屎尿・下水研究会

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散歩みち

地田修一

第3回 ドキュメント映画「うんこのススメ」(2008/1/1)

 過日、本研究会の下部組織である「屎尿・下水研究会」が、所蔵しているビデオの放映会を開いた。この日の目玉は、準会員である大友慎太郎氏が映像学科に在学していたときに、自主製作した「うんこのススメ」。これは、児童が学校のトイレで「うんこ」をしたがらない実態を打開するために始めたユニークな授業と、環境問題から国際的に禁止されることになった屎尿の海洋投棄の現状とを紹介した、15分ほどのドキュメント映画である。それぞれの登場人物が語る言葉の端々に日本人の「屎尿観」を垣間見ることができる。
 製作者の大友氏は、「何故、屎尿を題材とした作品を製作したのか」について次のようなメッセージを寄せてくれた。
 『「屎尿」は社会的課題を守備範囲として備えているにも関わらず、多くの人々が「屎尿」という単語を聞いただけで無意識のうちに「屎尿なんて汚いだけで自分にとって関係のないモノ・・・」としまいがちであることから、私はあえて屎尿を題材としてきました。』
 それではこれから、ほんのさわりではあるが、紙上での上映を始めることとする。
 (一昔前、農家は屎尿を農地に撒いていた。屎尿は自然循環の一翼を担っていた。)
 農家の人「便壷に溜まった屎尿を汲み取って肥料として使っていました。土壌は肥え、作物が実り、食べ物となりました。」
 (ところが、現在では屎尿は利用するモノではなく処理するモノと見なされ、ただ汚いだけのモノと解釈されるようになった。)
 小学校の先生 「昭和51年から「うんこの学習」を行うようになりました。きっかけは、便秘気味でお腹が痛いという生徒が多くいたことです。学校ではうんこをしないようにしているというのです。理由は、汚いとか、いじめられる、とかなんです。食べ物を摂っても、うんことして排泄物を体の外に出すという意識がほとんどないのです。そこで、うんこは体の中でどのようにして出来てくるのかを、わかってもらおうと教材作りから始めました。自分のうんこを観察させることにより、なぜうんこができてくるのかを理解させ、その性状を見て自分の体調を見極める力をつけてもらうことにありました。 」
 父兄 「今日のうんこはどうだったというような会話が、家庭内で日常的に交わされるようになり、学校のトイレでうんこができるようになりました。」
 (平成十四年に環境省は、五年以内に屎尿の海洋投棄を禁止する決定を行う。)
 屎尿投棄船の社長「 屎尿そのものが有機物濃度が高いので、これを投棄すると海洋を汚染することになるのだというような中味の問題よりも、汚い屎尿をそのまま海洋に投棄するのはなんとなく良くないという見た目の問題が先にたっているような気がします。 」
 船長 「屎尿投棄船が港に着くことをいやがるんですよ。自分たちが出したモノを処分するというのに。うんこが海底に残っているというアメリカの映像を見たことがあります。確かに、こういう仕事をしていても、海を汚したくないという考えはあります。 」
 小学校の先生「 うんこのことを知らないで生きているのは恥ずかしいことであると、実感してほしいですね。」




第2回 甕・土管のルーツ常滑を訪ねて(2007/11/3)

屎尿・下水研究会

 屎尿・下水文化研究会では、平成18年10月28日(土)、29日(日)の両日、特別企画の一環として、古くからの焼物の町である愛知県常滑市を訪ね、甕、土管(陶管)に関する見聞を深めるとともに、窯場や煉瓦造りの煙突や甕・土管が積まれた風景を散策しました。参加者は10名。現地での案内は、元本会会員の柿田富造さん(元INAX)をはじめ、竹多さん(INAXライブミュージアム)、藤井英男さん(やきもの散歩道ボランティアガイド、元INAX)、中野晴久さん(常滑市民俗資料館)の4人の方々にお願いしました。
 本見学会に当たりまして、柿田さんより事前にあるいは当日に、たくさんの資料の提供を受けました。また、研究会として別途入手した資料、写真集もあります。ここでは、これらの資料を要約することによって焼物の町・常滑を紹介したいと思います。

1. 常滑の風景

 常滑市は、愛知県知多半島の西海岸に位置し、人口5万人強、面積約50平方qの南北に細長い街です。名古屋から急行で50分、かって日本六古窯の一つに数えられました。
 常滑市民俗資料館の資料では、
 『常滑の歴史は、窯業の歴史といっても過言ではありません。およそ900年前におこった中世常滑焼は、大甕や壷を中心とした日用雑器を主に生産し、人々の暮らしと密接に結びつくようになってきました。その伝統は現在までも受け継がれ、戦前は土管、戦後は朱泥焼や建築、衛生陶器などが常滑窯業の主役となり、また陶芸作家らによる新しい分野も開拓されつつあります。』
とあり、中世から大甕を造ってきた常滑は、まさに甕のルーツともいえます。
 市の観光名所と指定されている「やきもの散歩道」は、常滑独特の詩情があります。
 狭く曲がりくねった丘の上の散歩道は、まるで迷路のようで、窯場、レンガ造りの高い煙突、黒い板塀の工場などが続いています。

2. 常滑と甕の生産

 平成の時代になって甕の生産は、常滑ではほとんど行われなくなってしまった。しかしこの甕こそが、常滑焼900年の歴史を支えてきた主力製品である。この甕は、近世・近代を通じていくつかの機能分化を見せているのであるが、その内の一つに「下瓶」と記して「げがめ」と呼称するものがある。これは、水洗式トイレの普及とともに急速に姿を消していった汲取式トイレの便槽として作られたものである。1970年頃までの常滑の窯屋では、この下瓶は有力な製品の一つであった。近世期の常滑焼は甕を専ら生産していたのであり、その大物生産の技術を基盤にして土管が産み出されたことは、さまざまな面から証すことができる。
 下瓶の特徴として内端(うちは)と呼ばれる口縁内側の突出がある。地元では俗にこれを「蛆返し(うじがえし)」といい甕の中で孵化成長した蛆が甕の外へ出ないようにするためのものとも言う。
 常滑焼の大分類として〔真焼の部〕と〔赤物の部〕があり、下瓶は前者に属している。「真焼」は「まやけ」と読み、良く焼き締まった陶器のことを指すのに対し、「赤物(あかもの)」はしばしば「素焼」とも置き換えられるように低温で焼成した軟質の陶器である。いうまでもなく真焼製品は、赤物製品より高価な値段が付けられるのを原則としている。
 下瓶が高価な真焼製品になっているのは、便槽は一度設置すれば、その後の改修はほとんど必要ないものなので、多少高価ではあっても、その使用期間の長さからみればさしたる問題でなく、品質の良いものが選択されたとも考えられる。その一方で、田畑の下肥用に用いる肥甕の類は、赤物の甕を使用していた。この肥甕と下瓶は形の上では近似しており、その違いは形態ではなく材質にあったといえる。
 素焼状の赤物製品は、器体の焼き締まりが悪く透水性がある。この甕を便槽に用いた場合には、汚水が多少なりとも漏出することになり、大都市での使用は当然回避される傾向をもつことになる。

 「トイレと常滑焼」:中野晴久、トイレの考古学(大田区郷土博物館)より

3. 土管の歴史

(1)古代

 わが国の土管の歴史は、7世紀に始まる。それ以前にも石組や木樋を使った上下水道はあったが、飛鳥時代になって朝鮮半島から瓦造りの技術が取り入れられ、瓦と同時に土管も伝来した。しかし、土管は寺院や宮殿の一部に用いられた程度であって、導管はやはり木樋・石組が多く使われ、8世紀の平城京でも同じ傾向を示して、土管はその一部として使われたに過ぎない。降って京都の平安京では土管は使われなかったのか、今のところ遷都した頃の土管は出土していない。平安京は地形上飲料水は井戸に頼り、一般排水は石組の開溝を計画的に巡らせて加茂川・桂川まで導いたために、大規模な上下水道は都内では普及しなかったようである。その関係もあってか9世紀から15世紀に至る間は、全国的に見ても土管の出土例は極めて少ない時期に当たる。

(2)中世・近世

 それが16世紀に入ると、堺環濠都市周辺で主に瓦質の印籠式土管が、奈良周辺でやはり瓦質のソケット付土管が出現する。そして、16世紀後期になると各藩主は治山治水や城下町の建設にとりかかり、中でも水利の悪い城下町では上水道を張り巡らせて、その一部に土管も使用した。その土管は、大体印籠式や旧来の異口径土管が多く、近代土管によく似たソケット付土管を使った上水道はわずかに3か所のみであって、せっかく奈良周辺で発達したソケット付土管は再びしぼんだ状態になった。
 しかし、この形状は愛知県の常滑で江戸後期には造られており、明治時代に受け継がれて近代土管に発達していった。

(3)明治

 明治維新にわが国は、鎖国政策から開港に移ると伝染病が外国人と共に上陸し、わが国を都市部から汚染していった。そのために行政機関は、抜本的な対策として上下水道の計画に追われたが、当時の下水道には、土管が最も多く使われ、また一般排水や灌がい用土管も加わって、常滑土管は製造に追われ、活気を呈するに至った。その契機となったのは鉄道土管である。鉄道寮は鉄道土管を調達するにあたって、明治7年に全国から土管を募集して比較試験を行ったところ、常滑の鯉江方寿の土管が抜群の成績をおさめたので、以後、土管の注文は方寿が受けることになった。そしてその結果、「土管の町」常滑の名声を全国に轟かせたのである。

(4)大正・昭和

 明治末期になると、常滑・三河で土練機・土管機が開発され、また電力も供給されるようになった。そして、第一次世界大戦による好景気が到来すると、土管業界にもその影響で受注が舞い込み、各企業は生産に追われて量産体制を整え、従来の登窯から平地窯へと逐次転換していった。
 ところが、セメントが国産化されるに従い、明治40年以降はセメント系の下水管が出回り、従来の大口径土管のシェアをじわじわと侵食し始めた。それでも土管(陶管)業界としては、小口径管まで侵されることはなかったので、全国的な下水道工事や増大する一般需要に支えられて順調に伸びて行き、昭和8年から17年にかけて陶管業界の黄金時代を築き上げた。
 そして、統制経済下においても、陶管は軍需物資に指定されたり灌がい排水用として優先生産が許され、石炭の特配が割り当てられて終戦近くまで生産が続けられた。
 終戦後は虚脱した中で、昭和21年に占領軍用の陶管需要が起き、そのおかげで業界は一時的にも潤い、それが基盤となってまずは順調な復興を歩んだ。そして、26年以降農地改良補助制度が復活して、暗渠排水用土管の需要が増え、また30年代には各都市の下水道事業も始まって、一見数量的には好況に見えた業界だったが、その頃から塩化ビニル管が足元から襲い始めていた。
 昭和29年に25o以下ながら塩ビ管が東京都で採用され、以後塩ビ管の製造技術が向上すると共に、次第に大口径管の生産が可能となって、陶管市場を圧迫してきた。そして昭和49年に下水道協会が塩ビ管の規格を承認すると、陶管業界は大口径のヒューム管と小口径の塩ビ管に挟撃される形となって、苦戦に追い込まれ、陶管業界から脱退する企業も数多くでるようになった。
 しかし、業界も製造技術の向上をはかり市場開発に努めて、2mの長尺陶管や卵形管・推進管などを逐次開発し、激烈な市場競争の中で「セラミックパイプ」の愛称で、善戦している現状にある。

 「わが国の土管の歩み」:柿田富造、土管の歴史展(常滑市民俗資料館)より

 著者紹介
 中野晴久 氏 : 常滑市民俗資料館学芸員
 柿田富造 氏 : 元INAX常務取締役
          元窯のある広場・資料館館長
          現愛知県史料編纂委員会文化財部会 調査協力員 




 

第1回 屎尿を詠んだ俳句

 四年ほど前から、句会に入り俳句の手ほどきを受けています。勉強のために「金子兜太の俳句入門」を読んでいて偶然みつけたのが、次の二句です。
   立ち尿(いば)る老女の如く恋いこがる  (山崎愛子)
   元日や餅で押し出す去年糞(ぐそ)  (金子伊昔紅)
 屎尿研究分科会の世話役をしていますが、花鳥諷詠を旨とする(少なくとも私の属する句会では)俳句の題材として、屎尿がまさか取り上げられているとは知りませんでした。
 兜太によると、一句目の句意は「老女が立ったまま小用をたしているのですが、自分の男を恋う気持ちも、あのあけすけな姿に似ていると思うのです。」とのこと。小便のことをヤマト言葉で「いばり(尿)」といいますが、「尿る」はその動詞形です。二句目は、実は兜太の父親の句です。「いささかリアルにすぎるわけですが、私には山国びとの正月気分がじつによく受け取れます。」と評しています。
 江戸時代の一茶、蕪村、芭蕉にまで遡って、屎尿に関する句を探してみました。古い順で、まず俳聖といわれた芭蕉から。
   蚤虱馬の尿(しと)する枕もと  (芭蕉)
 「おくのほそ道」に出てきます。宮城県の鳴子温泉から山越えをするところにある「尿前(しとまえ)の関」の辺りの鄙びた家に、泊めてもらったときの句です。夜寝ていると、羽目板一枚向うの馬小屋で馬が放尿する音がし、びっくりしたというものです。「しと(尿)」は、小便のことを指す古語です。この情景は実体験でしょうが、たぶんに地名の「尿前」を意識していると思われます。上句の「蚤虱」は、蚤と虱が寝具にはびこっていて痒くてしょうがないということを省略して述べたものです。
   鶯や餅に糞(ふん)する縁の先 (芭蕉)
 縁先に並べて干してあった餅の上に、飛び過ぎていった鶯が糞を落としていったというのです。俳諧特有の「軽(かる)み」を志向したものといわれています。
 次に、蕪村をみてみましょう。
   大とこの糞(くそ)ひりおはすかれの哉 (蕪村)
 「大とこ」とは大徳のことで、高い徳を積んだ僧侶のことです。「かれの」は、枯野です。やむにやまれない生理現象としての野糞を詠んだものです。ずばり、人間の排泄行為そのものを扱っています。
 さらに一茶になると、もっと、おおらか且つ大胆です。
   小便の滝を見せうぞ鳴蛙 (一茶)
 説明の必要がないほど、野性的な句です。鳴蛙は、「なくかわず」と読みます。
   むさしのや野屎(はこ)の伽に鳴雲雀 (一茶)
 屎は、「はこ」または「くそ」と読みます。「はこ」は、移動式の大便器を「はこ」といったことに由来して、大便そのものをも指すようになりました。
   古郷や霞一すぢこやし舟 (一茶)
 江戸の郊外の中川とか江戸川が流れる辺りは農村地帯でしたが、屎尿を肥やしとして利用するため、江戸市中で汲取って来た屎尿を運ぶ肥やし舟が行きかっていました。一茶はもともと信州の農家出身ですので、春の霞のたなびく川面と肥やしを運ぶ舟を土手からみていて、思わず郷愁を覚えたのでしょう