屎尿・下水研究会

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シリーズ ヨモヤモバナシ



都市近郊農村の下肥利用

△講話者 堀 充宏 *

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

1.近郊農村と下肥

   葛飾区,江戸川区域は昭和30年代まで一部の地域には農地が多く,農村としての景観を保っていました。これらの地域は利根川水系の堆積作用によって形成された沖積平野であり,一般に低く平らな土地が広がっています。そのため江戸時代以来水田の開発が進んで,近代になっても水田稲作が盛んに行われていました。
 これらの地域には「葛西の田んぼは三度びっくり」という言葉が伝わっていて,現在も七十歳代くらいの人から上の世代の方からときどき聞くことがあります。この意味は,「葛西の田んぼというのは,田植えをした後,田の草をとろうと田んぼに行くと青々としていて今年はとれそうだとびっくりする。また,稲刈りをするころになっても良く伸びていて穂もたくさん出ているのでびっくり,ところが稲刈りをしてみるとぜんぜん実が入ってないのでこれまたびっくり」ということです。「わが子と稲草の自慢はするものではない」ともいいます。
 このことから想像されるのは,田んぼに入れる肥料が窒素過多になっていることです。これらの地域の水田の肥料には江戸時代から下肥が使われており,しかも堆肥の材料として用いるのではなく,直接水田に入れるという農法が取られていました。下肥は非常に窒素が多く,これを元肥として用いていたため稲草の伸びの良い,しかし実りの悪い稲になりがちだったのではないかと想像されます。  ミトラズという稲が葛飾区,江戸川区で昭和50年代まで栽培されていました。これは正月のしめ飾りの材料として使われる稲で,まだ穂が出ないうちに稲刈りをしてしまいます。青々とした色がしめ飾りに好適なことからこうした稲が作られました。このミトラズの栽培には下肥が適していて,稲の茎を青く長く伸ばすために大量に投下されました。蓮根の水田には大量の下肥が入れられますが,ミトラズをこの蓮根の水田の緑のほうにぐるりと植えることもありました。
 下肥を直接水田に入れるという農法はかなり特殊なもののようです。まず古老たちの経験談に耳を傾けることにしましょう。水田の肥料は元肥として田植えの直前に入れられます。そのため水を張って田植えをするというと,人糞が浮いてきてしまい,いかに下肥に慣れているからといってかなり厄介です。また,蔬菜畑と違って広い水田にまんべんなく下肥を施すのはむつかしく,「肥えぶち」というこの仕事はかなり熟練した人が行うものとされていました。田んぼの中には藁を折りたたんだものを置いて目印とし,そこをめがけて下肥をひしゃくで飛ばします。この目印を「せいま」といい,下肥を打つ作業を「製麻を切る」といいました。また,水田のなかに下肥を持ち込むことはかなりの労力を要します。通常はてんびん棒で桶を担いでいきましたが広い水田には「おかだめ」といわれる仮設の肥溜めを設置しました。おかだめとは1石ほども下肥の入る大きな桶で,これを足で転がして水田のなかに運び,ここに一時的に下肥を貯留しておきました。こうした特殊な技術が水田で下肥を直接使用する東京東郊の農村に見られました。





写真−1 掘り上げ田での作業

 おなじくこの地域の古老の言葉に「下肥の呑み倒れ」というものがあります。これは水田にあまり下肥を入れすぎると稲が倒伏してしまい,病虫害をこうむりやすいということをいっています。下肥が必ずしも水田の肥料として好適でないことをこの地域の人たちは経験的に知っていたようです。しかしそれでも下肥を水田に使い続けてきたのはなぜでしょうか。
 それは東京という大都市を控え,そこで排出される人糞尿が一年中,たえまなく供給されるという事情と,この地域が低湿地で堆肥を作る草山がほとんどなかったことに由来しています。後で述べるようにこの地域には水運が発展しており,船で大量の下肥を運ぶことができたのですが,実は下肥に頼らなくては耕地を維持することができない地域でもあったのです。山もなく,一部を除いて海もない東京東郊の農村の耕地は下肥で維持されていたといっても過言ではありません。この地域の農地の開発が江戸の町が拡大するとともに進んだこともそれを証明しています。

2.葛西の名菓と下肥

 一年中下肥が供給されるという事情に対して,下肥の利用が稲作だけではとうていおいつきません。下肥の利用も一年中絶やすことなく行う農業が展開されることが必要です。東京東郊の農村ではコカブ,小松菜,ねぎ,亀戸大根,枝豆などの優良な蔬菜類が栽培され,都市の市場に出荷されていきました。
 こうした生鮮野菜は冷蔵技術が未発達な近代以前は都市近郊農村の独占的な生産物であり,都市と農村を結ぶ紐帯でもありました。東京東郊に都市の人糞尿の供給を受け,都市住民の需要に応える生鮮野菜を栽培するという,都市近郊型の農村地帯が形成されるのは江戸時代後期の元禄時代ごろといわれています。
 この都市近郊型の農村は当初江戸の町にごく隣接した地域にありましたが周辺へ周辺へと拡大していきました。現在の葛飾区,江戸川区,足立区付近が都市近郊農村型の地域になっていたのは明治時代末期のことでした。これらの地域で栽培され,都市に供給された蔬菜が具体的にどのように下肥を利用して育てられたのか,少しくわしく見てみましょう。
 蓬根−葛飾区新小岩,堀切,江戸川区小松川,葛西などには蓮根を栽培する水田が多く,昭和40年代まで見られました。これらの蓮根は大正時代に増えたもので,水はけの悪い水田を転用して蓮根栽培に使っていました。この蓮根には元肥として下肥を大量に投下しました。聞き書きでも蓮根の水田には肥桶ごと入れたとか,バキュームカーの時代になってもホースから直接入れたとか言う話を聞くことができます。大量の下肥は元肥を入れる3月下旬だけでなく初夏にも追肥を入れます。大変富栄養化した水田だったと思われますがそうしたところに優良な蓮根が育ったそうです。また,蓮根のほかに慈姑や水せりを栽培する水田もありました。足立区保木間にはつい最近まで残っていました。

写真−2 大根と元気な子どもたち


写真−3 肥桶のある風景

 長ネギ−東京東郊で作られたネギは春種を播いて冬に収穫するものが主流でした。下肥は元肥として3月中旬にたっぷりとまいておき,その後も一ヶ月に一度施肥するので非常に多くの下肥が必要でした。『東京府農事要覧』にはねぎの栽培法として元肥として一反歩につき三十荷の下肥を施すとあり,これは稲を作る水田の1.5倍の量に当たります。これほど多くの人糞尿を費やすことによって,ねぎの白軸が長くなると考えられており,また品質もやわらかくなりおいしくなるとされていました。「芸者の首とネギのくびは白ければしろいほどよい」とねぎを取引する足立区千住の市場ではいわれたものですが,その栽培の秘訣は多くの下肥を施すことにありました。
 きゅうり,なす−きゅうりやなすなどの夏収穫できる野菜は,早春に苗床を作って種を播き,苗を育てます。この苗床は東京東郊では「江戸ごみ」といって東京都心部の家庭から出るいわゆる生ごみを発酵させて利用していました。一般的には落ち葉や藁,ぬかなどを使って発酵させるのですが低地でこれらの材料を産出する山がないこの地域では下肥と同じように都市の生活廃棄物を利用したのです。
 そして夏野菜の苗を本畑に定植後はやはり一週間に一度の割合で下肥を与えていました。この地域では6月10日ごろに初なりのきゅうりを出荷することを目標としていましたが,苗床での育苗や定植後の下肥の与え方は促成栽培の技術の結晶ということが出来ます。

3.下肥を運ぶ船

 江戸時代末期から東京東郊の農業は下肥が支えてきたといっても過言ではありません。そしてこうした下肥に依存した農業を支えてきたのが下肥を運搬する船だったといえます。低地で縦横に水路が発達していたこの地域では下肥を運ぶためのさまざまな船が発達しました。これは陸路を馬の背に頼って下肥を運ばなければならなかった東京西郊の台地部とは対照的だったといえます。
 伝説的なものになっていますが東京東郊には江戸時代「葛西船」と呼ばれる下肥運搬船があり江戸城内の下肥を運んでいたともいわれています。葛西船は江戸時代の川舟に関する記録である「船鑑」にも記載されていますので,こうした船があったことはまちがいないことでしょう。江戸城の下肥云々よりも江戸の町方の下肥を運んでいたことのほうが重要な事実といえます。
 葛飾区立石には江戸時代から船による下肥の運搬,販売を生業にしていた家があって,安政年間の下肥取引に関する記録が残っています。それによると本所菊川町の大久保肥後守邸の下肥の汲み取り権を3ヵ年にわたり22両で買い取っています。これらの下肥の売りさばき先は東京東郊から埼玉低地を流れる中川流域で,現在の葛飾区域,八潮市域,三郷市城となっています。
 こうした下肥運搬の商売は東京東郊の富裕な農民たちによって行われていました。葛飾区水元,新宿,奥戸などにはとくにこうした商売を行う家が多かったといわれています。葛飾区新宿の日枝神社にはこうした商売に携わった人たちが昭和3年に奉納した絵馬が残っています。彼らは水神講という講中を作っていました。水神講では年に一度,7月1日に水神祭りを行って親睦を深めていました。太平洋戦争前まで水神講は続いていましたが,祭りの日は船で中川に出てお囃子をあげ,にぎやかにお祭りしました。また,この日は相撲興行が催され近郊の農村から八幡講という素人相撲の結社が参集して相撲を行いました。このようなにぎやかな祭りを行うだけの財力が下肥運搬を生業とする家々にあったということがわかります。おなじような下肥運搬業者の,綾瀬川における結社を綾瀬川講中と呼んでいました。綾瀬川講中のメンバーは足立区,草加市の広い範囲に及びかれらの奉納した水神祠が葛飾区堀切の小谷野稲荷神社に祀られています。
 さきにあげた「船鑑」によると葛西船はごく小さな船で(正確な寸法ははいっていませんが)下肥を運搬するといってもたいした量はつめそうにありません。これも先にあげた葛飾区立石の下肥販売業者の保有していた船は「長船」といって,この家に残されている明治21年の記録(仕様書)によると船の底に当たるシキの長さが約12メートル,幅が約2メートルという大きな船です。この長船はその後東京東郊の下肥運搬の主役として活躍することになるのですが,実際に長船に乗ったことのある人や作ったことのある船大工からの聞き書きによると船のミヨシ部からトモ部までの長さは大きいものは16メートルに及んでいたそうです。そしてセイジという船室がついていて船頭ともう一人くらいは寝泊りすることが出来ました。
 実際,足立区六木あたりにはこの長船で暮らしながら下肥運搬に携わるような人もいて,お正月には中川の堤防に門松を立てていたといいます。長船を持つことはこうした船頭たちの夢で,自分の船で下肥を売買することが出来るようになるにはたいへんな苦労があったようです。現在八潮市に住む船大工さんは,この長船を製作した経験を持つ人ですが,砂利運搬船などの船よりも,釘を隠す化粧板などに銅版を使ってぜいたくにしたといいます。この船を注文することは船頭として誇りで,出来上がった船に人糞尿をつみこむときは複雑な思いがしたといいます。
 船を扱っていた船頭さんたちの話によると「船一艘は一町株」といって下肥運搬船が生み出してくれる富は一町歩の耕地と同じくらいあるといっています。平均的な規模の長船は肥桶260杯分の下肥を搭載することが出来たといいます。これを各農村に販売するわけですが,途中下肥の水増しなどの不正行為も行う人もいて,半ばこれが常習化していたことから下肥運搬業者の利益はさらにあがったようです。足立区千住にあった遊郭では下肥を運ぶ船頭は一番の上客だったそうです。

写真−4 下肥運搬船で行楽に

 長船はその名のとおり細長い船で,綾瀬川などの小さな川でも航行しやすく,岩槻市域まで昇っていくことが出来ました。また中川でも松伏町付近まで長船が行きかっていました。川沿いの各集落では下肥を積みおろしする河岸を設け船が着いたときは集落のひとがみな出て共同作業で下肥をおろして運んでいました。船から降ろすときには「やいび」といわれる幅後10センチほど,長さ20メートルほどの板をわたって積みおろしします。このヤイビはよくしなるので重い肥桶を担いでおりるのは難しく,若い者はよく下肥とともに川の中に転落してしまったといいます。
 下肥を運ぶ船は昭和30年代まで活躍していました。戦時中,下肥運搬船が不足していたことから「農民汲み取り制度」が実施され,各農家が直接割り当てをもらって下肥を汲む方法が取り入れられ,牛車やリヤカーが下肥運搬に使われるようになりました。また,下肥の供給が千葉県や埼玉県の広い範囲に及ぶようになった昭和10年代以降はトラックによる輸送や列車による輸送が主力となり,次第に長船で下肥を運ぶという風景は少なくなっていきました。

4.いらないものを活用する

 下肥を農業に使うということに対する歴史家の評価はふたとおりに分かれています。ひとつは都市の人糞尿を近郊農村が使うというシステムをリサイクルのさきがけとして高く評価する立場と,下肥は寄生虫や不快害虫の温床となり,伝染病などの原因となったということを主張する立場です。
 この二つの評価はどちらが正しいというものではなくそれぞれ事実であり,どちらにくみするかは価値観の違いとしか言いようがありません。しかし現代社会に目を転じたとき,私たちが快適な生活を送るために膨大な食料や資源が廃棄物になって捨てられている現状があります。これから先,下肥を農業で活用することはないと思いますが,その発想自体には大いに学ぶべき点があるのではないでしょうか。

(写真出典は全て「図録 肥やしのチカラ」葛飾区郷土と天文の博物館から)

*日本下水文化研究会