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江戸の下掃除代金の高騰にみる行政の対応

△講話者 桝下 重雄 *

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

 江戸近郊農村の人たちが江戸の町の下肥を購入するシステムは,18世紀後半にはできあがっていましたが,新田開発による草刈り場の減少,不漁続きによる干鰯供給の低下などが肥料不足を招き,割安な下肥に対する需要が高まり下肥代が高騰してきました。
 寛政年間(1789〜1801)になると江戸の下肥の値段は,延享・寛延年間(1744〜1751)の3倍にもなり,江戸東郊の農村を中心に下肥代値下げ運動が何度となく行われました。
 そこで今回は,江戸古文書に詳しい桝下重雄氏に,下掃除人(百姓)と町方と奉行所との間の下掃除代金に係わるやりとりを解説していただきました。
                                 (地田 修−)

 江戸の古文書(御触書,訴状,報告など)にみる「下肥値下げ運動」について,お話したいと思います。

下掃除人からの訴え
      (寛政2年(1790)3月)

 下掃除人の代表(百姓)から町年寄へ,「高騰している屎尿の汲取り代を延享・寛延の頃の値段に下げてもらいたい。」旨の訴えが,寛政2年(1790)3月にありました。町年寄は町人の最上位の存在で町奉行の支配を受け,名主たちを統括し,奉行所と町人との連絡調整の役目を担っていました。樽屋,奈良屋,喜多村の三家が世襲で,交代で月番を勤めていました。
 この訴状は,前文で,このように言っています。「近年,糞代金が高値になり,農作物の値と下肥代が引き合わなくなり困っています。下肥代が下がれば農作物の値も下げられますし,百姓を楽に続けることができ,年貢もきちんと払えるようになります。」と,下肥代の値下げについて奉行所から御触を出して下さるよう以前お願いしましたが,奉行所は「このようなことは当事者同士が相対で決めることであって,御触でどうこうする筋合いのものではない。」との立場をとられました,と。

写真−1 下掃除権の売渡の書類
(特別展「肥やしのチカラ」図録(葛飾区郷土と天文の博物館))

 そこで,我々百姓は仲間うちで,次のような取り決めをしました,といっています。すなわち,
 「@ここ40〜50年の間に,下掃除代金が武家屋敷で年間20両であったものが今は60〜70両に,また町方でも年間10両であったものが30〜40両に値上がりしているので,前の値まで下げるよう我々が相手と交渉する。A他人の下掃除の権利を新たに競り落とす者がいるが,これを禁止する。もしそのようなことがあったならば,村役人を通じて元の汲み取り人に戻す。B下掃除人が下掃除先の意向に背くようなことをした場合は,すぐに掃除人を他の者に変え,下掃除先にさしつかえのないようにする。C下掃除代金値下げの話し合いが困難になった場合は,20〜30日間下掃除を休むようにする。」などです。この申し合わせには,32ヶ領,874ヶ村の者が合意しています。

写真−2 下肥の施肥
(特別展「肥やしのチカラ」図録(葛飾区郷土と天文の博物館)

名主側の反論     (寛政2年3月)

 これを受けて,町年寄が名主の代表(年番名主)にこの訴状の内容について意見を求めたところ,反論が出ました。名主は平均6〜7ヶ町を支配していましたが,「家主が自由に下掃除人を変えられることのできるような,今の慣行が保障されなくなる不都合が起きるから」というのが,その主な理由です。
 家主は,「いえぬし」あるいは「やぬし」と読み,貸家の持ち主,もしくはその代理人として貸家の管理や住人の世話をする人をいいます。

町奉行が両者に話し合いを促す              (寛政2年12月)

 下掃除人と名主との言い分を勘案して,当初,勘定奉行が「現在の下掃除人がいう値段と同等であったならば,家主が下掃除人を変えてもよいのではないか。」と,折衷案を出しましたが,双方が譲らずまとまりませんでした。
 そこで今度は町奉行が,具体的な解決に向けて両者の代表(下掃除人(百姓)の総代20人,名主の総代21人)を呼び出し,下掃除代の高騰は作物の値段にも影響し,江戸市民の生活にかかわることである。このことをよく考えた上,当事者同士で下掃除代の値下げについて話し合いをし,その結果を翌年の正月晦日までに年番名主まで報告するよう,強く働きかけを行いました。

写真−3 下掃除先よりの受取り
(特別展「肥やしのチカラ」図録(葛飾区郷土と天文の博物館))

 奉行所としては,下掃除代の具体的金額の決定は,あくまで民と民との間のこととして官は口出しをしないという立場を貫いています。

年番名主からの報告        (寛政3年2月)

 なかなか話し合いがまとまらなかったので少し遅れましたが,翌年2月に,年番名主が下掃除代値下げの状況を町奉行に次ぎのように報告しています。
「江戸市中の家主(21,115人)のうち,値下げしたもの:7,973人(38%),従来どおりの金額を下掃除人が持ってくるもの:1,886人(9%),無料又は農作物を受け取っているもの:1,048人(5%),話し合いがつかないもの:1,141人(5%),値下げされては困るもの:868人(4%),…であった」と,いうものです。そして報告の最後に,「家主が下掃除人を自由に変えられることは,今まで通りにしてほしい。」と,書き添えています。
 この報告書には,江戸の町を代表する49人が署名しています。江戸市中には21の番組と番外として品川と吉原の計23の地区がありましたが,一つの地区から2〜3人の代表が署名していることになります。
 下掃除人たちからの突き上げが名主たちにあったりする中で,「おおむね解決しつつありますので,この件からもう手を引きたい。」旨の年番名主の申し出に対して,町奉行は完全に解決するまで継続して残らず話し合いを済ませるよう再度指示しています。

再度の報告    (寛政3年10月)

 再度,下掃除人との調整を行い,下掃除代の値下げ状況を年番名主が町奉行に報告しています。その中で,「19,868人の家主のうち,話合いがついたもの:72%,無料又は農作物を受け取っているもの:7%,…であった」と,いっています。そして最後に,「今までと同様に,家主の考え通りに下掃除人を変えられるようにしてほしい。」と,念を押しています。
 この報告に対する奉行の返事は記録に残っていませんが,下掃除人たちは当初の目的をなんとか達成し,とりあえずこの時点でひとまず決着したものと思われます。

下掃除代が高騰した原因

 下掃除代が値上がりした原因としては,農作物増産のため下肥必要量が増加したこと,家主の方が下掃除人より上位の力関係にあったことなどが考えられます。ある資料によると当時は,農家収入に対し支出される下肥代は4割にものぼっていたそうです。
 やがて,農家ではないが,下肥を商品とみなし大量に仕入れて,農家に高く売りつける町人が出てきましたが,これが下肥の値上がりにつながっているとみた奉行所は,寛政4年(1792)に,この行為を禁止する御触を出しています。

写真−4 下肥値段表
(特別展「肥やしのチカラ」図録(葛飾区郷土と天文の博物館))

幕末における奉行所の御触

 幕末も近い天保14年(1843)の奉行所からの御触では,野菜の値段が高騰したことを理由に,「今の下掃除代を1割引き下げること」と,具体的な数字を挙げて指示しています。
 この頃になると,民と民との話し合いだけでは解決がつかない状況になってきたことがうかがえます。一歩踏み込んだ行政指導をしています。

江戸にも小便溜桶が

 江戸は,大坂・京都(大便と小便とを別々に貯留しておき,ともに肥料として売却。貸家の場合は,大便は家主の,小便は借家人の収入。)とは異なり,大便だけを肥料とし,小便は溝などに垂れ流していたといわれていますが,江戸の古文書の中に次ぎのような記録があることから,18世紀の末になると,大坂ほどの数ではなかったかもしれませんが,かなりの数の小便溜桶が江戸の市中に設置されていたと考えられます。
 それは,天明4年(1784)3月の武州葛飾郡の百姓3人からの「江戸市中の辻々や土手下などに小便溜桶を置きたい」との町年寄への申し入れに対する,年番名主からの回答です。
 それは,「@小便溜桶は,すでに江戸市中に160ヶ所ほどあり,その尿は専門の下掃除人が汲みとっています。Aこのほか,八つの町では地主などが自分の田畑の肥料にするため,小便溜桶を道路端に設置しています。Bこれ以上数が増えると,通行のじゃまになり,夜そこに足を踏み込んで怪我をするおそれもあり,ひいてはその土地の値が下がってしまいます。Cただし,本所,深川に新しくできた町には設置してもかまいません。」と,いうものです。

注)写真−1〜4はいずれも本文とは直接関係ありません。
 参考として「肥やしのチカラ」図録より適宜抽出したものです。(編集部)

(本講話は,平成17年2月27日に,東京・飯田橋の東京ボランティア・市民活動センター会議室で行われた日本下水文化研究会の第33回定例研究会における話をもとに再構成したものです。)

*日本下水文化研究会会員,元東京都下水道局