読み物シリーズ
文芸作品にみる「し尿」に関する文章表現
地田 修一 氏
目次
1.はじめに
2.風習
3.し尿の農業利用
4.肥舟
5.汲取り業
6.し尿観と外国でのトイレ体験
7.考察
8.おわりに
本発表は、文芸作品に取り上げられた数少ない「し尿」に関する記述(風習、汲取り、運搬、農業利用など)を紹介するとともに、その文章表現の底流にある日本人のし尿に対する考え方の移り変わりを述べるものである。
キーワード;し尿、風習、汲取り、運搬、農業利用
1.はじめに
自伝小説、随筆、自分史は、作者個人の身の回りで起きたことを題材にしており、また、歴史小説や社会小説は、それぞれの時代の社会状況に焦点を当ててストーリーを展開している。ふだん、あまり口に出したがらない「し尿」に関する記述も、これらの文芸作品の中にごくわずかではあるが散見することができる。本発表は、文芸作品に出てきた「立ち小便」、「おまるとしびん」、「汲取り」、「下肥運び」、「肥舟」、「農業利用」、「外国でのトイレ体験」などに関する文章表現を紹介するとともに、日本人のし尿観の歴史的展開について若干の考察を行うものである。
2.風習
(1)立ち小便
@「江東昔ばなし」田辺貞之助、青柿堂、1984年刊行。
【コレラ】(明治の終わり頃の現在の東京都江東区での話);『ある晩、この中徳で買物をして、父が「どぜう」で一杯のんで外へ出ると、もうポンポン蒸気がなくなっていた。それで、小名木川の土手をあるきはじめた。が、いつもおそくまで明りのついている家々がどこも戸をしめて、明りひとつ洩れていなかった。父は「この暑さなのに、どの家もずいぶん早寝だなあ」とつぶやきながら、「どうだい、この辺で小便をしていこうや」と云った。私も父と並んで小便をした。そして、歩き出そうとしたら、横丁から白い姿が出て来て「ああ、こら、こら」と云った。巡査だった。あの時分には、夏になると巡査は白い服を着た。巡査は「わしの見ている前で小便をするとは怪しからん」と叱言を云って、罰金を即決で五十銭とった。ちなみに、当時は米が一升三十銭ぐらいだった。父は罰金を払ってから、どうして今夜はどの家もこんなに早寝なのかと聞いた。すると、巡査が「この近所にきのうコレラが出たので、近所の者を全部立ち退かせ、わしが非常線を張って見張りをしているのだ」と説明した。』
A「越後・柏崎・風土記」北川省一、現代企画室、1981年刊行。
【生田万の墓のあった砂丘のかげの隠亡屋長屋で】(小説の舞台は、大正の終わり頃の新潟県柏崎市);『次郎たちはお婆も遊び仲間に入れた。……お婆はまた家の便所で小便(もちろん立小便だ。便所は小と大との区別はあったが、男女の区別はなかった。なるべく大便所では小便はしなかった。水が溜まると困るからだ。小便だって畠にやるこやしがあれば充分だった、それ以上の汲取はありがたくなかった。だから小便は外でした、ただ作物に直接ひっかけないようにした、立枯れしないために。男も女も外で立ってしたが、ただやり方が反対(あべこべ)だった。男は向こうを向いて前を捲って胸を張り腰を出したが、女はこっちを向き後ろを捲って腰を上げ前屈みになった。女衆が尻を持上げて小便するのは馬が尻尾をピンと上げて糞を垂れるのに似ていた。そして終わってから男はちょんぽを振ったが、女は尻(けつ)を振らなかった。おしっこをしゃがんでするのは順子や静子など子どもだけだった。)をしたが、そのたびに腰巻を濡らしてしまい、しかも濡れた腰巻のまんま黙って炬燵で乾かしているので、炬燵を覗くとお婆の小便臭かった。』
B「斜陽」太宰治、1947年発表。
(この情景の舞台は、昭和10年代の東京の山の手の住宅地);『いつか、西片町のおうちの奥庭で、秋のはじめの月のいい夜であったが、私はお母さまと二人でお池の端のあづまやで、お月見をして、狐の嫁入りと鼠の嫁入りとは、お嫁のお仕度がどうちがうか、など笑いながら話しあっているうちに、お母さまは、つとお立ちになって、あづまやの傍の萩のしげみの奥へおはいりになり、それから、萩の白い花のあいだから、もっとあざやかに白いお顔をお出しになって、少し笑って、「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん。」とおっしゃった。「お花を折っていらっしゃる。」と申し上げたら、小さい声を挙げてお笑いになり、「おしっこよ。」とおっしゃた。ちっともしゃがんでいらっしゃらないのには驚いたが、けれども、私などにはとても真似られない、しんから可愛らしい感じがあった。けさのスウプの事から、ずいぶん脱線しちゃったけれど、こないだ或る本を読んで、ルイ王朝の頃の貴婦人たちは、宮殿のお庭や、それから廊下の隅などで、平気でおしっこをしていたという事を知り、その無心さが、本当に可愛らしく、私のお母さまなども、そのようなほんものの貴婦人の最後のひとりなのではなかろうかと考えた。』
(2)おまるとしびん
「日本世間噺大系」伊丹十三、文春文庫、1979年刊行。
【天皇日常(猪熊兼繁先生講義録)】(京都御所での話);『でネ、便所ちゅうもんですが、大体、徳川時代から便所できたんです、一般の家庭でもネ。で、御所では紫しん殿の方は便所ないですヮ、ハア。清涼殿でも便所ないです。みな便器です。大口の袴ちゅうて、袴の横の口が大きいんです。こっから入れるわけです。着物の中へ便器入れるんです。そやなかったら脱がんなんでしょう?この便器をオハコちゅうてネ、革で作ったりしてネ、どうも私は北アジア系統のもんやないかと思うですけど、ともかく、革で作って、漆で塗ってネ、綺麗なもんですヮ。御所にそれがあったんですけどネ、……ええのはネ、蒔絵がしたあるんです。で、これネ、女官の中の、お末の端っぽのほうがネ、こればっかり洗う専門がおりますにや。洗って干して、中にちゃんと砂入れて、灰入れたり、紙入れたり−紙なんか貴重品ですからネ−で、女性用と男性用とあって−女性の場合は、例の月のもんが出たりしますからネ、違うわけです。で、男性の方の小はネ、長い竹の筒です。オツツちゅうてネ。で、オツツにはネ、これも蒔絵があったり、綺麗なんがありますヮ。そんで、錦の袋に入っているんです。そいで、エライ人が馬に乗って、こう、行きまひょ?後ろからこれ持って行くのがおるんです。普通太刀と思てるんですヮ。絵巻物なんか見ると、お姫さんの牛車の後ろからオハコこう捧げ持って随いて行く奴がいるでしょ?宝物持ってくみたいに思うわけです。あれ、オハコですにや。明治の末までありました、実物はネ。』
3.し尿の農業利用
(1)農家による下肥取り
「みみずのたはこと」徳富健二郎、岩波文庫、1938年刊行。
【不浄】(明治末から昭和初期頃の現在の東京都世田谷区千歳での話);『この辺の若者は皆東京行をする。この辺の「東京行は、直ちに「不浄取り」を意味する。……荷車を引いて、日帰りが出来る距離である。荷馬車もあるが、九分九厘までは手車である。……彼の村では方角上大抵四谷、赤坂が重で、稀には麹町まで出かけるのもある。弱い者でも桶の四つは挽く。少し力がある若者は、六つ、甚しいのは七つも八つも挽く。一桶の重量十六貫とすれば、六桶も挽けば百貫からの重荷だ。あまり重荷を挽くので、若者の内には眼を悪くする者もある。股引草履、夏は経木真田の軽い帽、冬は釜底の帽を阿弥陀にかぶり、焦茶毛糸の襟巻、中には樺色のあらい毛糸の手袋をして、雨天には蓑笠姿で、車の心棒に油を入れた竹筒をぶるさげ、空の肥桶の上に、馬鈴薯、甘藷の二籠三寵、焚付粗朶の五把六束、季節によっては菖蒲や南天小菊の束なぞ上積にした車が、甲州街道を朝々幾百台となく東京へ向うて行く。午後になると帰って来る。両腕に力を入れ、前かがみになって、揉みあげに汗の珠をたらして、重そうに挽いて帰って来る。……東京場末の飯屋に寄る者もあるが、多くは車を街道に片寄せて置いて、木陰で麦や稗の弁当をつかう。夏の日ざかりには、飯を食うたあとで、杉の木陰にぐうぐうと寝て居る。荷が重いか、路が悪い時は、弟や妹が中途まで出迎えて、後押して来る。』
(2) 下肥の施肥
「農民哀史から60年」渋谷定輔、岩波新書、1986年刊行。
【し尿(タメ)ひき、そしていま−】(大正末年頃の現在の埼玉県富士見市での話);『若い頃いちばん強く心に刻まれた労働といえば、し尿(タメ)ひきです。し尿樽を二里(約八キロメートル)近い東武東上線の駅まで引きとりに行く。朝は残月のあるうちから、晩は手許が暗くて見えなくなるまで野良で働いて、とっぷり暮れてからし尿ひきに行くんだから、そりゃあ、体にこたえる。でも辛かったのは体より心なんだ。……江戸の昔から、私たちの村で使う下肥は、東京から荒川、新河岸川をさかのぼって、し尿専門の運搬船で運んできたもんだ。……それが、1914(大正3)年に東武東上線ができると、物資の輸送は船から汽車に替わった。その方が運賃が安いんだ。し尿の場合も、東京の集荷業者が汽車で送り出したのを農民が買う。……こうして買ったし尿樽が、一本十五銭ぐらいでしたかな。……、私の村では、大正末期はまだ人糞肥料の時代で、水田には熟成させた後で使ったが、桑畑では穴を沢山掘ってそこにじかに投入した。桑三株に穴一つ、そこで熟成させるんで茶畑でも同じです。し尿を充分にやるかどうかで、桑の葉や茶のできがまるで違うので、百姓としてはいやでも応でもし尿を買い続けなければいけない。くさいとか汚いとか言っちゃいられませんよ。……私の家の桑畑は五反だったから、五百ほどの穴を掘って肥を入れた。季節によって増減はあっても、一週間に十樽から二十樽は必要だった。その頃、現金収入といえば養蚕が一番なんだから、一年中、し尿ひきに精を出して桑畑を肥やすわけだ。……金肥を買うだけじゃなくて、便所、風呂の排水、生ゴミ、ワラ、牛馬のフンや敷ワラなんかも全部有効に使用した。』
4.肥舟
(1)「大江戸ゴミ戦争」杉本苑子、文春文庫、1994年刊行。
【芝浦海戦記】(小説の舞台は、江戸中期の隅田川河口);『「昔から江戸の下肥の大方は、下総葛飾の百姓が年決めで汲み取ってきていたが、……。」……埋め立て業者らは奉行所から、「新地に町家が建ち並んだあかつきは、かならず下肥を鶴与配下の肥舟に汲み取らせること」と、約束させられた。むろん、拒否する理由などあろうはずはない。人の糞尿ぐらい質の良い肥料はなく、堆肥作りにも欠かせない。江戸の町民は出入りの農家相手に「年に大根百本、茄子二百個」などと交換れーとを決めて、便壷の中身をいわば売り渡すのだが、しばしば悶着も惹起する。「隣にくらべて、うちは野菜の貰い分が少ないぜ。」「んでもハア、おたくの肥は水っぽいで」「人聞きの悪いことを言いなさんな。まるでうちの食い物が粗末なようじゃないか。茄子をあと五十、追加しなきや、ほかのお百姓に替えてしまうよ。」「それは堪忍してくんろ。んなら胡瓜を三十、上乗せするだで、なあ旦那」この手のとらぶるが随所に見られるほどの貴重品を、新出来の町ぜんぶから汲み取らせてもらえるのだから、鶴与は大ニコニコで奉行所の裁きに謝意を表したし、老中や大目付の心証もしたがって、上々というめでたい結末となったのであった。』
(2)「江戸川物語)」伊藤晃、ろん書房、1981年刊行。
(昭和14年頃の千葉県流山市の江戸川べりでの話);『私たちのヤマベ釣りの場所は、新河岸の汚わい船の着くところと決まっていた。「汚わい船」を称しては、「下肥船」とか「あっぱ船」とかいったが、ヤマベたちは、その船からこぼれる蛆を食いに寄っていたのである。今思い出してみると、いささかゾッとする気分であるが、蛆は船の積荷の下肥から発生し、船のいたるところにうごめいていた。そして、その船の上で釣る。餌にも、その蛆を用いた。……そんなある日のことだった。わたしは汚わい船の踏板を踏みはずし、片足を下肥の中に突っ込んでしまった。参った。まことに参った。私は東京の人の汚物を浴びた。早速川に入って、体と衣類を洗ったが、その脚に巻いていたゲートルが毛の物で、十分洗ったつもりだったのに、やがてポロポロに崩れてしまったのには、驚くやら、下肥というものが強い酸性だということを、実地に学ばせられたような次第であった。ついでに汚わい船の話をすれば、私が知っている江戸川の船の往来では、それがかなりな数と率を占めていた。その船が着く岸の近くには、どこにも大抵肥溜が並んでいて、一旦そこに移された下肥を、農家の人たちが牛車や馬車で来て、肥担桶に詰めて買って行く。……小林一茶の「七番日記」にも、下総あたりの光景をとらえたものか、汚わい船の句が見える。 古郷や霞一すぢこやし舟』
5.汲取り業
「糞尿たん」火野葦平、1937年発表。
(小説の舞台は、昭和10年頃の福岡県若松市(現北九州市));『鬱勃たる事業欲を押さえることが出来ず、彼は山林の一部を抵当にして信用組合から資本の融通を受け、糞尿汲取事業を開始した、従来は百姓達が馬車を曳いて市の方に出て行き、市内糞尿の汲取をして居たが、自分達に肥料の必要のない時には中止する。市内に何人か居る商売人も全部馬車か牛車であって能率は捗捗(はかばか)しくない。彼は桶二十荷を積めるトラックを一台購入した。汲取賃、及び肥料として農村へ売り捌く収益とを合算し、近代的方法に依って市民の大半を得意に取り得るは必定であって、必要経費を差し引いても、相当の剰余金のあることは確実である。……ところが始めてみると、彼の算盤は片端から違算にぶつかった。……従来汲取った糞尿は三通り処理されていた。第一は、市の周囲にある農村に肥料として売り捌くこと。……第二には、特別構造の糞尿船に積み込み、海を隔てた対岸の地方へ運送し売却すること。……最近では肥料の値上がりと、対岸地方でも自給的に方法を講じ始めたのとで、ますます不成績となり、近ごろでは沖合いへ漕ぎだして行って、玄界灘に棄てて来ることの方が多くなった。……第三には、唐人川尻、並びに、各所に穴を掘って溜置きすること。農村の方にも、佐原山頂附近にも幾つも穴を掘ってセメントで堅め、糞尿を蓄めた。しかし、農村方面には肥料として役立つもののみを蓄え、小学校其の他肥料として用をなさないものは、船に積んで棄てるか、唐人川尻と笹倉山とに掘った穴に棄てた。……市としては、……笹倉山の麓に浄化装置を有する市立汲棄場を作ることを立案したのであるが、未だに実現しないで居るのである。既に予算はとってあるので、早晩着工する筈になっている。』
6.し尿観と外国でのトイレ体験
(1)『斯く云う彼も、東京住居中は、昼飯時に掃除に来たと云っては叱り、門前に肥桶を並べたと云っては怒鳴ったりしたものだ(園芸を好んだので、糞尿を格別忌むでも賤しむでもなかったが、不浄取りの人達を糞尿をとってもらう以外没交渉の輩として居た。……そうして此頃では、むッといきれの立つ堆肥の小山や、肥溜一杯に堆く膨れ上る青黒い下肥を見ると、彼は其処に千町田の垂穂を眺むる心地して、快然と豊かな気もちになるのである。』(「みみずのたはこと」徳富健二郎)
(2)『今、現代人の糞尿観を根本から変えなくてはならぬ問題が、日本社会に突きつけられているんじゃないかな。まず、寝たきり老人の介護の問題がそれだ。……口から身体にはいる食物と、外へ出す糞尿とをひとまとめにして考えなくちゃあダメだ。糞尿を汚いといって切り離す人間は、結局、自分自身を憎んでいるんだ。人間の生をひとまとまりの循環として扱っていないんです。』(「農民哀史から60年」渋谷定輔)
(3)『パリにつくとすぐ、……あるホテルへつれて行かれた。……便所は室の中にもそとにもちょっと見あたらない。「便所は?」……「二階の梯子段のところにあります。」……が、その便所に行って見ておどろいた。例の腰をかける西洋便所じゃない。ただ、タタキが傾斜になって、その底に小さな穴があるだけなのだ。そしてその傾斜のはじまるところで跨ぐのだ。が、そのきたなさはとても日本の辻便所の比じゃない。僕はどうしてもその便所では用をたすことができなくて、小便は室の中で、バケツの中へジャアジャアとやった。……大便にはちょっとこまったが、そとへ出て,横町から大通りへ出ると、すぐ有料の辻便所があるのを発見した。番人のお婆さんに20サンティム(ざっと3銭だ)のところを50サンティム奮発してはいって見ると、そこは本当のきれいな西洋便所だった。貧民窟の木賃宿だから、などと、日本にいて考えてはいけない。その後、パリのあちこちをあるいて見たが、こうした西洋便所じゃない、そして幾室あるいは幾軒もの共同の、臭いきたない便所がいくらでもあるのだ。そして田舎ではそれがまず普通なのだ。』(【パリの便所(1923年 記)】「日本脱出記」大杉栄、岩波文庫)
7.考察
もともと、トイレは家屋の中にはなく、古来から、小便はもとより大便も屋外(外トイレも含めて)で行なうことが一般的であった。上流階級でも屋内では、「おまる」や「しびん」といった移動式の便器が用いられた。このことは、ヨーロッパにおいても同様であった。特に、小便は液体でその痕跡が残らないためか(臭いは残るが)、明治維新の文明開化になっても、男女とも野外で、それも立ち小便するおおらかな風習(タブーでなかったし、ましてや罪悪感など少しもなかった)が根強く残り、それは罰金を科して取り締まらねばならないほどであった。一方、大便は固形物であるため残存し、美観上も臭気上も、また衛生上(病原性細菌、寄生虫)のこともあり、屋外のある一定の場所に穴を掘り排泄していた。後に、し尿が肥料として農業に盛んに利用されるようになると(鎌倉時代)、便壷付きのトイレ(多くは外トイレ)に溜めて置くようになり、汲取られたし尿は、さらに肥溜めで腐熟させてから、農地にまかれた。
現在のように家屋の中にトイレを設置するようになるのは、おおむね江戸時代に入ってからであろうか。それも、外トイレが家屋にくっ付いた形での間取りであり、廊下の先の隅に付属していた。外トイレの形式は、長屋の共同トイレとして残ったほか、野外作業の多い農家では現在でも一部で使用されている。
都市生活者から排泄されるし尿は、周辺の農家から運搬(馬、荷車、肥舟による)の労力と対価(農作物、金)を払ってまでも汲取って手に入れたい、良質な肥料として評価された。臭気や取扱いの困難性はあったが、し尿は立派な有価物であった。やがて、し尿の商品性が確立されると、専業の収集業者が生れた(江戸中期)。肥舟によるし尿の運搬は、当時の道路の整備事情を考えると、大量・迅速・遠方輸送の最善の手段であった。
都市と農村との間における、し尿と農作物とを介してのこのような「リサイクル・システム」は明治時代に移行しても継続し、し尿は民間の汲取り業者(農家を含む)と市民との間の個々の私的契約によって汲取られていた。
しかし、大正時代の半ばになると、し尿の需要と供給とのバランスが崩れ供給過剰となり、逆に、市民は汲取り手数料を支払わなければならなくなった。さらに一部で、し尿の汲取り作業の停滞が起こり社会問題化し、し尿は、肥料価値のある有価物から一転して、臭くて汚いやっかいな廃棄物としての性格を次第に帯びるようになっていった。そしてついに、昭和5年に汚物掃除法が改正され、し尿の汲取りは地方自治体(市町村)に義務づけられ、農業利用しきれない分は海洋や山林に処分されるようになった。期せずしてこの頃から、水洗トイレが少しずつ普及し始め、し尿は下水道に流し去られるようになってくるのである。
8.おわりに
本発表で紹介した文芸作品中の「し尿」に関する記述は、私自身が探し出したものばかりでなく、日本下水文化研究会の分科会である「し尿研究会」のメンバーから情報提供されたものも含まれている。丹念な検索の労に対して厚く感謝の意を表する次第である。