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下水処理技術の変遷とこれからの展望

地田 修一 氏(本会会員)(2010/05/30)
[はじめに]
[下水道計画]
[水処理]
[汚泥処理]
[これから期待される下水処理披術]
[おわりに]

[はじめに]

 私の下水処理技術とのかかわりは、東京都に就職し下水道局の芝浦処理場に配属された1966(昭和41)年からである。偶然にも、この処理場は母校東京水産大学のごく近くにあった。
 処理法のメインは散気式活性汚泥法であったが、機械式のシンプレックスもまだはでな水音をあげて回っており、1972(昭和47)年まで運転されていた。その一方で、ばっ気槽と最終沈殿池とが一体化されている高速ばっ気沈殿法が試験的に稼動していた。
 芝浦処理場に東京都として初めての散気式が導入されたのは、1959(昭和34)年でそんなに古くからではなく、三河島処理場では散水ろ床法が1964(昭和39)年まで、パドル型のばっ気装置が1971(昭和46)年まで現役であった。
 また、砂町処理場における沈殿法のみの処理が活性汚泥法に切り替わったのは、なんと1960(昭和35)年になってからである。
 今思えば、私が入都した頃は下水道早期整備の気運の高まりを背景に、散気式活性汚泥法に全面的に転換することがすでに決定され、さらにより効率的・省面積的な処理技術が模索され始めていたときだったのである。
 その後の深層ばっ気槽や二階層沈殿池の実用化はこの方向での成果である。
 幸い、建設省(現国土交通省)の外郭団体である日本下水道事業団に2度出向する機会を得、また自局における維持管理や技術開発の部門での仕事を通じて、さまざまな下水処理技術に出合ってきた。
 あるときはその技術の開発段階での苦楽をともにし、あるときは客観的に技術評価する立場で接してきた。
 以下に今までの経験を踏まえて、東京都の下水処理技術の流れを振り返るとともに、将来への期待を技術論的に述べることとする。

[下水道計画]

 江戸時代にもすでに開渠の排水路が整備され、川や堀とともに雨水や雑排水の排除システムの役割を担っていたが、地下に下水道管を一定の勾配をつけて埋設する近代的な下水道の建設は、明治に入ってからである。

@ 神田下水[1884〜5(明治17〜18)年]
 外国のお雇い技師がいろいろな都市で下水道建設を指導した。東京の神田下水の建設は、オランダ人のデ・レーケの指導による。し尿を下水道管に流させなかった代わりに処理施設は設けず、未処理で放流するものであった。
 これは当時、し尿は汲取られ近郊の農村へ運搬し、肥料として利用されていたからである。

A 東京市下水設計第一報告書[1889(明治22)年]
 イギリス人のバルトンが中心となって作成したものである。この報告書で、下水処理の概念が初めて導入されている。
 分流式で、雨水は在来の排水路を利用するものとし、芝浦、三河島、砂町の三つの処理区を設定し、そのうち三河島については下水(この場合は雑排水。原則としてし尿は含まれない)を処理するとしている。処理法は「間欠砂ろ過法」である。
 バルトンは1887年に来日し、日本の多くの都市の下水道計画を指導した。来日以前のイギリスの状態をよく知っていて、たとえば、テムズ川に未処理の下水が放流されひどく汚れていたのを見ていた。
 そこで、芝浦は海に放流し、また砂町は中川の河口に放流するがすぐに海に出るので、この二つの処理区では下水を処理しなくてもよいが、三河島は隅田川の中流に放流するので下水を処理しなければ、テムズ川のように水質汚濁が進み大変なことになると考えたのである。
 しかし、この計画は財政が許さないということで陽の目を見なかった。

B 東京市下水設計調査報告書[1907(明治40)年]
 中島鋭治を中心とする委員会から出されたもので、雨水と雑排水とし尿とを一つの管に流す合流式で、三河島と砂町は下水をセプテイックタンク(腐敗槽)と接触ろ床で処理した後に放流するものとした。もっとも、後に芝浦も処理をすることになった。
 今日の東京の下水道計画は、これが基になっている。

C 三河島汚水処分場に実際に導入された処理技術
 米本晋一(後の東京市下水道課長)は、1911(明治44)年に欧米に出張して、つぶさに下水道技術を調査し、散水ろ床法のほうが接触ろ床法よりもすぐれていると報告し処理法を変更した。三河島の散水ろ床の稼動は、1922(大正11)年である(1964〈昭和39〉年まで運転)。
 なお、砂町(汚水処分場)は1930(昭和5)年に、芝浦はその翌年にそれぞれ沈殿処理法で運転を開始している。

D 活性汚泥法の実用化実験
 草間偉が欧州に留学し、帰国後、1921(大正IO)年に土木学会で「活性汚泥法」を紹介したことを受け、東京市は1927(昭和2)年から、パドル式(鉄製の水車で槽内をかき回す)とシンプレックス式(対流を起こしながら水面上の四方に水滴として振り撒く)と散気式(細かい気泡を送る)に分けて実験に入った。
 名古屋、京都などの他都市は、散気式一本で実験を始めたが、東京は安価なばっ気法を模索し数多くの実験を繰り返したため結論を出すのに時間がかかり、活性汚泥法の導入がやや遅れた。
 結局、三河島にパドル式が1934(昭和9)年に、芝浦にシンプレックス式が1939(昭和14)年に、それぞれ導入された。
 砂町は散気式に決められていたが、実施は戦後(1960〈昭和35〉年)になった。
 実施設での酸素溶解効率、処理性能、メンテナンス性などから、その後は散気式が採用されるようになり、パドル式が1971(昭和46)年に、シンプレックス式が1972(昭和47)年にそれぞれ廃止された。

E 普及率の変遷と現状
 東京の区部における近代下水道の建設は、1908(明治41)年の「東京市下水道設計」告示を受け、本格的に開始された。関東大震災や太平洋戦争の影響もあり、当初の進捗度は遅く1946(昭和21)年度で普及率がようやく1O%の大台に乗ったばかりの状況であった。
 しかし、東京オリンピック開催に向けて昭和30年代からピッチが上がり、昭和45年の公害国会以後さらに急伸した。
 普及率でみると、昭和46年度が38%、56年度が77%、平成元年度が93%、そして、ついに平成6年度に念願のほぼ100%の普及を達成した。
 23特別区の57,839haを対象に実施している区部下水道事業の現況(平成11年度末)は、普及人口;約815万人、下水道管の総延長;15,191km、処理能力;約629万m3/日、処理区数;10、ポンプ所数;80、処理場数;13、汚泥処理施設数;7(うち汚泥処理専用プラント数;2)、処理水量;約480万m3/日、脱水汚泥の発生量;約3,000t/日、脱水汚泥の焼却率;約92%である。

[水処理]

 下水道は、都市に生活している者にとって必要不可欠な施設であるが、単にそれぞれの家庭に設備すれば、ただちにその利便性を発揮するものではない。
 地下に網の目のような下水管網を張りめぐらし、要所要所にポンプ場を設け、最終的には終末処理施設によって下水を浄化し河川や海に放流する、という極めてシステマティックな施設である。

@ 管路施設
 管路施設は、下水を集めて処理場まで自然流下させるもので、取付管、管渠、マンホール、雨水吐などから構成されている。

A 水処理施設
 各家庭から流された下水は、最終的には終末処理場で浄化されるが、その原理は水中に自然に生息している好気性微生物の働きを応用した活性汚泥法である。
 目には見えない細菌や原生動物が、汚濁物を餌として食べることによって汚水が浄化される。
 処理場に流入した下水は、沈砂池で粗い固形物が取り除かれた後、最初沈殿池での1次処理(微細な浮遊物の除去)、ばっ気槽、最終沈殿池での2次処理(コロイド状の固形物、溶存有機物の除去)を経て、次亜塩素酸ソーダなどにより消毒された後放流される。
 最近では、富栄養化物質であるリンや窒素をも除去できる、嫌気−好気法、凝集剤添加活性汚泥法、嫌気−無酸素−好気法などの活性汚泥法の変法が採用されつつある。
 また、急速砂ろ過法が2次処理の後に高度処理として付加されることもある。

[汚泥処理]

 下水処理は水から汚濁物質を分離し、さらに溶解成分の一部を活性汚泥で生物学的に浄化した後に固液分離し、上澄水を処理水として河川等に放流することによって、水の部分について一応の処理目的を達成するが、その一方で汚濁物が濃縮されている固形物すなわち汚泥が処理場に残される。
 下水に含まれている汚濁物のうち、生物処理によって炭酸ガスと水とにまで分解されるのはわずかであるからである。
 この汚泥の処理・処分こそが、本来の意味での下水処理であるといえる。発生した汚泥を処理場から搬出しなければ汚泥で埋まってしまう。下水処理というと、浄化されてきれいになった処理水にばかり目を奪われがちであるが、汚泥を安全に処理処分して、はじめて下水処理の目的が全うされるのである。

@ 液状汚泥の投棄(1922〜43年頃)
 戦前の処理場には汚泥の投棄船が何隻かあり、職員として船長、機関長、水夫が採用されていた。固形物濃度にして1〜2%の液状の汚泥を船に積んで東京湾に投棄していた。

A 天日乾燥(1943〜61年頃)
 太平洋戦争が激しくなり、燃料の配給がなくなったり、また船が焼けたりし投棄船が使えなくなった。そこで液状の汚泥を天日で乾燥し、有機肥料として農家に販売した。

B 機械脱水(1961年〜)
 天日乾燥は長い処理時間を要し広い場所が必要なことから、機械脱水法の一つである真空脱水機が1961(昭和36)年に導入された。
 これは無機系の凝集剤(消石灰と塩化第二鉄)を添加する方法である。脱水汚泥は埋め立て処分された。
 その後、有機系の凝集剤を用いる脱水機(遠心脱水機、ベルトプレス脱水機)が開発され、凝集剤の添加量が格段に少なく脱水汚泥の減量化に大きく寄与することから次第にこのタイプに移行していった。

C 脱水汚泥の焼却(1967年〜)
 汚泥の埋立地に限りがあることから、減量化と質的安定化を図るため脱水汚泥を焼くことになり、焼却炉が1967(昭和42)年に初めて建設された。立型の多段炉で、鉱石を焼く炉の技術転用である。
 その後、カロリーの高い有機系の凝集剤を用いて脱水した汚泥を焼却するのに適した流動層式が下水道独自の技術として開発され普及していった。

D 汚泥の消化(1961年〜)
 嫌気性微生物の働きで汚泥中の有機物をガス化し汚泥量を減少させるとともに、有機分濃度を下げ質的安定化を図る方法である。
 1961(昭和36)年に採用された。焼却炉が普及したことにより、この工程が省かれることが多い。

E 汚泥処理プロセス
 実際には、濃縮(重力濃縮、遠心濃縮、浮上濃縮)、消化(嫌気性消化)、脱水(真空脱水、ベルトプレス脱水、遠心脱水)、焼却(多段焼却炉、流動層焼却炉)の各プロセスがさまざまに組み合わされている。
 これらの工程を受けることによる汚泥容積の変化は液状の生汚泥の容積を1とすると、脱水汚泥は1/25、焼却灰は1/400に減容化される。

F 汚泥の海面埋立て
 護岸や締め切り施設を築造し、浸出水処理施設を設けるなど自然環境を破壊しないよう配慮している。

G 汚泥の有効利用
 有機凝集剤を用いて脱水した汚泥の焼却灰は、化学組成、粒度などが粘土に類似していることから、粘土系建設資材(陶管、タイル、レンガなど)やセメントの原料の一部として利用されている。

[これから期待される下水処理披術]

 環境サイドからの指導・規制の強化が予測されるなか、今後早急に開発が迫られている技術には次のようなものがある。

@ 有用細菌の増殖・保存技術
 下水中には生物分解しにくい有機物が多数含まれているが、今後放流水質の規制が厳しくなることが予測される折、これらの物質を分解除去する能力の高い細菌を活性汚泥等から単離・保存し、必要に応じて大量に培養しばっ気槽に投入する技術の開発・実用化が待たれる。
 糸状性細菌や放線菌を駆逐してくれる天敵となる微生物や薬剤に対しても同様の要望がある。
 このためには、微生物学的アプローチとともに発酵工学的あるいは薬学的(微生物製剤、予防薬、治療薬)な発想が必要となる。

A 有用菌の棲み家としての担体の添加
 窒素除去機構のベースに位置する硝化菌は、通常の有機物分解菌に比べて増殖速度が格段に遅く、余剰汚泥の引き抜きの際にウオッシュ・アウトされてしまい、硝化反応を安定して行ううえでの隘路となっている。
 また、水温の低下する冬季には、硝化菌ばかりでなく有機物分解菌や脱窒菌の菌数も減少し、放流水質の確保が不安定となる。これらの現象を改善するには、有用菌の棲み家となる良質の担体の開発が不可欠である。

B 新たな固液分離技術の実用化
 最初沈殿池および最終沈殿池の原理は、水との微妙な比重差を応用した重力沈殿法であるが、水量変動時における汚泥のまきあげ現象など改善すべき点もあり、最近、発想を大々的に転換した固液分離法が開発され、一部は実用化されつつある。
 それは、最初沈殿池の代替技術としての浮上性のプラスチック製ろ材を用いた高速ろ過法であり、不織布(紙を漉く方法でつくった布)を利用してばっ気槽内の活性汚泥混合液を固液分離しようとする最終沈殿池代替技術としてのダイナミックろ過法である。

C 消毒法の開発
 現在は塩素消毒が一般的である。しかし、これは大腸菌などの細菌に対しては有効であるが、ウイルスや原虫には効果的ではない。
 そこで、これらをもカバーできる紫外線やオゾンを用いた新しい消毒法の実用化が一部ではあるが進められている。

[おわりに]

 私が品川駅の東口を出て、運河に架かる御盾橋を渡って母校に通っていた昭和30年代の後半における東京の水環境は、川はもとより運河を含む内湾もひどく汚れており、浅草海苔の名前で知られていた江戸前の海苔養殖もその漁業権が放棄されようとしていた。御盾橋の下の水もどす黒く濁り、プーンと卵の腐ったような臭いがしていた。
 あれから40年近くが過ぎ、下水道の普及を中心とした水質汚濁防止対策が功を奏し水質が改善された結果、運河でボラがジャンプし、秋には人々がハゼ釣りに興じる風情が見られ、また、神田川にアユが遡上したとの新聞記事がここ数年来風物詩のように紙面をにぎわすようになった。誠に隔世の感がある。
 おわりにあたって、藻類学の講義のなかでの片田実先生の環境問題に対する鋭い指摘に触発されて水質に関心をもつようになり、はからずも下水道事業の面からこの分野にかかわることができたことを申し添える。