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東京のし尿処理の変遷

東京下水道史探訪会
1.第1期「し尿を肥料として農業に利用」
2.第2期「し尿の肥料としての価値が無くなり、処理は海洋投入を始めた時期で、一方では衛生的な各種処理を試みていた」
3.第3期、昭和30年代末までの汲み取りし尿の処理の行き詰まり打開のための処理方法模索期
4.第4期今日の下水道や浄化槽との連携
5.まとめ

 最近の廃棄物問題は地球規模での環境問題としてとらえ、資源循環型リサイクル社会を目指し取組んでいる。
 周知の如く江戸の社会は合理的なリサイクル型社会を形成していた。これから問題にする、し尿処理も同様で、し尿を肥料として農地にまく「し尿の農地還元」が広く行われてきたのは有名な話である。西欧諸国では、し尿を単に汚物として扱ってきたが、日本では肥料として農地にまいていたため、非常に価値のあるものとして扱われた。その結果、し尿に対する特別な文化を形成してきたといえる。
 しかしながら、東京の場合のし尿処理は明治、大正、昭和と時代が進むにつれ都市化の進展に伴う近郊農地の減少、或いは化学肥料の普及により、このし尿の農地還元による処分量は年々減少していった。
 大正末期から昭和初期には、し尿の肥料としての価値が下がりはじめ、次第に処理・処分に頭を痛めるようになってきた。戦後のし尿処理は海洋投棄と、し尿の有効利用を図るために、し尿消化槽による処理を導入した。しかし、都の財政難からそのし尿消化槽も昭和57年に閉鎖し、現在はほぼ全量を海洋投棄している。また、環境をまもるために普及していった下水道によって、し尿の処分法は次第に下水道に比重を移していった。
 わが国のし尿の処理・処分は大正中期までの肥料として農地に還元する時代の第1期、し尿の肥料としての価値が無くなり、大正末期から昭和初期のし尿を有料で収集するようになり、処理は海洋投棄を始めた時期で、一方では衛生的な各種処理を試みていた第2期、以降昭和30年代まで汲み取りし尿の処理の行き詰まり打開のための処理方法模索期の第3期、今日の下水道や浄化槽との連携を考えながらの第4期に分けられる。


1. 第1期「し尿を肥料として農業に利用」

江戸時代以前

 仏教が普及し、750年頃2回にわたり肉食禁止令が出された。そこで貴族などは動物性食品の代わりに畑作物を好んで食べるようになった。荘園を中心に畑作が重視されるようになり、畑作に肥料が多用されるようになった。初めは馬の糞などが用いられたがやがて人間のし尿が使われた。
 当時、東アジア諸国は既にし尿を農業に利用していた(唐、新羅等)。仏教伝来とともにこのし尿を肥料として使うことが伝わってきた。例えば延長5年(927年)延喜式(9世紀初め〜10世紀初めに編集された三代格式)の中に施肥の指導に関する部分があり、人間のし尿が肥料として使用されていたとの記述がある。
 平安時代には米を税として徴収していたが、裏作の麦は税の対象外であり農民の収入源となった。この二毛作は国策として進められ、土地が痩せるのを防ぐためにも、肥料としてのし尿が多用されるようになった。12世紀頃には一般的に、し尿の肥料としての農地還元が全国に普及してきた。そして、し尿は肥料として有効であることがハッキリと認識された。し尿が日本の産業・経済基盤の底辺を支えてきたといえる時代である。かつての日本人全体のし尿に対する認識や価値観はこの頃から形成されてきたのである。


コラム

 「江戸時代以来、大正の関東大震災勃発までは甲州街道、日光街道、青梅街道等の陸路は、し尿を荷積した牛馬車が行列を続け一種の壮観を拝したのであった。日本敗戦後占領軍が肥車を見てハニーカー(蜜の車)と嘲りの目をむけたが、これは日本の実情に暗い彼らの短見に過ぎなかったのである」という記述があるが、これは日本の見識とアメリカの見識の差を表わしている。




江戸時代のし尿の利用

 農民の年貢に財政の基礎を置く江戸幕府は、農作物の増産には非常な熱意を持って望んだ。低湿地の埋め立て、新村の開拓と共に、耕作指導には念入りな努力を注ぎ、また、農肥(し尿)の確保には常に触書、御定書などを絶え間なく発して、微細に節約と生産増産とに注意を怠らなかった。つまり江戸幕府は、し尿を江戸経済構造の底辺を支える重要な要因であると認識していた。
一方、幕府施政下の農民は、食料増産を努めるために、肥料をし尿に求めなければならなかった。江戸期の農肥には、干鰯、油粕、わた樽(魚類の頭、はらわた、その切り屑等)などがあったが、それは少量であったので一般施肥には容易に手が届かなかった。し尿は実質的には唯一の肥料で「軽蔑すれば罰が当たる」と言われるほど汚穢の観念を越えた貴重品であり、商品であった。
し尿を運搬する肥船の船頭は気位が高く「人が不用意に肥船を汚すと船頭は真っ赤になって怒って櫂で殴りかねない剣幕を示したものであった」(「清掃物語」より)とある。
 また、江戸市民はし尿を貴重な商品として扱っていた。
 し尿は、初期のころは無料で汲み取らせていたようであるが、江戸が次第に発展するにつれて野菜作りに専心する農家がふえ、一説には元禄以後、正徳、享保頃からこうした価格が出てきたといわれている。野菜による現金収入が農民の生活を支えるようになると、そのもとをなす下肥の獲得に競争するようになって、次第に下肥の値段が高くなったのである。
 農家の汲み取り料については、寛政3年(1789年)の角筈村の記録では「馬の背に桶をつけて飯田町まで汲み取りに行き年間312駄で8両とある。幾ら食べ物のいい糞尿か知らぬがべらぼうに高い。これでは農家も余程の生産量を上げないとやって行けない。野菜の値にはね返って、物価問題として騒がれるのも当然になってくる」と記している(「清掃事業300年・江戸から東京へ」より)。
 これが寛政以降再三にわたって行われた下肥値下げ運動となって現れた。幕府の仕事はし尿の確保と価格のコントロールにあり、し尿処理に頭を傷めることは無かったと言える。


し尿の価値と肥料のめきき

 江戸時代、し尿は、純粋に肥効の優劣により商品価値が決まりランク付けされ、種類別に取り扱われていた。
 勤番 多くは大名屋敷のし尿で種別から上等品とされ標準価は1荷(4斗)が町肥の4、5倍に相当する。後代、明治、大正初期に大名屋敷が軍隊の兵舎に変じてここからの払い下げし尿も勤番と同様で取り扱われた。
 町肥 一般の町家からのもので、上等品の部類に取り扱われた。
 辻肥 江戸町の四ツ辻に農民が築設した共同便所からの排泄物で上等品である。江戸町人の生活が賛沢であった事を物語っている。
 たれこみ 尿水多量のもの(あまり歓迎されなかった)
 お屋敷 下等品(監獄のものなどあまり歓迎されなかった)
 農村の肥料需要が高まると、自然とし尿供給専門業が出来はじめ、明治の中期過ぎには企業的な様相をさせてきた。「仲買人は肥料に対する眼識が肥えていた。現物に接して一見すればその良否如何を制断ずる能力を持っていた。それだから勤番か、町肥か、辻肥かの見分けを誤ることはなかった。また、農作物の施肥については米麦、野菜の種類によってそれが季節的に異なるものであったがこの点も十分か見分けて売買の調節を図っていたから取引のときには自ら立派に秩序が立っていた」(「清掃物語」より)。


肥効論

 経験的にはし尿が肥料として有効であると認識していたが、科学的に成分から有効性を示そうとして「肥効論」が生まれた。
 「肥効論」として宮崎安貞「農業全書」(1696年)がある。「痩せた農地にはし尿を施す、農家には便所を作り貯留する。便所には雑排水も混ぜ腐敗させる等々」細部にわたり記載されている。その他「百姓伝記」、「国益考」に「肥効論」の記述がある。また、佐藤信(幕末農政学者1769〜1850)は土性分析並びに土壌肥料論にし尿使用の理論を述べている。また、その効用を重視している。



2. 第2期「し尿の肥料としての価値が無くなり、処理は海洋投入を始めた時期で、一方では衛生的な各種処理を試みていた」

(1) 汚物清掃法と下水道法

 明治政府は1900年3月7日、伝染病の発生を予防するためには、先ず生活環境を保持する必要があるとの考えから、汚物清掃法と下水道法を公布した。汚物清掃法は土地の清掃を維持することを目的とし、塵芥、汚泥、雑排水、し尿をその対象とした。この法律により汚物の掃除が市民の義務となり、その処分が市の義務となった。ただし、し尿の農地還元が盛んに行われていたため、し尿処分については掃除義務者である市民に委ねられた。
 「下水道法」によって定義づけられた下水道の目的は、単に土地の清潔を保持することとされ汚物のなかの雑排水のみに適用する特別法の性格を持っていた。当時の下水道は低湿地等の雨水や汚水(主に生活雑排水)を排除するための管渠施設にすぎなかった。雑排水は汚物なので本来は汚物掃除法の適用を受けるが、公共下水道が敷設された地域には溝渠に関する汚物掃除法を適用しないこととしてあった。


コラム

 当時は水質汚濁や富栄養化という現象は全くみられなかった。例えば諏訪湖の水も飲料適の許可を得て、厚い冬の氷は東京に出荷され、夏にかき氷に利用されたという。生活雑排水は側溝にでも流れるようにすれば自浄作用が働いて何の問題も生じなかった。



(2) し尿、下水道への受け入れ

バルトンの考え
 現行の下水道法では水洗便所は、下水道に接続する事が義務づけられている。つまりし尿を下水処理でできるが、バルトンが計画していた頃は次のようなものであった。
 バルトンが中心となってまとめた東京市下水道設計第一報告書は1889年7月6日市区改正委員会に提出され、審議の結果1890年11月7日先送りとなった。
報告書を抜粋すると、
 @ し尿は肥料として有価物であるので、従来からの汲み取りとし下水管に取り入れない。しかし水洗便所の将来的な普及を考慮する管渠とする。
 A 雨水は雑排水と混合させずに在来側溝を改良して河川等に放流させる。(分流式)
 B 地勢は平坦なのでポンプにより雑排水を排水する。
 C 処理区域の人口は現在128万人であるが10年後の増加を考慮して150万人以上とする。
 D 雑排水は衛生上安全な距離に排水する。
 E 雑排水を荒川に放流する第2線については三河島にポンプ場を設け、砂ろ過法等を併設して処理する。
等の記述がある。
 バルトンは東京市(1898年)のほかに、下関市(1893年)、仙台市(1893年)、名古屋市(1894年)、広島市(1894年)の下水道計画案を策定した。広島市は合流式だが他は分流式で計画した。分流式を目指した理由は、
 @ 雨水は従来の排水路にまかせ、雑排水のみを排除する管だけ敷設すれば、小さい管ですみ経済的である。
 A 雑排水は衛生上、市街地から遠く離れた河川や海に放流する必要がある。合流式では、大きな断面の放流管を延々と敷設しなければならないので経済的でない。
 B 合流式では、下水管の大きさに比べ晴天時の流量が極めて小さいので管内の汚物中の固形物が沈殿しやすい。
 C し尿は肥料としての有価物であり、農地に還元すればよい。
 つまりバルトンはこの時点ではし尿は肥料として使い、下水には入れない予定であった。

「東京市下水道設計」と初めてし尿の下水処理
 バルトンの計画を見直して、東京市下水道設計を1907年に策定し、翌1908年に内閣の認可を得、1911年に工事着手した。全市を地勢に応じて3つの地区に分割した。この計画は前回の計画と異なり合流式であった。この計画に基づき、三河島汚水処分場を建設した。1922年3月26日に施設の一部稼働で雨水、雑排水の処理を始めた。
 7月にし尿を希釈し下水道放流を試した。雨水、雑排水の二百分の一以下のし尿を50倍に希釈し、幹線下水管に投入した。三河島汚水処分場で沈渣の肥効性についての調査を実施した。また当時は便所から排出するし尿は地方長官の指定する下水道以外には放流できなかった。

買い取り慣習に終止符
 「大正7年は清掃業界の一大転機である。この時こそ永く記録に残すべき年である」と「清掃事業300年・江戸から東京へ」に記述されている。
 徳川時代から農民は野菜等と交換でし尿を汲み取っていたものが、正徳、享保の時代になりし尿代金を支払うようになっていた。大正7年のこの年から農民や業者は逆に市民各戸からし尿料金を貰うようになった。180度の大逆転で徳川幕府以来の買い取り制度は完全に終止符がうたれた。
 1、当時、諸物価が値上がりし労賃の高騰したこと。
 2、下肥売上金の低下で従来通り地主にし尿代金を払っていたのでは営業上の採算が合わないこと。
 3、この頃は豊作が続き農民の生活が豊かになり、次第に生産が増してきた化学肥料利用に走り、取り扱い上、手間のかかるし尿を敬遠したこと。
などが原因であった。
 しかし、し尿の収集は一日も休むことは出来ないので業界も非常に焦った。この為急速、大正7年4月上旬、本郷根津の金泉館で「東京糞尿肥料組合」は役員会を開き対策を協議した。参会者200名に上り、会議は極度に緊迫した空気の中で行われたという。
 「断固として円満安定と市民の衛生を守るため新局面を展開し、市民から新たに特別の補助金を受けてこの難局を切り抜けるほかない」という補助金要請の強行説と「いま直ちに過激に走ることに反対し一カ年延期を主張する」静観説が鋭く対立した。役員会はこのようにして両論が対立し意識統一が出来なかった。
 ここで、市民から汲み取り料金の補助金交付を願い出る意見の同業有志51名は直ちに脱会を宣言し、このグループは神田衛生同業組合を結成した。早速各方面に了解を取り付けるため警視庁当局に業界窮状を訴え、当局は事情聴取のあと「其では慣例に従い地主から貰うことがよい」との回答を得た。しかし、地主側は反対したため、再び当局に説明し様々の経緯を経て、当局からの回答「各戸から貰へ」ということが本決まりになった。「一同は眼頭に涙を浮かべて喜び合った。」と記述してある(「清掃事業300年・江戸から東京へ」より)。
 この定められた料金は1戸5人まで50銭、1人増すごとに10銭として許可が下りた。
 このようにして江戸以来、伝統であったし尿買い取り慣習が逆転した。



(3) 新たなし尿処理を模索する

 肥料としてのし尿の利用が大幅に減ったことから、東京市はし尿を処理するために、大正9年12月に1日2000石(一石は180リットル)を処理することの出来る硫酸アンモニウム工場建設の予算書を市会に提出したが、議論も多く成立を見なかった。大正10年10月市長後藤新平は本案を撤回した。
 東京市は止むを得なく、後藤市長時代の大正10年に臨時に浅草区内南元町、栄久町、松清町にし尿投棄所を設けた。住民の非難のなかで他の処理方法も無く、昭和8年に綾瀬処理場に移るまでの十年間以上も臨時のし尿投棄所の使用を続けざるを得なかった。
 大正12年関東大震災が起こり、市内は焼け野原となった。市は清掃用具、運搬機材を失い、し尿処理は業者に緊急援助を頼んだ。東京生肥料KKや東京糞尿肥料組合の清掃業界もこれに即座に応じて1ヵ月10万円で2ヵ月の契約を結んだ。市民1日の排出量7千石のうち業界は4千5百石を引き受けこの難を切り抜けた。関東大震災を契機に下水道工事が急速に進み、また浄化槽装置に切り換える機運が高まった。
 また、昭和5年汚物掃除法が一部改正され、糞尿の処理処分は市の義務とされたが当時市としては諸事の事情から昭和9年10月末までその義務を猶予されていた。昭和11年東京市は全し尿の処理を市の直営とする方針を決めた。

東京市清掃課綾瀬作業所
 現在の小菅処理場の場所に綾瀬作業所(し尿処理場)が昭和8年に竣功した。
 処理方式は促進汚泥法(活性汚泥法)で処理量は180t/日であった。戦後閉鎖されている。
 詳しい導入の経緯が不明だがここでかなり早い時期に活性汚泥法が導入されている。
 設備の概要は
 「東京市葛飾区小菅町680番地、1,974坪
 本作業所ハ市内ノ汲取便所ヨリ生スルし尿ヲ最新ノ下水処分法タル促進汚泥式ヲ基トシタル殊種ノ設計ノ下ニ昭和6年7月工ヲ起コシ同8年3月竣工直チニ作業ヲ開始セリ。
 都市ノ下水ト異ナル汲取し尿ヲ希釈シテ促進汚泥式処分法ニヨリ浄化スルコトハ欧米ニ於イテハ未タ其ノ例ナク本邦ニ於イテハ京都市十条処分場ニ於テ実績ヲ挙ゲツツアルニ止マリ本作業所ニ於テハ更ニし尿ヲ希釈シテ腐化溶解セシムル方法ヲ加味シ促進汚泥法ニヨリ処分スルコトトシテ斬新ナル設備ヲ施シ猶ホし尿中ノ有機固形体ヲ分解スル行程ニ於テ発生スル「めたん」瓦斯ヲ利用シテ前記溶解及ビ分解作用ヲ促進セシムル装置ニシテ本邦ニ於ケル全ク新シキ設備ヲナセリ
本作業所ハ左ノ重ナル設備ヨリ成ル。
 @ し尿汲揚場
 A レシービングタンク
 B バイオリシスタンク
 C 希釈水混合室
 D 曝気槽
 E 最後沈殿槽
 F 消毒槽
 G 残渣乾燥場
 H 事務所兼機械室
 I めたん瓦斯濾過器
 J めたん瓦斯貯留槽
 K めたん瓦斯利用温水汽罐室」である。
 綾瀬作業所は綾瀬事務所と改名され昭和34年直営の汲み取り桶の製作工場となり、ごみ・し尿堆肥化実験をし、昭和35年に業務停止した。跡地が清掃研究所となった。


(4) 海洋投棄への道

 し尿の海洋投棄は投棄法に基づいたものではあるが、昭和7年頃からやむを得ない処置として始められた。昭和11年全し尿を市直営とした結果、綾瀬処理場だけでは処理が不可能となり海洋投棄への比重が多くなった。農村汲み取り制度も行われ、


図表 自昭和12年 至 昭和18年 ふん尿終末処理実績(1日当)
処理別 年別 昭和12年 昭和13年 昭和14年 昭和15年 昭和16年 昭和17年 昭和18年
農村還元 21,026.8 17,586.7 19,086.5 20,293.0 16,575.7 19,986.0 19,119.0
農村汲取 1,60.2 1,392.6 1,355.0 1,303.0 622.3 209.0



大型船 2,800.2 3,928.6 4,699.1 4,649.2 >4,269.0 3,115.0
伝馬船 1,861.5 6,917.6 9,374.6 11,923.2 14,389.1 11,582.0
4,661.7 10,846.2 14,073.7 16,572.2 18,658.1 14,697.0 14,484.0
綾 瀬 1,041.1 717.0 759.0 832.5 490.8 488.0 463.0
その他 745.0 1,164.2 540.5 709.3 2,095.1 2,308.0 639.0
下水道 322.0
三河島 577.0
合 計 29,076 31,706.7 35,814.7 39,710.0 38,442.0 37,688.0 35,604.0



 し尿は農村還元が土壌育成に必要なものとされていたが、化学肥料の進出により農村での需要が減り、し尿の海洋投棄への方向付けがされたものである。
 東京市のし尿船「し尿運搬に鉄船が使われることに当時の人達は驚異の瞳を見張ったものだった。其は昭和10年の出来事である。この鉄船の工夫設計は東京市設計課の太滝円海等の技術職員によるもので、海軍の輸送船にヒントを得たものだった」(清掃物語)
 最初の武蔵野丸(1800石積)の造船は大阪の名取造船所で総工費23万円である。
 第二の市し尿船もまた鉄船で優清丸(3000石積)、清水港金刺造船所の建造による。

 海洋投棄を始めてしばらくすると問題が生じた。当時の資料によれば、蛤やアサリのとれる時期になると、東京湾の沿岸都市からは多数の赤痢患者が発生したというのである。貝は大腸菌ではなはだしく汚染され、神奈川県寄りの東京湾は魚が寄りつかず、千葉県側の海苔の養殖地での「そだ」の被害は大きかったという。汚染の様子を示す話として、千葉県側の砂浜はうじが打ち上げられ白く見えることさえあったということである。
 このため湾内の海洋投棄は禁止しなければならなくなった。調査の結果、剣崎と野島崎を結ぶ線の外側、相模湾は沿岸から1万m以遠とする事とし、各方面の了解を得た。昭和31年7月1日から実施の運びとなったが、小型船で投棄していた民間業者は船の新造もできず、最後まで強く反対したという。
 このようにしてし尿を内湾投棄から外洋投棄に変更させることができた訳である。
 この「湾対策」事業で糞尿の陸上処理を目標としたために下水道とし尿処理施設の事業は飛躍的に伸びた。


(5) 浦安に浸透式し尿投棄所設置案とそのてん末

 東京市はし尿処理に困り、様々な処理を試みようとしていた。その事を示す逸話がある。
 浦安に「浸透式し尿投棄所」を設置しようとした事がある。浸透式し尿投棄所とはし尿を砂浜に投棄し、浸透させる方式である。いくら投棄してもし尿の水位は定量に保たれ、永久にし尿投棄が出きるという無限の能力を持ったし尿の終末処分場のことをいうというのである。
 しかし、浦安の住民の強い反対を受け、この浸透式し尿投棄所を浦安に設置する案は無くなった。



3. 第3期、昭和30年代末までの汲み取りし尿の処理の行き詰まり打開のための処理方法模索期

(1) 第2次大戦中のし尿処理の行き詰まり

 昭和18年(1943年)になると戦局は急迫し、生活物資は欠乏した。若い者は根こそぎ招集され、便所の清掃は行き詰まった。都制は実施されたものの大達都長官は明けても暮れてもし尿の苦情を受けたという。しかし、良い解決策は無かった。
 糞尿を庭に埋められるのは良いほうで、夜陰に乗じて目黒川や神田川に捨てたり、側溝に流す者もいたという。都民は閉口した。
 大達都長官は昭和19年2月に西部鉄道の堤社長と相談した。堤社長は「汚いものを片付け、都民の生活をきれいにすることは最大の社会奉仕である」と考え、何としてでもやり抜こうと決心したという。
 西部鉄道でし尿を郊外まで運搬し農地還元する方法を実施した。
 糞尿輸送用のタンク車、115輌を新造し、数十箇所に糞尿貯留所を設置し、一日2万石程度を輸送することを計画した。当時の35区から排出される糞尿は3万8千石なのでこれで東京の糞詰まりはほぼ解決した。糞尿の輸送は昭和19年2月から昭和28年3月30日迄続いた。


(2) 東京都のし尿処理難の画期的打開策としての砂町し尿消化槽

 戦後、都心に再び人々が戻りはじめ、都の人口が急増してくると再びし尿処理が問題となってきた。
 GHQ(連合軍総司令部)の指導で資源調査会は「し尿汲み取りの機械化、し尿資源の科学的衛生処理、し尿と下水道との合同処理」を検討した。その結果をまとめ、昭和25年12月「し尿の資源科学的衛生処理に関する件」として勧告書を政府に提出した。勧告書は、汲み取りし尿の科学的処理法として嫌気性消化法が最善であると結論を出し、「機械化汲み取り法などとあわせて嫌気性消化法によるし尿処理法」を勧告している。
 嫌気性消化法はもともと下水処理汚泥のため欧米の下水道先進国で開発され、発達していた。この嫌気性消化法をし尿処理に応用する試みは、日本だけに限られた独特のものであった。
 この方法が東京都に導入された経緯は、以下の通りである。
 「わが国古来のし尿処理方法である農村還元に対し嫌気性消化法は近代科学の息吹を与えて改善し、病原菌、回虫卵を殺滅し、悪臭、汚色を除き、しかも肥料資源である窒素、リン、カリをそのままに保有させて土壌に還元可能な方法であれば、国民の保健衛生を向上させると同時に、廃棄物を資源として安全に活用し得ることになり、農村経済ひいては国民経済に寄与することが大なるものがあろう……
 その後いくばくもなくして都清掃局の要望、というよりもむしろ安井誠一郎都知事じきじきの要請によって、清掃局からの委託を受けて下水課で砂町下水処理場にし尿消化槽を建設することになった。このし尿消化槽は、もちろんわが国最初のし尿消化の実プラントであって、しかも超大規模(当初設計30℃、30日消化でし尿日量1,800m3処理、一部汚泥混合)のし尿処理施設であったが、二重式消化槽方式が資源調査会でオーソライズされたので、私たちは安んじてこの方式を採用、築造したのであった。
 砂町し尿消化槽が戦後極度に行き詰まっていた東京都のし尿処理難打開に、どれほど大きな役割を果たしたか、周知のとおりであろう。」
「し尿消化槽の足跡」砂町処理センター
 しかし、戦後のし尿処理の窮地を救ったこのし尿消化槽も、昭和57年3月に約30年にわたる歴史を閉じた。



4. 第4期今日の下水道や浄化槽との連携

 昭和31年に国は「し尿処理基本対策要綱」を5か年計画の形で打ち出した。海洋投入の原則的廃止、総水洗化を目標としてこれを公共的な下水道の整備、し尿浄化槽、コミュニティプラントにより達成し、収集したし尿は「し尿処理施設」により処理をするというものであった。
 これを契機に、嫌気性消化処理をはじめ、各種し尿処理技術が発展していった。
 昭和30年代の主流は嫌気性消化処理で、一部が化学処理であった。昭和40年代に入って好気性処理を主軸とし、一部湿式酸化、昭和50年代に入り脱窒素、脱リン、低希釈、高負荷となっていった。昭和60年頃から次第に限界ろ過膜法が主流となっていった。


(1) 浄化槽とし尿処理施設の果たした役割

 浄化槽が爆発的に普及した時期は昭和40年代である。国民の水洗化の要求に対して大きな役割を果たした。全国的にみると裕福な芦屋市や鎌倉市から普及したことからもわかるように浄化槽は賛沢品であった。当時のものはRCコンクリートで大型であった。次第にプラスチック製が普及していった。昭和44年の構造基準で活性汚泥法が単独処理浄化槽の全面ばっき式として採用された。小型化が図られたが、性能を維持するためには清掃回数が多くなり維持管理に問題を残した。便所の水を処理するだけの単独浄化槽は放流水質の基準が甘い上に雑排水が垂れ流しなので、河川・湖沼の汚染を助長するだけであった。
 しかし、浄化槽が普及した結果、放流同意の問題と、苦情という形で問題が表面化し、浄化槽の問題は露呈し大きくなっていった。
 単独処理浄化槽は放流水質が悪いので、放流先で様々な問題を起こした。そのため浄化槽の設置に当たっては下流の水利組合に放流同意が義務づけられたり、同意に当たっては高額の放流料金(汚し賃)が要求されたりした。
 昭和40年代に家庭用小型合併浄化槽が下水道並みの放流水が確保出来ると銘うって登場した。処理水質は確保され、社会的にも評価され、昭和58年に「浄化槽法」が成立した。厚生省は浄化槽対策室を設置し、昭和62年には補助金1億円をもって、合併処理浄化槽設置整備事業を創設した。平成4年度には74億円となった。
生活環境施設計画の中で合併処理浄化槽設置整備事業が位置づけられ平成3年11月に閣議決定された。
 清掃局は浄化槽普及のため昭和35年し尿浄化槽所設置資金貸付制度を開始した。また、昭和45年に浄化槽所有者の負担を軽減するために、し尿浄化槽清掃作業経費の一部助成を開始した。
 東京都では昭和30年度全部で僅かに9,337基、昭和40年5月の調査では57,651基となっていた。


(2) 東京都のし尿処理が抱える問題

 現在、東京都の場合し尿はごく一部を除き海洋投入処分をしている。し尿の海洋投入処分は、昭和7年ごろから始められ、戦時中から戦後直後にかけて中断された時期もあったが、昭和25年に再開され今日に至っている。
 しかし、海洋投入について、すでに昭和31年に国は「し尿処理基本対策要綱」で原則的廃止をうたっている。また都の下水道普及率はほぼ100%であり、浄化槽の普及もあり、残された汲み取り便所の数も急激に少なくなっている。各々の収集箇所は遠くなり、収集作業は極めて非効率になってきている。
 事業系ビルからの排水とし尿の合併処理を行っている設備から排出される汚泥(以下ビルピット汚泥という)は、一般廃棄物なので昭和60年からビルピット汚泥を清掃局は無料で受入れ、処理している。また、建設現場やイベント会場の仮設便所から発生するし尿も都が収集し処理している。
 残された汲み取り便所の数も急激に少なくなっているにもかかわらず、ここにきて「ビルピット汚泥と仮設便所のし尿量」の増加が問題になっている。



5. まとめ

 平成5年度の資料をみると我が国の水洗化人口は8,900万人、うち公共下水道使用が5,500万人、浄化槽使用が3,400万人であり、非水洗化人口がまだ3,500万人も残っている。
 「支那において黄河を治める者は治国の帝王となる。清掃事業(この当時はし尿処理の意味)の完璧な完遂を為しうる者は市長たる資格がある」と岸本東京市長(昭和17年8月3日から昭和18年6月30日)は就任の挨拶で力説したという。容易そうで容易でないのがし尿処理であると、茂木耕三氏も「清掃物語」に記述している。
東京23区の下水道普及率が概成100%を達成した今日、改めてし尿の処理・処分を考えてみたいとの思いからこの稿を起こした次第である。下水道並びに清掃の関係者から読後感を寄せられることを期待している。

(文責:地田修一・小松建司・石井明男)

参考文献
茂木耕三「清掃物語」昭和35年
東京都清掃局事業概要平成6年度
東京都下水道局事業概要平成6年度
鈴木和男「し尿をめぐる風俗と歴史」環境施設1995No.60
日本下水道協会「日本下水道史」
東京下水道史探訪会「江戸・東京の下水道のはなし」技報堂出版1996年
楠本正康「こやしと便所の生活史」ドメス出版
東京都砂町水処理センター「し尿消化槽の足跡」昭和59年