐ鶴瀬駅へタメ曳きに行く。午前10時ごろまでかかった。…その夜,本家のタメ曳きに行く。…」
この日は,川の反対側の堤防が決壊したそうです。そんな豪雨の中でもタメ曳きを行うとは驚きです。
「ようやく樽を牛車に積む。帰りは下りの宮坂を,牛の手綱を引きしめ,車の両輪にちょうちんの明りをとり,静かに静かに下る。…牛は急坂で重荷に押された首木が頭に突き出され,尻帯(しりおび)が臀部(でんぶ)に食い入っている。何という極度の緊張な労働だ。牛も必死,人間も必死。牛は異常な呼吸をし,私は湯のような汗に冷たさを感じ喉がからからになってくる。」
「午後,鶴瀬駅へタメ曳きに行く…駅に行くと,タメは着いていた。私は12本の樽を牛車に積み,野方の栗(あわ)畑へ運ぶ。…タメ樽を1人で12本,道から40間(約72メートル)も離れた粟(あわ)畑へかつぎ込んだら,全身が痛み出した。終ったころはもう足元が暗かった。急いで駅へ空樽を返しに行くと,急に空腹を感じる。帰りに牛が疲れて歩かず,…食事をすましたら11時をすぎている。」
4.大正末の肥料事情
この頃(大正末)この辺りの農家は,堆肥(つみごえ),牛・馬や人の「糞尿」,草木灰などを自給肥料として使用しました。
「つみごえ」とは,刈り取ってきた草や脱穀のとき出るクズなどを積み上げ,糞尿や風呂の湯水を掛け,発酵させたものです。農地に撒くときに,これに草木灰を混ぜることもありました。また,家畜小屋に敷いた藁と牛や馬の排泄した糞尿とが,家畜に踏まれて混ざり合った厩肥(きゅうひ)も良い肥料になりました。
金を払って購入する肥料としては,東京から運ばれてきた,屎尿(下肥),糠(ぬか),鰯を干した干鰯(ほしか),魚油を絞った後の〆粕(しめかす)や化学肥料を使用しました。
「農民哀史」に出てくる肥料の施肥に関する記述を,次に示します。
「わが家の大豆は,2ヶ月ほど前にはすこぶる貧弱だった。ところが現在ではいちばん上出来だという評判だ。これは私が独断で東京の屎尿を思いきり肥料にした効果だと思われる。」
屎尿は,効き目が速かったので欠かせない肥料でした。ナス,キューリ,ゴボウ,ニンジン,大根,粟などの畑作物に使いました。田んぼには,稲が弱くなって倒れてしまうので入れない家が多かったが,使うときは十分に熟成させたものをタオシブネに載せて撒きました。この辺りでは,昭和37年頃においても,屎尿と化学肥料とを半々くらいの割合で使っていました。
「今日は,野方へ堆肥(つみごえ)送り。私は牛車に堆肥を詰めた天狗俵を20個も積み,1日に4回,2里ほどある野方の畑へ運搬するのだ。」
一方,「農民哀史から六十年」には,施肥に関してこんな記述があります。
「私の村では,大正末期はまだ人糞肥料の時代で,水田には熟成させた後で使ったが,桑畑では穴を沢山掘ってそこにじかに投入した。桑3株に穴一つ,そこで熟成させるんで,茶畑でも同じです。屎尿を充分にやるかどうかで,桑の葉や茶のできがまるで違うので,…」
「私の家の桑畑は5反だったから,500ほどの穴を掘って肥(屎尿)を入れた。季節によって増減はあっても,1週間に10樽から20樽は必要だった。」
「金肥を買うだけじゃなくて,便所,風呂の排水,生ゴミ,ワラ,牛馬のフンや敷ワラなんかも全部有効に使用した。」
金肥の購入について,『農民哀史』はこのように述べています。
「麦の肥料を買わなければならないので,仙台早稲2俵を大和田市場に売りに行く。…帰りに志木町の三浦屋肥料店へ寄る。魚搾り滓1俵(1円につき1貰600匁買える),大豆搾り滓2カマス,カリンサン肥料1カマス,アンモニア肥料1カマスなどを買う。…帰宅するともう日が暮れた。私は急いで野方の畑へ行き,大根や白菜に肥料をやった。」
5.コレラの予防注射
『農民哀史』に,コレラの予防注射についての記述があります。
「東京市にコレラが発生している。…東京市からこちらへ向けて屎尿の樽詰めを毎日発送してくるとは危険千万だ。…川越市外の田面沢(たもざわ)村野田に発生したというコレラ患者は,おそらく東京から輸送されてくる屎尿関係からではないかと思われる。」
「コレラの予防注射をするために学校へ行く。…」
渋谷は,「東京市衛生課への抗議」と題する一文を『東京日日新聞』へ送っています。また,村にはコレラの予防を議論する常設の場がありました。コレラを予防するワクチンがあり,希望者に接種していました。
6.詩集「野良に叫ぶ」にみるタメ曳き
渋谷が17〜19歳の頃書いた詩・73編を収めた詩集が,『野良に叫ぶ』です。平凡社から大正15年に刊行されています。その中の「沈黙の憤怒」の一節を次に掲げます。
「……
コケっぽな奴だねきみ
百姓なんて
夜こんなにおそくなってタメなんかひきにいくんだからよ
……
こんなかぎりない嘲罵(ちょうば)と冷笑を浴びながら
内部にさか巻く熱い血汐と
魂の憤怒とをじっとこらえて
夜十時過ぎに停車場へタメひきにいく
おれは純粋の土百姓小作人
青年牛方 渋谷定輔だ」
青年農民・渋谷は,「熱い血汐」あるいは「魂の憤怒」という言葉を使って,社会的な偏見に負けまいとする誇りを憤激して叫んでいます。
もう一篇,「牛よ」の一節です。
「四本の足に食い入ったヒルは
トウガラシのように真っ赤にあからんでいる……
腹までひたる深いどぶ田を
やっとこ やっとこ
たいぎそうにのたくる
……
その姿は
ただ人間のためのみの生産に一生涯
ああ 生き血を絞り肉をそがれて死んでいく牛よ」
人間が人間を支配し,その支配されている人間(渋谷自身)が牛を支配している構図に対する複雑な想いを吐露しています。渋谷にとっては,牛はいつも傍にいる兄弟のような存在であったのです。
7.おわりに
渋谷が晩年に述べたこんな言葉を紹介して,今日の話を終りたいと思います。
「いわゆる有機農業ということだが,さて,そのよさを残し,昔おれたちを苦しめた欠点をなくすのは容易なことじゃないと思う。しかし,これを実現しないと人間の健康が危ないとなればどうしても取り組まなければならないわけだ。時代が一巡りしてきたという感じがしますよ。」
『農民哀史』ノート包み
【参考文献】(本文中で明記したものを除く)
1)『荒川流域の文学』:埼玉文芸家集団編,さきたま出版会
2)『富士見のあゆみ』:富士見市史編纂室,富士見市
(本講話は,平成19年11月17日に東京・市ヶ谷の日本水道会館の会議室で行われた第9回下水文化研究発表会におけるものです。)
*日本下水文化研究会会員