読み物シリーズ
シリーズ ヨモヤモバナシ
トイレに関する文献紹介と総合トイレ学の提唱
△講話者 森田英樹
コーディネーター 地田修一(日本下水文化研究会会員)
私は学生の頃西洋文化史をやっておりまして,現在は高校で世界史の教員をしている,まったくの文科系の出身です。
現段階で私が収集した文献に多くの漏れがあることは承知していますが,基本は押さえているつもりです。発行年を追って話しを進めたいと思います。
1.便所学の系譜
(1) 『海軍医事報告撮要第六七号』
大正7年10月20日
本書は,練習艦などが海外を訪れた時の衛生問題などに関する医務衛生記録で,各国の下水に関する報告も多く見られます。
その中に,海軍軍医中監松隈武次さんの『船舟用便器に就いて』という論文が掲載されています。これは,港に停泊する船から投棄される屎尿が海を汚染し,病気が発生することへの対策が書かれているものです。石油缶を加工して便器を作り垂れ流しを防止する提案がなされています。
(2) 『建築写真類聚・改良和風便所』
大正10年5月5日 1円10銭
新時代の各種建築設計をイラストと図面で紹介したものです。このシリーズの中に『改良和風便所』と『改良便所』(昭和3年)があります。
(3) 『建築衛生工学』
大澤一郎・櫻井省吾著 大正13年12月25日 6円
「第一編衛生器具」の中に「水洗大便器」,「小便器」,「洗滌用水槽,フラッシュバルブ」,「第三編排水排気工事」の中に「衛生器具の取り付け」「屋内下水」「第五編汚水浄化法」などが書かれています。
トイレのウエイトを頁数で示すのが適切かどうかはわかりませんが,総頁に占めるトイレの記述の割合は約7%となっています。おそらく,衛生工学の文献史の上ではこの櫻井省吾さんから始まってくるのではないかと思われます。
(4) 『台所便所湯殿及井戸』
大澤一郎・櫻井省吾著 昭和2年9月20日 2円30銭
『建築衛生工学』の評判が良かったため,今度は一般読者向けに水回りに関して,分かりやすく肩のこらない本として書かれたものです。
本書で注目すべき点は,タイトルに『便所』と初めて明記されていることです。トイレに関する記述は,『建築衛生工学』よりも増えまして全体の25%を占めております。内容面でも大きな特徴があり,従来の文献は主に技術面の記述に終始していたのに対して,本書はトイレの文化的・歴史的記述が見られ始めた点です。
おもしろい記述としては「便所設備品價格」として,推奨する便所設備がどの位の予算で造ることができるか,その予算が示されています。
それによりますとトイレットペーパーが25銭,クレゾール石鹸が45銭となっています。
(5) 『新時代の住宅設備』
増山新平著 昭和6年9月20日 3円90銭
本書はまさに,家を一軒建てるときに必要となるあらゆる設備に関して書かれています。
その中でトイレに関する記述は,全体の4.6%を占めています。
(6) 『近世便所考』
大熊喜邦監修 昭和12年4月10日 3円
100パーセント『便所』をタイトルとしている衝撃的な文献です。跋(あとがき)においてこのように書かれています。「本書は我が国においては既に当然出づべくして出でなかった此の種最初の本であって,此の点学会業界を通じて先駆となり,将来の発達への礎石となるべき文献かと信ずる」。
私も同感でありまして,私の唱える『便所学』はここに大成したのではないかと考えております。内容としましては,10名の方がそれぞれの専門の分野の事に関して分担執筆をすると言う形をとっております。最初に「日本便所考」。続いて「東洋便所風景」。次に「西洋厠史」。戦前における本格的な西洋のトイレ史研究は,この論文のみではなかろうかと思います。
その他の章としては「近世便所の構成」,「近世便所の実例」,「本邦衛生工業の発達」,「衛生陶器概説」,「衛生陶器附属器具類」,「汚物焼却爐」,「城口式大正便所に就いて」と技術面に関する内 容が続きます。
この中で「衛生陶器概説」についてお話しをしておきますと,断り書きとして,実際の執筆は東洋陶器の西川弘三さんと桜川貞雄さんが執筆したと書かれております。桜川貞雄さんと言う方は昭和41年に『トイレ考現』という戦後のトイレ研究で欠くことのできない名著を著しております。「衛生陶器概説」の内容を見ますに,すでにこの段階で『トイレ考現』の骨格はできあがっていたと思われます。
(7) 『台所浴室及便所設備』
増山新平著 昭和13年9月5日 2円
『新時代の住宅設備』の水回りに関して,一般読者向けに著したのが本書です。全体の11%をトイレに関する記述に割いております。
(8) 『便所の進化』
高野六郎著 昭和16年12月16日 1円80銭
高野六郎さんは戦前の便所の改善・発達を考えるうえで欠くことのできない,大変に有名な方です。東京帝国大学医科で細菌学を専攻し慶応義塾大学教授を経て内務省衛生局(厚生省予防局長)に入られた方です。彼は改良便所の開発と普及に多大な貢献をした人です。
改良便所と申しますのは,屎尿を農地還元する際の最大の弊害であります寄生虫の恐怖を取り除き,安全な屎尿を確保できるように改良した便所のことです。構造的には便槽の内部を3ブロックに仕切り約3ヵ月間屎尿を滞留させることにより病原菌・寄生虫卵の死滅を計るというものです。
高野さんの研究が『便所の進化』という形で本になったのは遅いのですが,論文は昭和の初めから雑誌の『公衆衛生』など多くの文献の中でみることができます。
また,高野さんは随筆も書かれておりまして,代表的なものとしては昭和3年の『屎尿屁』というのがあります。この本は評判がよろしかったようで,戦後トイレ研究をされた方の多くが,若いころ『屎尿屁』を読み「こんな分野を研究する人がいることを知った」と回想しております。
(9) 『便所の研究』
大泉博一郎著 昭和17年2月28日 2円50銭
本書は戦中の昭和17年に出版されております。この文献は,戦前の便所文献としては決定的な名著といえると思います。
大泉さんは便所研究の視点を序において,このように記しております。「排便は日々缺くべからざる生活の重大な要素であるが,秘事に属するため奮慣が無反省に傳襲されてゐる事が尠くない。しかもそれは國民衛生上,生活倫理上に多大の影響をもつものであるから,科學的に,倫理的に,藝術的に,凡ゆる見地から嚴粛なる研究がなされなければならず,そして,よき倫理,よき技術が生み出されねばならぬのである」。
内容的にも,確かに「便所の発生」,「便所の倫理性」,「便所の芸術性」,「道元禅師の便所感」などと技術面を越え,多角的な記述となっています。
2.厠学の系譜
(1) 『東京人類学雑誌第二七四号「小児と魔除」』
出口米吉著 明治42年
出口さんは石川県生まれで,中学の英語の先生をしており,在野の人類学者と呼べる人かと思います。ここで,トイレではないのですが,屎尿についての研究がなされております。
この論文には,人の名前に不浄の文字を用いるのは鬼魔を遠ざけるために行われた,という趣旨のことが書かれております。出口さんが誰を例として上げていたか失念しましたが,例えば,紀貫之は幼名を阿古久曽麻呂(あこのくそまろ)といいました。久曽というのは糞のことで,この名前を見た鬼魔は糞だから相手にしないであろう,と考えて魔除としてこの久曽という言葉用いた,というような説です。この論文を読んだ南方熊楠さんが,大層この問題に関心をもちまして『出口君の「小児と魔除」を読む』という論文を発表しております。
また,出口さんは大正3年に同じく『人類学雑誌』に『厠神』という論文を発表しております。厠神に関しての研究はこれが最初かと思われます。
この時代に活躍した柳田国男さんや南方熊楠さん,宮武外骨さんなどはどうであったかと申しますと,その膨大な著作の割合に比すれば,ほとんど触れていないといえます。
新たな学問分野である民俗学が誕生しようとするこの時代にもかかわらず,重要な役割を果たした3人の巨人のいずれもがトイレや屎尿を大きく取り上げることには,ためらいがあったようです。
(2) 『習俗雑記』
宮武省三著 昭和2年2月18日 1円50銭
本書の中で屎尿やトイレに関して書かれているのは,「糞尿奇聞」と題した全体の7%に過ぎません。主な内容としては,便所の呼び方,肥取りの話,便所に関する言い伝え,風習などが書かれております。
わずかな頁ではありますが,私が本書を取り上げましたのは,この宮武さんは南方熊楠さんや出口米吉さんとも親しく,また後に本格的なトイレ研究を行う李家正文さんや金城朝永さんの著作にも良く登場する文献であるからです。
そのような意味では,この宮武さんの『習俗雑記』は厠学の原点との位置づけも可能なのかもしれません。
(3) 『グロテスク 九月特集号「世界便所発展史」』
梅原北明著 昭和4年8月28日
この『グロテスク』と言う雑誌は主に性的なことに関する話を掲載した雑誌で科学的と言うよりもむしろ当時としては好色的と言った方が良い内容かもしれません。
この中に梅原さんの『世界便所発展史』があります。先程,世界の便所について取り上げたものとして『近世便所考「西洋厠史」』(昭和12年)を紹介しましたが,年代的には梅原さんの『世界便所発展史』の方が早いです。これも訳本での紹介です。
(4) 『厠考』
李家正文著 昭和7年9月18日 1円80銭
本書の内容は,記紀万葉からはじまり,およそトイレに関するあらゆる記述を網羅分類したトイレ研究の集大成と呼べるものです。これ以降のトイレ研究で『厠考』を参考としないことは考えられず,また『厠考』を越える著作も現れていません。
大田区立郷土博物館の清水久男さんは『考古学トイレ考』の中で,「これまで,断片的な記録・情報でしかなかったトイレに関する記事を収集・分類・整理し,学問として体系付けたのである。『厠考』以後も,数多くの研究を発表され,そのトイレ学は,日本・中国を中心とした世界的な歴史学にとどまらず,文学・地理学・考古学・民族学・民俗学・化学など,広い分野を基礎とし,トイレについて考えられるあらゆる分野を網羅していると言っても過言ではない。もしかすると,現在,我々が行っている研究も,李家トイレ学を検証しているにすぎず,オリジナリティーを出すことなどできないのかもしれない」と述べています。
私も全く同感で,しかも驚くべきことに『厠考』を出版した時,李家さんはまだ國学院大学の学生であった点です。
李家正文さんの経歴ですが,明治42年広島生まれ。國学院大学卒業後,広島女学院講師を経て朝日新聞記者となり同出版局編集長,部長。朝日学生新聞社社長,会長,相談役,顧問を歴任された方です。著書もトイレ研究に関するものだけではなく100冊近い著書があります。ジャーナリストとしての本業を持ちながら,たゆまぬ研究,執筆活動を続けられた姿は敬服の限りです。
『厠考』以外のその後執筆されたトイレ文献を紹介しておきますと,昭和23年『厠史話』,昭和28年『厠風土記』,昭和36年『厠まんだら』,『古代厠攷』,昭和40年『トイレット博士』,昭和48年『泰西中国トイレット文化考』,昭和51年『トイレット天国』,昭和57年『対談トイレットで語ろう』,昭和58年『住まいと厠』,昭和59年『図説厠まんだら』,昭和60年『トイレなんでも入門』,昭和62年『糞尿と生活文化』,『増補厠まんだら』があります。
特に昭和36年の『古代厠攷』で國学院大学で博士号を取得されています。以上をお示しすれば,李家厠学がいかに完成度の高いものか,もはや付け加えることはないかと思います。
(5) 『異態習俗考』
金城朝永著 昭和8年1月1日 1円50銭
金城さんの『異態習俗考』は『厠考』と同じ六文館から出版されております。そして時期的にもわずか3ヵ月程度遅く出版されているわけです。しかも,皮肉なことに『異態習俗考』の巻末には『厠考』の広告が大きく掲載されております。
本書の中には,トイレに関して「拭う習俗」,「糞尿雑記」,「厠に関する習俗」の3つの論文が掲載されております。
しかし,3論文とも初出は昭和5年,雑誌『犯罪科学』の誌上です。この論文の中で注目すべき点は,トイレ研究に対する明確なビジョンを提言している点です。
すなわち,「便所に関連した資料をせめて日本だけでも大体次の様な項目で蒐集してみる必要がありはしないかと考える。
・便所の名称(方言)
・民家に於ける便所の所在地即ち位置
・汲取人と糞尿の運搬方法及汲取賃金
・尻の拭い方
・室内に於ける便器とその構造及名称
・厠神の信仰
・便所に関する俗信
・野糞の風
等々であるが,もっと細かく,我々は日本の便所を観察して,その資料を蒐集する時期が来ていると思う。本稿も,単にその一項目に過ぎないのであって,徒に珍奇な題材を選び,物好きな人々に話題を提供するのみが目的ではなく,実はこれに関する貧しい資料を御知らせして,広く賢明な読者の御教示にあずかりたいと言う小さな野心があったからでもあった。」と述べています。
小さな野心どころか,大変大きな野心が良く伝わって参ります。しかし,金城さんはこれ以後,トイレに関する研究はほとんど行っておりません。そこには李家さんと金城さんの昭和3年から昭和8年の動きを見るとひとつの推測が見えてきます。
李家さんがトイレの研究を開始したのが昭和3年。そして昭和5年頃には脱稿し,出版社を探しますが,見つかりませんでした。丁度出版社探しをしている頃,人名は上げておりませんが,同じ事を研究し始めた人が現れたため,出版を断念しかけていたようです。そんな中,昭和7年六文館主人との出会いにより出版となりました。
一方,金城さんは,研究開始年は不明ですが,論文発表が昭和5年です。丁度,李家さんが脱稿し出版社探しをしていた時です。おそらく「同じ事を研究し始めた人が現れた」と言うのは,金城さんのことを指すのではないかと推測されるわけです。そして金城さんは,昭和7年に自ら示したトイレ研究のビジョンを完成させた李家さんの『厠考』を目にする事となるのです。そして昭和8年の自らの著作『異態習俗考』の巻末に『厠考』の広告が掲載される,この流れを考えますに大変ドラマチックな2人の研究者の姿が思い浮かんで参ります。
3.トイレ学の系譜
昭和の50年代の終わり頃からでしょうか,トイレに関するブームの様なものが出て参ります。企業もTOTOやINAXが文化事業に乗り出してきたり,昭和60年に日本トイレ協会が設立される。
皆様の日本下水文化研究会も昭和61年に設立されるなど,様々な観点からトイレを考えることが行われる様になって参りました。
このトイレ学の特徴としましては,実に色々な分野の専門の方々が自分の専門領域の中でのトイレを研究・発表されているということではないでしょうか。これは便所学の時代であっても厠学の時代であっても,同様の傾向であったのですが,その細分化が過去とは比べ物にならないほど著しいということです。
トイレひとつをとってみても,行政側も細分化されております。つまり,交通機関のトイレは旧運輸省に属し,高速道路のトイレは旧建設省,自然公園のトイレは旧環境庁,都市公園のトイレも旧建設省,防災トイレは旧自治省消防庁,旧国土庁,便器器具は旧通産省,屎尿処理は旧厚生省,浄化槽は旧建設省と旧厚生省,公共下水道は旧建設省,農村集落排水は農水省など多岐にわたっています。
4.総合トイレ学への展望
私が職業としている世界史というものを例に出して話しをしたいと思うのですが,大学には日本史学科・西洋史学科・東洋史学科などはありますが,世界史学科というのはありません。学問的には日本史・中国史・ドイツ史・フランス史・イタリア史などの一国史は研究者もいて,研究の蓄積があり体系づけられていると言えます。しかし,これら一国史をたくさん集め集大成したところで,それは「世界史」とは呼べません。単に各国史の集合体,万国史に過ぎません。
世界史を構築する作業というのは,一国史に登場する事柄を他の一国史の事柄と互いに関係づけ,結び付け,世界史の中に位置づけて行くことなのです。そこには,歴史に対する哲学・思想・視点というものが必要になるのです。
今,私が提唱したい総合トイレ学と称するものは,トイレ研究における各国史的研究ではなく,言わば世界史の構築なのです。建築におけるトイレ,衛生工学におけるトイレ,民俗学におけるトイレ,歴史学におけるトイレなど一国史レベルの研究は研究者もおり,研究の蓄積もあります。その個々のトイレ研究を有機的にひとつの思想・哲学・視点をもち構築して行きたい,そしてそれが必要な時期が訪れて来ていると思うのです。
(本講話は,平成14年6月15日に東京ボランティア・市民活動センター会議室で行われた日本下水文化研究会の定例研究会におけるものです。)
*日本下水文化研究会会員,聖徳大学附属高校教諭