読み物シリーズ
水槽便所と新聞広告
目次
はじめに
水槽便所取締規則の制定
京都府水槽便所取締規則
水槽便所取締規則の制定に併せて、水槽便所の広告を各紙に掲載
整備が続く水槽便所
水槽便所の適切に管理されていたのか
『トイレット浄化紙』の新聞広告
日本で、トイレットペーパーの発祥地は?
嶋村商会のトイレットペーパー
おわりに
大正期から昭和初期にかけて、屎尿浄化槽のルーツともいえる水槽便所の取締規則が、各府県で制定され、便所の設置等が規制されました。京都府では、水槽便所取締規則の制定にあわせて、地元新聞に広告が掲載され、水槽便所やトイレットペーパーの晋及が図られています。
はじめに
下水道の整備を中心に、トイレの水洗化が飛躍的に進んできましたが、人家が散在する地域においては、快適な生活空間の創出と公共水域の水質保全を図るため、屎尿浄化槽の役割は大きなものがあります。屎尿浄化槽は、明治末に川崎の工場で設置されたのが始めてとされ、大正期になると、高層建築や洋風建築が各地で建てられ、水道が次第に普及するに従い、水洗便所が増えていきます。その汚水等は、貯留槽等に溜められますが、汲取には多額の費用がかがります。また、水洗便所の屎尿は肥料としての価値が低いため、農家はなかなか引き取らず、その処分に困ることになります。東京の丸の内では、水洗便所の汚水が皇居の濠等に流れ込み、夏季等には悪臭が発散し、新聞等で非難されています。
このため、会社、学校や工場等の屎尿。汚水を処理するため、屎尿浄化槽のルーツといえる水槽便所が各地に設けられましたが、警視庁は、大正10年(1921)6月2日に、水槽便所取締規則を制定し、水槽便所の設置や水質汚濁等を規制しています。
水槽便所取締規則の制定
京都市内でも、屎尿汲取で認可を得ていた某店が、溝渠に屎尿を排出するケースも生まれていますが、不完全な便所が周辺の井戸を汚染し、屎尿や汚水が加茂川や高瀬川等に流れ込むことは、市民の保健衛生上ゆゆしき問題であり、遊覧都市京都として最も好ましくないことでありました。
大正末期頃になると、京都府では、水槽便所取締規則の制定や「屎尿試験所」の設置が検肘され、更には専属の技師等を配置して、水洗便所のみならず、屎尿の科学的な処分の研究を始めています(屎尿研究所は未設置)。当時・水槽便所の浄化装置は、西原式、須賀式、城口式、文化式等、約20種類ありましたが、京都府は、腐敗槽、酸化槽、消毒槽で構成される水槽便所で、屎尿を処理できると考え、良も簡便で完全な浄化装置を選定する考えでした。
水槽便所取締規則は、警視庁が大正10年(1921)に設けて以降、大正11年5月25日に兵庫県、同13年2月8日には愛知県で制定されています。昭和に入ると、多くの府県で水槽便所取締規則や汚物掃除法施行細則等によって、水槽便所の規制が行われています。京都府は、水槽便所の汚水が、最終的には大阪の飲料水として利用されていた淀川に流れることを考慮し、また、大阪府からは、「浄化装置を少し入念な方法でやって欲しい」との要望もありましたので、大阪府と事前に協議し、大正15年6月1日に水槽便所取締規則を、警視庁、兵庫県、愛知県に続いて制定・公布しています。
京都府水槽便所取締規則
京都府の水槽便所取締規則は、付則も含めて21条から構成されています。その内容は、@水槽便所の知事の設置許可(第3条)、A落成届出と許可後の使用(第4条)、B水槽便所の浄化装置の基準(第5条)、C水槽便所を構成する腐敗槽、酸化槽、消毒槽の構造(第6条)、D排出汚水の標準と基準適合(第8条)、E便器への水使用量(第9条)、F水質検査と不適合の水槽便所の使用禁止(第10条他)、G腐敗槽の定期的な掃除(第13条)、H市街地建築物法との関係(第20条)、Iその他経由機関(第18条)、J罰則(第15・16条) などです。
警視庁、兵庫県、愛知県と比較してみると、条項は違っても、その内容はほぼ同じです。京都府は、疏水が京都市民の水道水源であることを考慮して、疏水やそれに通ずる水路沿いに水槽便所の設置を禁止(第2条)するとともに、東高瀬川と合流地点より上流の鴨川に、汚水が流れる水槽便所には、酸化槽を3槽(通常は2槽)とする(第5条)など、規制内書は他県に較べて比較的厳しく、また、許可申請書類等も細かく定めています。
また、水槽便所の排出汚水の標準は、@微に溷濁するも、殆ど臭気を放たないこと、A亜硝酸又は硝酸の反応著明なること、Bメチーレンブラウ脱色試験に於て5時間以内に脱色せざること、C4時間内に於ける酸素吸収量は10万分中1.5以下たること、D蛋白性アンモニアを含有することあるも、10万分中0.3以下たること、E原汚水に対し酸素吸収量及び蛋白性アムモニアの含量に於て45.0%以上の減少率を示すことの6項目で、これは警視庁等とほぼ同じです。
水槽便所取締規則の制定に併せて、水槽便所の広告を各紙に掲載
京都府の水槽便所取締規則の制定にあわせて、京都で発行されている新聞各紙は、相次いで水構便所の整備を促す広告を掲載していますが、水槽便所の構造や汚水浄化の仕組みが、大変よくわかる内容です。
規則公布の翌日、大正15年(1926)6月2日の京都日日新聞4面に、「汚水浄化装置府令(六月一日ヨリ実施)公布と斯界の権威」の見出しで、須賀商会・西原衛生工業所。富永製作所。松田商会(桐田商会京都代理店)・城口研究所・棚橋商会(神戸市)・神野信次郎(日本水道衛生工事株式会社京都出張所)が、連名で全面広告を掲載しています。紙面の全面を使った広告は、今ではよく見かけますが、当時としては、製薬会社等の広告等に限られ、少なかったのです。
この年、京都日日新聞は創立15周年を迎え、地元の銀行をはじめ、企業。商店が連名で、数回にわたり、創立15年を祝う全面広告を出稿しています。まだ、発刊してから日が浅く、部数が少なく、経営的に厳しかった京都日日新聞は、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞や京都日出新聞に対抗して広告面に力を入れていました。汚水浄化装置の全面広告が掲載されたのも、京都日日新聞の営業努力が大きかったと思われます。
京都日日新聞の広告に刺激を受けたのか、6月4日の大阪朝日新聞京都滋賀版1面に、須賀商会の「水槽便所浄化装置設備使用認可府令発布」の広告(4段抜き)が掲載されています(図1)。須賀商会は、創業明治35年(1902)、宮内庁御用達で早くから水道設備や衛生設備に取り組んできた、業界のパイオニアです。広告は、水槽便所の浄化の仕組み等を、図解で詳しく説明し、新設又は改造の節は是非須賀式の浄化装置の採用を奨めるものです。
図-1 大阪朝日新聞京都滋賀版大正15.6.4
遅れて6月11日の京都日出新聞夕刊4面に、富永製作所・西原衛生工業所・城口研究所。神野信次郎の4社が、6段抜きの広告を掲載しています(図2)。西原衛生工業所は、大正6年に創業以来、東京、名古屋、大阪、京都、神戸等で、事務所、学校、病院や百貨店等の衛生工事を手広く施行し、城□研究所も、同じく大正6年に城口汚物下水処理研究所を創設し、同7年には城□式大正便所の特許を取得するなど、水槽便所築造業界のトップ企業が連名で広告を掲載しだのです。
京都で新聞を発行していた 3紙が、競って水槽便所の広告を掲載したのです。水槽便所の広告は、大変珍しかったのです。大正11年5月に水槽便所取締規則が公布された兵庫県では、地元の神戸又新日報や大阪朝日新聞神戸付録に、汲取以外の便所は取締規則の適用を受け、必ず知事の許可を受けるなど、規則の内容を簡単に報じられるのみで、水槽便所の広告は掲載されていません。神戸新聞には、規則の制定の記事すらありません。
京都の各紙の広告に遅れること1ヶ月、大正15年7月29日の東京朝日新聞7面に2段抜きで、西原衛生工業所の「西原式水槽便所 汚水浄化装置」の広告が見られる位です。この広告は、大阪朝日新聞には掲載されおりません。その後も、全国紙である朝日新聞や読売新聞には、水槽便所の広告はほとんど見当たりません。
京都では、「最も確実なる建築材料等業者案内」欄における水洗式便所浄化装置の請負広告、施設の完成写真を掲載して、水槽便所の施行実績を宣伝する広告、更には、「御大典と水道衛生工事」とした絵入りの広告が、京都日出、京都日日、大阪朝日新聞京都滋賀版の各紙に掲載されています。
整備が続く水槽便所
水槽便所取締規則が施行された当時、京都府衛生課の調査によれば約70箇所の水槽便所が規制を受け、更に、施行後1年の間に、120ヶ所の水槽便所が完成し、約250ヶ所の工事・出願中と京都日出新聞は伝えています。その後も、ホテル・病院。事務所・小学校・中学校等の建設にあわせて、水槽便所が次々に整備されていきます。
昭和3年(1928)2月に竣工した、京都ホテル(現在の京都ホテルオークラ)の汚水浄化装置は西原式汚水浄化装置、同年5月には、舞鶴海軍共済病院に1万2千円の工費をかけて、最新式の屎尿浄化装置が整備されています。昭和3年5月に竣工した、京都市の郁文小学校(当時)の水槽便所には、同市の土木技師が考案した京都唯一のアスファルトフロック式が、同年8月には京都府警庁舎が竣工し、「大正便所・城□式汚水自然浄化装置」が採用されています。御大典記念事業として、昭和4年2月に、京都市の城巽小学校(当時)の南校舎と児童用水槽便所が完成し、同年5月には、東洋一といわれる京都府立第一中学校(現在の洛北高校)の校合が竣工、便所等が整備されています。
京都市では、水槽便所の設直等を円滑に進めるため、嘱託の工学士を専門技術者として、衛生課に配置し、水槽便所の設計・出願手続に相談にのるとともに、昭和3年11月に京都で挙行される昭和天皇の御大典に向けて、水道の普及の取り紹みと併せて、水洗便所の不備な点について、市民の相談に応じています。その後、水槽便所は、上京区、中京区、下京区等の京都中心部で多く整備され、昭和10年末には、京都市内で約880ヶ所設置されています(表)。なお、昭和初期には、東京で約2500基、大阪府で1300碁、兵庫県で約1400基、愛知県で約600基と、都市部の府県を中心に、水槽便所の整備が進んでいます。
図-2 京都日出新聞 太正15.6.11
水槽便所の適切に管理されていたのか
屎尿浄化槽の機能を発揮するには適切な維持管理が大切ですが、多数設置された水槽便所は、どのように維持管理されたのでしょうか。
京都市立衛生試験所は、水槽便所取締規則が制定される以前から、水槽便所について調査研究を続けています。大正14年(1925)には、京都市の新庁舎の建設に併せて「京都市庁舎汚水浄化装置ノ様式ニ関スル調直」を行ったのをはじめ、ほぼ毎年水槽便所について調査が行っています。市役所の水槽便所をはじめ一般の水槽便所、更には職業別に水槽便所を選び、水槽便所の酸化槽の入口と出口の汚水について、色度・濁度・遊離塩類アンモニア・蛋白性アンモニア・4時間酸素吸収量・細菌聚落数等を分析しています。これらの調査結果は、昭和5年(1930)に、「水槽便所酸化槽の汚水浄化能力並に同放流汚水の衛生学的調査報告」としてまとめられています。
その報告によれば、水櫓便所の浄化能力は、型式の如何によらず、使用方法の巧拙によるとし、放流基準に全部合格した水槽便所は約2.1%過ぎず、反対に全部不合格なものは約3.4%です。また、水槽便所の酸化槽の出口の水質が、入口の水質を上回るものも多数見受けられ、必ずしも良好の結果が得られていません。しかし、放流汚水が下水溝等を通じて川に流れる時は、多量の河川水によって希釈されるので、水槽便所によって腐敗を十分に行い、清水を以て希釈浄化できれば、衛生上問題ないと結論付けています。
その後、水槽便所の不適切な使用等により、その汚水等が原因で、赤痢やチフス等が発生する事例が新聞に報じられています。また、水槽便所の掃除等も励行されず、溝渠等に汚物を流れるケースも見かけられています。昭和7年には、松原署が管内の水洗便所(95ヶ所)を検査したとこう、7割が殺菌不完全で、年1回行うべき掃除等も行われず、大便が固形のまま下水に流れている便所も発見されました。
このようなこともあり、京都府は、昭和8年に水槽便所取締規則を改正し、浄化装置及び消毒装置は、所轄警察署長の立ち会いの上、毎年1回以上掃除を行って、浮渣及び沈殿物を除去し、所轄警察署長の認可を受けて処分することになりました。どこまで適正な維持管理が行われたのが、疑問が残るところです。
『トイレット浄化紙』の新聞広告
水槽便所が設置されるに従い、塵紙等に代わって、トイレットペーパーの使用も少しつつ増えていったのが、「尻を拭く材料」の広告も、新聞に登場しています。
昭和5年(1930)5月29日の京都日日新聞に、浄化商会の「トイレット浄化紙 衛生・経済 巻取り便所紙 宣伝売出し」の広告が掲載されています。「新時代の必需品たる衛生経済完備の浄化紙は美白消毒済の紙にてミシン入約五百回分巻」とうたい、定価は、「二百五十尺巻一個 拾七銭、弐拾円お買上に付き装置用釣器具進呈」とあります。私達がトイレットペーパーを使用する時とほぼ同じ釣器具が、図解入りで説明してあります(図3)。
表 昭和10年水槽便所設置数
その後も、「『浄化』印に御注意 赫灼たる大好評!!! 気持ちよくて、値が安い! 便所必備の至宝として『巻取り便所紙』(6月25日)、「巻取便所紙 品質優良価格低廉」(7月2日)と、京都日日新聞には、次々にトイレットペーパーの広告が掲載されています。また、11月24日には、代理店の三英社が「水槽便所にぜひ必要な トイレットペーパーは浄化商会 発売の浄化紙 に限る」、翌年1月26日も同じ広告を掲載されています。
図-3 京都日日新聞 昭和5.5.29
日本で、トイレットペーパーの発祥地は?
さて、日本でトイレットペーパーの製造ですが、「大正13年(1924)に土佐紙会社芸防工場で、神戸市の島村商会の要望で、その原紙を抄く為に丸網抄紙機75吋幅を設置」(日本紙業社内報「芸防抄紙物語」)により、土佐で始めて製造されたとされてきました。
しかし、大正4年10月5日の「紙業雑詩」第10巻第8号の「トイレットペーパア」の中で、「本邦では神戸辺りで此巻取紙を製造し、内外の需要に応じて居る」と記述されています。『日本紙業発達史』によれば、大正10年8月に、東京戸塚の東製紙株式会社が、高田馬場に第二工場を新築し、長網抄紙機ヤンキーを設け、「トイレット紙」の抄造を開始したとあります。日本でのトイレットペーパーの製造時期は、もう少し時代を遡る可能性もあります。
また、明治36年(1903)に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会に、京都市の大和大路新門前西ノ町の川崎新三郎が、「巻取塵紙其他四点」を出品しています。博覧会の「鼻紙塵紙ノ類」には、全国から260点が出品されていますが、第五回内国勧業博覧会審査報告では、珍しかったのか、わざわざ1項目をあげて、「京都府出品中機械漉巻取塵紙アリ 其ノ品質ハ未タ賞スルニ足ラサルモ 此等ノ品質ヲ機械漉トシ 以テ生産費ヲ節約セントスルノ考案ハ 能ク時宜ニ適セルモノ」と評しています。商品に対する評価は厳しいですが、その努力を称賛しています。
この「巻取塵紙」ですが、「紙業雑誌」の「継合わせて小き巻取りにしてあった」と書かれた記事を考えますと、京都の紙商の川崎新三郎が、外国のトイレットペーパーを真似て、「巻取壁紙」=トイレットペーパーを造ったと考えられます。京都は、早くから外国人が訪れて、「也阿弥」や常盤ホテル(現在の京都ホテルオークラの前身)等、外国人が宿泊できるホテルがありました。外国人が用を足すために、トイレットペーパーが用意され、市内の紙商が、巻き取り式を試作したのではないでしょうが。日本でのトイレットペーパーの製造は、明治末期まで遡る可能性もあり、京都がトイレットペーパーの発祥地とも考えられます。
嶋村商会のトイレットペーパー
ところで、日本で最初に製造発売したとされている嶋村商会のトイレットペーパーですが、筆者は、偶然その実物を入手することができました(図4)。 嶋村商会のトイレットペーパーには、「TOILET PAPER」とあり、その商品説明は、邦文と英文の二通りで、次のように記載されています(英文省略)。
図4嶋村商会のトイレットペーパー(著者蔵)
「◎目下非常の好評を博しつゝある幣商会製造販売の衛生トイレットペーパーは消毒を施したる紙質精良の継目なき純白の日本紙にして全紙に七吋毎に点線を附し切取を便にせり ◎本品の特色は在来品の如き多量の石灰及び他の有害物を含有せざる衛生且経済的の実用品なるが故に紳士淑女の御家庭乃至?車、汽船、旅館、病院等には一日も缺く可からざるものなり未だ御試用なき諸口は進んで御試用の程偏奉顧上候」とあります。
このトイレットペーパーに記載されている住所「神戸市下山手通三丁目」と電話番号「三宮一九九七番」により、「大正14年5月1日現在 神戸市電話番号簿」などで調べてみますと、嶋村商会の代表者は間喜一郎氏、住所は神戸市下山手三丁目62番地40号で、「トイレト」関係の業務を営んでいることがわかりました。また、「神戸市商工名鑑 大正14年」にも、「島村商会」は掲載されています。営業品目はトイレットペーパー、営業種別は製造、仕入先は土佐、販売先は東京です。営業税額は四〇(円)、商号又ハ氏名は島村商会 間喜一郎、営業所は下山手通三丁目六二ノ四〇、電話番号。振替口座は宮三三七一・大振三五九八○と、神戸市電話番号簿とほぼ同じ内容です。
「昭和13年 神戸御影六甲山電話等号薄」には、嶋村商会の記載はありませんが、代表者である間喜一郎氏は、無職の欄に登場します。このため、何等かの事情で嶋村商会を閉じたのかもしれません。これらから推定すると、このトイレットペーパーは、大正末期から昭和初期に製造されたの可能性が高くなります。
おわりに
大正から昭和初期にかけて、水槽便所とトイレットペーパーについて、京都で発行された新聞を中心にみてきました。
戦後は、世の中があらゆる事が急激に変化した時代です。便所は、ポットン便所から水洗トイレ、更に温水洗浄便座へ.「尻を拭く材料」は、木べら。藁(少ないかもしれません)から新聞紙。雑誌紙、更には塵紙へ、水洗トイレの普及にあわせてトイレットペーパー、近年では、温水に「尻の拭く材料」の地位を等われつつあります。
排泄のスタイルの変化は、日本人が生んだ貯留式便所や塵紙を、私達の記憶の片隅に追いやり、資料館等でしか知ることのできない、歴史的な生活遺産になりつつあります。「紙業雑誌」には、「洋式製紙の比敏的清潔にして廉価なるのみか、使用目的にも適する様に製造さるゝが故に、和紙の落とし紙は自然に排斥され、ハイカラのトイレット。ペーパーが世に出ることになるであろう」と書かれています。「紙業雑誌」の著者は、トイレットペーパーをはじめ、現代のトイレの隆盛をどこまで見通していたのでしょうか。
排泄は、食糧の確保とともに、社会が始まってから、人間がいつも頭を悩ました問題です。トイレの腰掛便座に座って、快適な生活を実現のため、多くの人々の英知とたゆまぬ努力が費やされてきたトイレやトイレットペーパーの歴史に、想いを巡らして頂くことを願っています。