屎尿・下水研究会

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屎尿の処分と農地への施肥(2007/07/21)

NPO日本下水文化研究会理事 地田 修一
はじめに
屎尿の収集運搬
屎尿の売買
農地への施肥
屎尿の投棄
改良便所
屎尿処理の基本方針
屎尿処理施設での堆肥化
浄化槽
下水道への屎尿の排除と下水汚泥の堆肥化
下水汚泥堆肥の実施例
いらないものを活用する

はじめに

 都市から発生する屎尿は、貴重な肥料として有価物として有料で汲取られていたが、大正の半ばに至り都市住民側が汲取り料金を支払うようになり、廃棄物視されるようになった。


屎尿の収集運搬

(1) 荷車(手車)

 この辺の若者は皆東京行をする。この辺の「東京行」は、直ちに「不浄取り」を意味する。荷馬車もあるが、九分九厘までは手車である。弱い者でも桶の四つは牽く。少し力がある者は六つ、甚だしいのは七つも八つも牽く。一桶の重量十六貫とすれば、六桶も牽けば百貫からの重荷だ。(「みみずのたはこと」徳富健二郎)
 明治末〜昭和初期の東京・世田谷でのはなし。

(2) 馬車、牛車

 (汚わい船が)着く岸の近くには、どこにも大抵肥溜が並んでいて、一旦そこに移された下肥を、農家の人たちが牛車や馬車で来て、肥担桶に詰めて買って行く。(「江戸川物語」伊藤晃)
 昭和14年頃の江戸川中流域でのはなし。

(3) 肥船

 私たちのヤマベ釣りの場所は、新河岸の汚わい船の着くところと決まっていた。ヤマベたちは、その船からこぼれる蛆を食いに寄っていたのである。(「江戸川物語」伊藤晃)
 この肥船は屎尿を直接船に入れて運ぶものですが、このほかに肥桶を載せるタイプもあった。

(4) 貨車

 東武伊勢崎線牛田駅の近くに引込み線をつくり、ここに屎尿の中継所を設け、木槽貨車に積み替え、中千住駅まで人力で移動させ、貨物列車に連結していました。運搬は夜間でした。(佐野丈夫談)
 昭和21年頃のはなし。

(5) トラック

 昭和27年頃、2トンのオート三輪車を買いました。肥桶を12本積むことができました。タイヤが小さいので、これ以上は無理でした。しばらく、荷馬車と併用しました。(高杉喜平談)
 桶を両側にぶら下げた天秤棒をかついで、トラックの荷台にさしかけた板を登っていくのはよほどの熟練が必要だった。(聞書き)

(6) バキュームカー

 昭和36年にバキュームカーを購入しました。値段が高くて(25万円程度)たいへんでした。その頃のホースは今みたいにビニール製でなく、ゴム製で重かったので肩に担いで運びました。(高杉喜平談)


屎尿の売買

(1) 農家が自家用に都会の屎尿を汲取り対価を払う(鎌倉時代から)

 小便桶二つと旬の野菜を盛った篭を担ぎ、おおっぴら声高らかに道を通行する賤夫がいる。・・・それぞれの家の夫婦や娘は、すぐにその声を聞き、家を出て小声で「小便」と呼ぶ。そしてまず、その交換する野菜の名をたずねる。その品が考えに合えば「入って尿を汲みなさい」と言う。・・・汲み終ると、大根何本、茄子何個、野菜何把と報告する。娘は詳しく尿の量と野菜の量がつり合っているかを調べ、もし多ければ当然異論はなく、もし少なければ「さらにもっと加えなさい」と言う。(「都繁昌記」森田英樹訳)
 江戸後期の京都でのはなし。

(2) 専門業者の出現(都会で屎尿を買い、農村まで運搬し販売する。江戸時代後期から大正前期まで)

 関東取締出役が、下肥商人が掃除代や下肥代を吊り上げていることに対してけしからんといっています。ここで掃除代というのは、下肥を汲取る時に家主に支払う代金のことです。下肥代というのは農家に売る時の値段です。・・・それぞれの下肥を荷揚げする河岸には、下肥売り捌き人がいて、これは農民と肥船の船頭との仲立ちをしている人ですが、どうも手数料を取っていたらしい。そういう人たちが戸田市域にも結構な数いました。(「戸田市郷土博物館資料」)
 幕末の埼玉県・戸田でのはなし。

(3) 屎尿を発生する側が汲取り料を支払う
(農家、専門業者、自治体の三者が地域を分けて汲取りを実施。大正後期から)

 大正7年になると、屎尿の汲取りが停滞するようになります。そこで、東京市では市が直接、屎尿を汲取る事業を開始し、汲取り料金(大正9年では1荷(2桶)当たり10銭)を取ることにしました。(「下肥の流通と肥船」)
 大正14年当時の大阪市における屎尿の処分は、従来の汲取り便所から汲取り処分を行っているもの(市営5%、民間95%)と、水洗トイレを用い浄化槽で浄化してから下水に放流するものに大別されるが、大部分は汲取り処分である。(「本邦都市に於ける屎尿処分の現況と将来」藤原九十郎)


農地への施肥

 農地の横に設けた肥溜で汲取ってきた屎尿を腐熟させた後、畑や水田に施肥した。
 写真―1 農地への下肥の施肥
 写真―2 肥溜

(1) 江戸時代の農書

 佐藤信淵著「十字号糞培例」は、屎尿と他の肥料との調合の割合や施肥量や施肥方法を具体的に述べている。例えば、「馬糞3荷、草木灰3荷、獣肉腐汁3荷、酒粕5荷、人糞5荷、雨水30荷 以上をよく混ぜ合わせ、大きな桶の中で半月ほど熟して使う。この肥料は、痩せ地を肥やし、草木の生気をきわめてさかんにするには最も優れている」と。(「十字号糞培例に見る屎尿施肥」森田英樹)

(2) 東京東郊での事例

 東京東郊のデルタ地帯(足立、葛飾、江戸川)の農村には見るべき山林がほとんどなく、耕地の地味を維持するには河川や池の泥を使ったり、購入肥料に頼るほかなく、その一つが下肥であった。幸い、船による大量の下肥輸送が容易であったので、下肥をあらゆる作物に大量に利用した。稲単作ではなく、一年中様々な蔬菜を作る農業が展開された。それぞれの野菜(ねぎ、蓮根、きゅうり、なす、小松菜、大根、こかぶ、山東菜など)に応じてきめこまかな施肥が行われた。(「東京東郊の下肥利用の歴史」堀充宏)

(3) 川越近郊での事例

 私の村では、大正末期はまだ人糞肥料の時代で、水田には熟成させた後で使ったが、桑畑では穴を沢山掘ってそこにじかに投入した。桑三株に穴一つ、そこで熟成させる。茶畑でも同じです。一週間に十樽から二十樽は必要だった。金肥を買うだけでなくて、便所、風呂の排水、生ごみ、わら、牛馬の糞や敷わらなんかも全部有効に使用した。(「農民哀史から60年」渋谷定輔)


屎尿の投棄

 住宅地が郊外へ郊外へと進出して農地を減らす一方、最近は化学肥料が普及してきて、屎尿の需要が急激に減ってきました。全国の市町村は頭を痛めました。ここでは、やむをえず、野原に穴を掘って捨てています。ある所では、車で山の中へ運び捨てています。ある大都会では、膨大な量の屎尿がダルマ船に積まれて大川を下っていきます。行き着いた所はもう一段大きい船。屎尿が積み替えられています。やがて、船は黒潮が流れる外海に出ました。バルブがゆるめられます。屎尿が海中に流れ出します。(「映画・し尿のゆくえ」日本環境衛生協会)
 昭和30年頃の状況。


改良便所

 屎尿は貴重な肥料であって、我々は屎尿に対してむしろ或る親しみをさえ感ずるようにならされている。消化器伝染病と腸管寄生虫の伝播は、全く糞尿の媒介によって行われるものであるから、もし屎尿の始末がよく行われるならば、これらの疾病は根絶せしむることができるであろう。
 貯蔵能力が三ヶ月以上におよび、古い屎尿と新しい屎尿が混ざり合わないような構造とする必要がある。具体的には、第一室には上方から土管を通して屎尿が落され、それが次室から次室へと押し送られて遂に第五室へ溢れ出す。それまでに三ヶ月を経過する計算である。第五室の上壁に設けた汲取り口から随意に汲み出すものである。(「便所はどうすればよいか―都市の屎尿問題と改良便所―」高野六郎)
 戦中、戦後で約三万個が設置された。


屎尿処理の基本方針

 昭和31年に政府は、「屎尿処理基本対策要綱」を打ち出しました。陸上投棄や海洋投棄の原則的廃止、総水洗化を目標として、これを公共下水道、屎尿浄化槽、コミュニティプラント(住宅団地の汚水処理施設)により達成し、その間の汲取りトイレからの屎尿は「屎尿処理施設」により処理をするというものです。


屎尿処理施設での堆肥化

 屎尿を嫌気性処理した後に残る汚泥は、コンポスト(堆肥)化され農地に施肥された。

(1) 東京・砂町処理場での事例(昭和28〜57年)

 屎尿を密閉タンクに投入し37℃に加温し20日間滞留させ嫌気的に分解し、上澄み液は下水に混ぜて処理する。一方、沈殿した汚泥は天日乾燥し、野積み状態で好気的に有機物の分解をさらに進め堆肥化し、農家に販売した。堆肥化作業ならびに販売は民間企業に委託して行った。
 写真―3 天日乾燥
 写真―4 堆肥化
 納豆が大豆よりも、沢庵が生大根よりも、奈良漬が瓜よりも味が旨いのは発酵という過程を経て作られるからです。わが社のみやこ有機肥料は発酵浄化して作った有機肥料です。有機肥料は土の中で分解しながら、含まれている肥料成分が作物の生長に応じて効きすぎもなく、肥切れもせず徐々に効いていく、と同時に、土壌を団粒構造にして、作物の根を張りやすくする土壌改良の役目も併せて行います。・・・化学肥料万能の幣ようやく現れ始めた時に当たり、是非発酵有機肥料の長所を皆様の栽培技術の中にお取り入れ下さい。(「みやこ有機肥料」効能書き)
 「みやこ肥料」の主な用途は育苗用でした。化学肥料と違い、ハウスで育てている苗にガス障害が起きることがなく、施肥においても肥料の分量がアバウトであっても作物への影響が少ないという評価でした。言い換えると、作物にやさしく力強い丈夫な苗ができるということです。出荷先は、遠くは北海道、宮崎、高知から、近くは静岡、愛知まで広範囲にわたっていました。主にメロン、キュウリ、トマト、ピーマンなどのハウス園芸に用いられていました。
 農家では「みやこ肥料」のリン成分を重要視していました。屎尿汚泥堆肥に含まれているリン成分は、リン鉱石からつくる化学肥料のリンとは作物に与える効果が異なると評価していたのです。(内藤泰三談)


浄化槽

 浄化槽の設置基数は、平成14年3月現在、全国で882万基あり、そのうち約80%が(屎尿)単独処理浄化槽で705万基、残り20%が合併(屎尿+生活雑排水)処理浄化槽で176万基ある。
 単独処理浄化槽の場合は、生活雑排水が垂れ流されている状態にあるため、平成12年の「浄化槽法」の改正によって、新設時には合併処理浄化槽の設置が義務付けられ、既設の単独処理浄化槽の設置者も、合併処理浄化槽への設置替えに努力しなければならなくなった。


下水道への屎尿の排除と下水汚泥の堆肥化

 平成17年度末のデータによると、公共下水道を経由して屎尿を処理している割合は総人口の63.5%に達している。ちなみに、これに下水道類似施設(農漁村集落排水処理施設、合併処理浄化槽、住宅団地汚水処理施設など)を加えた汚水衛生処理率は、平成17年度末で74.5%である。
 屎尿・雑排水などの下水は活性汚泥という微生物群集の力を利用して処理しているが、この過程で有機物を多く含んだ汚泥が発生する。一部の地域では、下水汚泥を堆肥化した後、緑農地に施肥している。この近くでは、所沢、東松山、茂原、日立、甲府などがある。利用先は、農地、果樹園、牧草地から公園緑地、造園などで、販売形態も多様で自治体が直接農家へ供給するケースから農協、肥料組合、商社を通じて販売するケース、自治体自らが公園緑地で使用するケースなどがある。
 近年、取扱いやすい化学肥料の施用によって農業における生産性が著しく向上したが、一方で、地力の低下による連作障害や病害虫の発生がクローズアップされており、衰えた地力の増進を図るものとして下水汚泥などの有機質資材の重要性が注目されている。(「下水汚泥の農地・緑地利用マニュアル」下水汚泥資源利用協議会)


下水汚泥堆肥の実施例

(1) 天童

 消化汚泥を遠心脱水し、その全量をオガクズ添加による堆肥化を行い、市の農協を通じて販売している。一次発酵は竪型サイロ式、二次発酵は屋内堆積式である。
 図−1 竪型サイロ式
 図−2 堆積式
 写真―5 袋詰した下水汚泥の堆肥
 施肥農家からの感想として、@土が軟らかになる A通気性が良くなる B保水性がよくなる C根の張り具合がよい D特に芝生等で、緑色が濃くあざやかになる Eミミズの発生が見られる などが寄せられている。(「有機性汚泥の緑農地利用」日本土壌肥料学会監修)


いらないものを活用する

 屎尿を農業に使うということに対する評価は二通りに分かれている。都市の屎尿を近郊農村が使うというシステムをリサイクルのさきがけとして高く評価する立場と、屎尿は寄生虫や不快害虫の温床となり伝染病などの原因となったということを主張する立場である。
 この二つの評価はどちらが正しいというものではなくそれぞれ事実であり、どちらにくみするかは価値観の違いとしか言いようがない。
 しかし現代社会に目を転じたとき、私たちが快適な生活を送るために膨大な食料や資源が廃棄物になって捨てられている現状がある。
 これから先わが国において、屎尿そのものを農業で活用することはないと思うが、その発想自体には大いに学ぶべき点があるのではないか。(「都市近郊農村の下肥利用」堀充宏)
 このような観点に立つと、現在、堆肥化した下水汚泥を農地へ施肥していることは、まさに昔行っていた「下肥の農地への施肥」のリバイバル版といえる。
参考文献
1)日本下水文化研究会編「トイレ考・屎尿考」技報堂出版
2)廃棄物学会・日本下水文化研究会編「ごみの文化・屎尿の文化」技報堂出版
3)下水汚泥資源利用協議会編「下水汚泥の農地・緑地利用マニュアル」 日本下水道協会
4)日本土壌肥料学会監修「有機性汚泥の緑農地利用」博友社