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平安・鎌倉における屎尿にまつわるよもやま話

△講話者 相原 篤郎 *

コーディネーター 地田 修一(日本下水文化研究会会員)

 今回は主に,10世紀後半〜12世紀・平安時代から13〜14世紀・鎌倉時代にかけての京都の町における貴族や庶民の排泄や便所について,絵巻や物語を資料としてその実態を探ってみました。
 パソコンを駆使して絵画の一部をクローズアップして斬新な視点を示すなど,随所にユニークな見解が披露されました。(地田修一)

樋洗童

 芥川龍之介に「好色」という小説がありますが,これは「宇治拾遺物語」(鎌倉初期)の「平貞文,本院侍従の事」を下敷きにしています。好色で鳴らした平貞文は懸想した女(本院侍従)を忘れ切れずにいたが,その思いを断ち切るためにその女の「おまる」の中身を見れば幻滅するだろうと,家来を使って「おまる」を取り扱う樋洗(ひすま し)からそれを奪い中身を見るという話です。
 「紫式部日記」では樋洗童(ひすましわらは),「字津保物語」や「和泉式部日記」では樋洗,「枕われています。樋道路側溝へ流れ込んでいました。
 「字津保物語」は,奈良の春日大社へ参詣に向かう男60〜80人,大人の女40人,若い女20人,下女20人という大勢の行列の中に,樋洗が6人同行していたと記しています。

樋殿

 寝殿造の邸宅には便所といえる定まった場所がなく,御簾で仕切られた樋殿(ひどの)と称する一画を設けて,移動便器の「おまる」に排泄していました。おまるは,大便用が樋箱(ひばこ)とか清箱(しのはこ)と,女性の小便用が虎子(おおつぼ),男子の小便用が尿筒(しとづつ)と呼ばれていました。
 十二単重の着物を着ている女性が「おまる」を使うのはたいへんだったと思われるでしょうが,樋箱にはT字型の支えが付いていて,これに長い裾を掛けて着物の中に「おまる」を入れてしゃがみこんで排泄していました。
 道路側溝から暗渠(木樋)で屋敷内に引き入れた水路にしゃがんで直接ここで排泄することも行われましたが(貴族の使用人などが),下流の側溝に排水する前にトラップを設け糞便を垂れ流さないような配慮をしていたと想定されています。ここも樋殿といいましたが,いわゆる「カワヤ(川屋→厠)」の語源はここからきています。

野糞

 一般の庶民は,どのように排泄していたのでしょうか。「餓鬼草紙」(12世紀後半・鎌倉初期)には,崩れた築地塀に沿った道端で老若男女が足駄を履いて排泄している姿が描写されています。
 このように,屋敷の裏や町の片隅の空地に排泄の場を定めていました。当時,庶民のほとんどは裸足か草履であったので,履いている足駄は足元や着物の裾が汚れることを避けるための共同使用のものであったと考えられています。零落した家のまわりの小路は,共同の野糞場として格好の場所だったのでしょう。極めて素朴な共同便所であると推定されます。

図−1「餓鬼草紙」の足駄の拡大

 この絵を良く見ると,排便時には左足に重心がかかり右足が浮き気味になるため,結果的に右の足駄が横にずれています。このことは,「足の裏から見た体」(野田雄二 著)の実験データに基づいた記述からも裏付けられると私は考えています。その意味で,この絵は排泄風景をよく観察して描いたものであるといえます。

 都市の清掃役としてのイヌ

 平安京では,イヌが家庭や街路・墓地で残飯・汚物・死体などを食べて環境を浄化していたそうです(黒田日出男氏)。
 都市では多量の廃棄物が作り出されていたので,イヌは都市に集中していたのです。この廃棄物の中に,人糞も当然含まれていました。イヌ(野犬)が都市を清掃していたのです。イヌが都市の社会的・公共的機能を代替していたのです。他にイヌと同様の役割を演じていたのは,カラスです。
 逆に,イヌの集団に襲われる保護を失った孤児の最期も文献に描かれています。平安京では道路や空地に病者や孤児が捨てられたため,しばしばイヌの餌食となったのです。

汲み取り便所の出現

 「慕帰絵」(14世紀半ば,鎌倉後期)には,土を掘ってそこに2枚の板を渡した,屋根を葺き側板のある便所が措かれています。便所から今出てきたらしい若い僧が足駄を履いて,袈裟を肩に掛けて立っています。
 同じような便所が「法然上人絵伝」(14世紀前半,鎌倉後期)に措かれていますが,便所の前で履いてきた足駄を脱ぎ,便所専用の足駄に履き替えて,さらに着ていた袈裟を便所の側に掛けて用を足しています。まさに,排便中の法然上人の姿で,「厠の念仏」という場面です。

図−2 「慕帰絵」の便所

 これらの絵巻が画かれた14世紀後半には,汲み取り便所がはっきりと現れ,この頃から人の糞尿が農作物への肥料として本格的に利用され始めたと考えられます。これには,糞尿のような液肥の運搬に欠かせない結い桶の製作・普及が発達したこともあいまっています。

尿の薬効

 「一遍聖絵」(12世紀末,鎌倉後期)の中に,一遍上人を多くの善男善女が囲んでいる絵があります。良く見ると,上人の股間には「尿筒(しとづつ)」が差し込まれています。上人の尿を頂こうというわけです。
 尊い人の尿には病を治す薬効があると信じられていたからです。この尿筒も移動便器の一つです。
 「信貴山縁起絵巻」(12世紀後半,平安末期)には,童子が尿筒を捧げ持って僧侶たちの後からついて行く情景が措かれています。これは,僧侶が尿意を催した時のための用意でしょう。

屎尿に関する笑い話

 「今物語」(室町)に,こんな話が載っています。「ある説教師が,説法をしている途中で便意を催して御布施を貰わずにそうそうに退席し,便所に駆け込んだが出るのは屈ばかりでした。次の説教中にもやはり便意を催したので,今度はがまんをして屁をしていたが,とうとうがまんできずその場に排便してしまい,はずかしい思いをした」というものです。娯楽のない時代の笑い話です。
 「古今著聞集」(鎌倉中期)には,「ある宮中の女房のところに間男に忍び込んだ法師が,ことに及んで尿意を催し,「おまる」を探したがなくて,とうとう部屋の隅で排尿してしまった。ところが,境の引き戸の孔から尿が隣の部屋に飛び散り,寝ていた別の女房の顔に降りかかってしまった。これに慌てたその女房は,雨が降って来たと大騒ぎをした」という話があります。同じ本にこんな話も載っています。こちらは,「智了房という者が,書写するためにある人から「古今和歌集」を借りたが,いつまでたっても返してこない。不審に思って問いただしたところ,尻を拭く紙がなかったので書写した方も原本もそのために使ってしまった」というあきれた話です。

図−3「法然上人絵伝」の厠の念仏


図−4「一遍聖絵」の尿を求める人々

 このほか,「今物語」や「福富草紙」(室町)には,屁をした相手を慮って機転を利かしてその場をとりつくろう話が出てきます。

糞尿への賛美

 三島由紀夫は「仮面の告白」の中で,肥桶を天秤にさげて運搬している汲み取り人と行き会ったとき,たいへん感激し「糞尿は大地の象徴である」と賛美しています。

糞尿による健康管理

 「はばかりながら「トイレと文化」考」(スチュアート・ヘンリ)は,著者が旧中山道を旅したとき見聞した次のような話を紹介しています。
 「長野県の妻籠宿の脇本陣に奇妙な雪隠があった。「明治天皇便所」と書かれた札のかかった広さ二畳ほどのたたみ敷きの間の中央に,陶器製の和式の便所が鎮座している。
 明治13年に明治天皇が巡行して脇本陣に泊まったときに特別にあつらえられたトイレだ。…その便器には排水孔がない…。あとで,天皇が用便をすましてトイレを出てから,侍医が検便して天皇の健康を管理していたことがわかった。」


(本講話は、平成16年12月17日に東京・飯田橋の東京ボランティア・市民活動センターの会議室で行なわれた第32回屎尿研究会例会におけるものです。)

*日本下水文化研究会会員,東京都下水道局