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1.玉川上水
2.玉川上水の清流の途絶とその復活
3.下水の処理



読み物シリーズ


玉川上水と清流復活事業(2010/11/01)

地田 修一(日本下水文化研究会会員)

1.玉川上水

 玉川上水は、江戸の町の人口増に伴う水需要の増大に合わせて開削されたものです。完成は承応2年(1653)といわれています。江戸に幕府が置かれてから50年後のことです。
 多摩川の羽村の取水堰(投げ渡し堰)から四谷大木戸(今の新宿御苑)までの約43km、高低差92mほどの流れです。江戸城をはじめ、四谷、麹町、赤坂、芝、京橋方面に、地下に石樋や木樋による配水管を埋設し、自然流下式で給水していました。
 明治に入っても、明治34年までは、玉川上水は東京の重要な水道施設として引き続いて使用されていました。
 ちなみに、家康が江戸に来た1590年頃は、赤坂の溜池辺りの湧き水などを飲料水源として利用していました。

1-1 玉川上水に先駆けた神田上水

 井の頭線の三鷹台駅のすぐ北を流れているのが神田川です。水源から1kmほど下流ですが、すでに、流れは深いコンクリートの護岸の底に閉じ込められています。武蔵野の三大名池の一つである井の頭池を水源とし、善福寺川(水源は善福寺池)や妙正寺川(水源は妙正寺池)を合流して、両国橋付近で隅田川に注いでいます。
 江戸時代のごく初期から明治中期(34年)にかけては、中流の目白台下の関口(文京区、今の椿山荘の辺り)に設けた堰からこの川の水を取水し、神田、日本橋地区に飲料水として給水(神田上水と呼ばれた)していました。寛永6年(1629)頃、整備が完了し、江戸城の北から東方面の地域をカバーしていました。
 その豊富な水量は農業用水としても田畑をうるおし、昭和初期までは川岸で大根や菜っ葉の泥を洗う光景が見られたそうです。

1-2 台地の馬の背を開削した玉川上水

 井の頭線の三鷹台駅から南にゆるやかな上り坂を行くと、玉川上水に出ます。自然河川の神田川よりも地理的に高い所を流れている用水路です。両側の地域に分水できるように、台地上の分水嶺(馬の背)を選んで開削されました。特に、代田橋から下流では小さな谷が入り組んでおり、馬の背を選んで、水路は迂回を繰り返しています。この上水は、江戸城の南から西方面をカバーしていました。分水は江戸中期には33カ所にのぼり、武蔵野の新田開発の重要な柱になりました。
 現在では、上水に覆い被さるように木立が茂り、所々に素掘りの土が顔をのぞかせている自然味豊かな流れです。とても人工のものとは思われません。
 江戸の6上水といわれるものには、この他に、青山、三田、千川(以上の3つは玉川上水からの分水)、本所(元荒川から取水)の各上水があります。しかし、神田、玉川の2上水以外は、江戸中期(1722年頃)に相次いで、飲料水源としては廃止されてしまいました。その理由としては、この頃、深い井戸を掘る技術(上総掘り)が開発され、飲料水源として上水(神田、玉川)と井戸とが併用されるようになったからだと考えられています。
 その後、千川上水、三田用水は農業用水の目的で復活されました。
 分水の例:寛政3年(1791年)時点での分水は33箇所です。柴崎村用水、砂川分水、野火止用水、小川村分水、鈴木新田分水、国分寺村分水、千川用水、品川用水、三田用水などです。全水量の約50%が分水されていました。当初は、飲料水としての使用が原則で、畑や水田への引き込みは禁止されていましたが、新田開発が奨励されるようになり、次第に灌漑用水や水車の動力用水としても利用されるようになりました。
 上水を利用するには、「水銀」といわれた一種の水道使用料金が課せられました。

1-3 淀橋浄水場への原水導水路としての役割

 明治31年12月に近代的な改良水道が完成したことにより、若干の猶予期間を置いた明治34年6月30日をもって玉川上水の市中への給水の務めを終え、その後は昭和40年3月まで淀橋浄水場への原水導水路(日量30万?)としての役割を果たしてきました。かつては、水路幅一杯に満々とした水がとうとうと流れていました。

1-4 淀橋浄水場と玉川上水の新水路

 明治26年の淀橋浄水場の工事開始が、近代水道の始まりです。5年後の31年の暮、その最初の水が神田、日本橋地区に加圧給水されました。
 玉川上水を流れてきた水は、池に溜められ(沈澄池)、きれいに濾過され(濾過池)、蒸気ポンプで圧力をかけ鉄の水道管で市内に送られました。大正末までは、石炭を燃やす蒸気ポンプでした。大きな機関室の上にそびえる二本のレンガ造りの煙突から黒い煙がモクモクと出ていたそうです。
 沈澄池や濾過池の壁は、レンガで固められていました。掘り揚げた土はトロッコで運ばれ谷を埋めて、ほぼ真っ直ぐな土手を築いていきました。甲州街道の北側の代田橋から淀橋浄水場までの間は、この土手の中にコンクリートで固めた水路を新たに造り(新水路)、玉川上水の水を取り込みました。
 新水路は、今の新宿区立角筈図書館の前を流れて浄水場に入っていきました。当初は、付近住民の生活道路が寸断され大変な不便をかこったといいます。その後、既存の道路は、この土手の下をトンネルで潜るようになりました。今でもその様子を渋谷区本町で見ることができます。
 大正12年の関東大震災によって、新水路に無数の亀裂が入り、2箇所が決壊してしまいました。幸い、旧水路の方は路肩が崩れる程度で送水に支障がなかったので、旧水路経由で上水の水を流し、あらかじめ緊急用として設置してあったポンプを用いて、浄水場に汲み上げ、急場をしのいだといいます。新水路が復旧するまでの10日間は、代田橋から淀橋浄水場までの間の旧水路が、代替の導水路となったのです。

1-5 玉川上水の新々水路

 新水路の抜本的な改造が検討され、甲州街道の拡張工事に合わせて、昭和6年から8年にかけて鋼管製の導水管が新たに埋設されました。通称、新々水路と呼ばれるものです。
 このため、新水路は廃止され、水路敷そのものも公園になったり、公営住宅が建てられたりしました。
 ちなみに、新宿駅南口付近の玉川上水の旧水路も現在は埋め立てられ道路となり、その下には地下化された京王線が通っています。

1-6 水道道路

 吉祥寺駅近くで中央線を横切っている井の頭通りは真っ直ぐな道路ですが、この下には、武蔵野市にある境浄水場(原水は村山貯水池(大正13年完成)・山口貯水池(昭和9年完成)より導水)からの浄水を和泉給水所(杉並区)にまで送水する管が埋設されています。通称、「水道道路」と呼ばれています。
 これと似たケースとして、「狭山・境緑道」があります。こちらは、狭山湖と境浄水場を結ぶ導水路(自然流下式の埋設管、大正13年に通水)の上を開放したものです。

1-7 かつての玉川上水の情景

 明治28年の夏、この「ふれあい下水道館」のすぐそばを流れている玉川上水縁を歩いた国木田独歩は、「武蔵野」の中で、玉川上水の情景を次のように書き印しています。
 「長堤三里の間、ほとんど人影を見ない。農家の庭先、或いは藪の間から突然、犬が現れて、自分等を怪しそうに見て、そしてあくびをして隠れて仕了う。林の彼方では高く羽ばたきをして雄鶏が時をつくる。それが米倉の壁や杉の森や林や藪に籠って、ほがらかに聞える。堤の上にも家鶏の群が幾組となく桜の陰などに遊で居る。上水を遠く眺めると、一直線に流れてくる水道の末は銀粉を撒いたやうな一種の陰影のうちに消え、真近くなるにつれてぎらぎら輝て矢の如く走くる。」
 境浄水場のそばにある桜橋の脇には、「武蔵野」の文章の一節が刻まれた碑が建っています。

2.玉川上水の清流の途絶とその復活

 淀橋浄水場の廃止後、玉川上水の小平監視所より下流は、分水の一部が農業用水や工業用水として使用されていたため、しばらくの間は水が流れていましたが、昭和46年頃から一時、空堀状態になっていました。
 しかし現在では、羽村取水堰から小平監視所までの区間(約12km)は東村山浄水場へ水道原水を送る導水路の一部として活用され、羽村の堰から取水した多摩川の水が流れています。
 また、小平監視所から浅間橋(杉並区、現在はこの橋はない)までの区間(約18km)は、昭和61年からの清流復活事業によって、多摩川上流水再生センターの高度処理水が環境保全用水として流れています(現在は、日量2万?強で往時の十数分の一にもなりませんが)。
 浅間橋のところで暗渠(600m)に入った清流は、井の頭線の高井戸駅付近で神田川に放流されています。
 さらに、これより下流(約12km)では、多くは暗渠化され、その上は高速道路や公園、遊歩道路などに活用されています。ほんの一部、開渠として残っているところもありますが、側岸は崩れ浅くなり、わずかな滲み出し水が細々と流れているのみです。

2-1 清流復活事業

 中小河川や用水路は、東京に残された貴重な水辺空間です。しかし近年、その水源が枯渇し水量が減少してきています。
 東京都の「清流復活事業」は、各種住民団体からの要望を受ける形で「マイタウン東京構想」の一環として、下水の高度処理水やビル湧水などを活用して、このような河川・用水路に清流を復活させ、都民の身近に、親しめる水辺空間をよみがえらせようとして企画されたものです。
 実施例:
 ・下水の高度処理水(多摩川上流水再生センターで 〈嫌気・無酸素・好気法〉により高度処理したうえ、〈砂ろ過処理+オゾン処理〉によりさらに脱臭・脱色したもの)を昭和61年から小平監視所に圧送し玉川上水に放流する。
 さらに、玉川上水の分水である野火止用水(昭和59年)や千川上水(平成元年)にも導水する。
 但し、当初は〈二次処理+砂ろ過処理〉でした。オゾン処理の追加は平成3年、〈嫌気・無酸素・好気法〉の導入は平成13年です。
 ・下水の高度処理水(落合水再生センターの砂ろ過水)を圧送し、渋谷川・古川、目黒川、呑川の上流に放流する(平成7年、城南三河川清流復活事業)。
 ・地下水(東京駅地下からのビル湧水)を東海道線沿いに圧送し、立会川の上流に放流している(平成17年頃)。

2-2 小平監視所

 ある年の11月の小春日和に、玉川上水駅から5分ほどの小平監視所を訪ねました。ここまでは、羽村で取水された多摩川の水が、江戸の昔と変わらずに流れてきています。スクリーンでゴミを取り除かれた水は、全量、地下の導水管を通って東村山浄水場に送られています。
 落葉の季節になると、スクリーンはフル回転となります。上水の堤に繁茂しているクヌギ、ナラ、ケヤキ、サクラなどからの落ち葉が、ここに流れ着くからです。玉川上水を監視・管理する役所は、江戸時代には水番屋と呼ばれ、明治以降は水衛所となり、さらに昭和55年以降は監視所と名称が改められています。
 ちなみに、多摩川上流水再生センターの高度処理水(日量約23,000?)が、このすぐ直下にまでポンプで圧送され、ここより下流の玉川上水(野火止用水、千川上水が分水)の清流を復活させています。新たに、上水小橋が架けられ水辺まで下りることができるようになりました。関東ローム(赤土)の厚い層を開削して、この用水路が造られていることを間近で見ることができます。
 ここから西武国分寺線の鷹の台駅付近までの約4kmの区間は、新堀用水(羽村の堰から取水した水を分水)が並流しており、散策をするのにふさわしい景観を残しています。
  流れ来る落葉をすくう水番屋  玉水

2-3 国の史跡に指定

 平成15年に、貴重な歴史的土木文化遺産である玉川上水は、文化財保護法に基づき「国の史跡」に指定されました。指定範囲は下流部の暗渠部分を除いた約30kmです。なお、土地の所有・管理者は東京都水道局です。
 また、これに先立ち平成11年には、玉川上水周辺の雑木林を含めた一帯が東京都歴史環境保全地域に指定されています。

3.下水の処理

 下水の処理は、沈砂池→ 第一沈殿池(一次処理)→ 反応槽(活性汚泥処理)→ 第二沈殿池→ 消毒槽 を経て、二次処理プロセスは完了し、処理水は河海に放流されます。
 しかし近年では、下水処理水の放流先である河川域や海域の水質をさらに向上するには、二次処理水になお残存している「浮遊物」、「窒素」、「りん」成分を、今まで以上にさらに除去する(高度処理)プロセスを付加する必要があるとされるようになりました。
 これは、「窒素」や「りん」が放流水域の富栄養化を促し、植物プランクトンの異常増殖による二次汚染を引き起こす物質だったからです。

3-1 標準活性汚泥法(二次処理)

 活性汚泥に含まれている多種多様の通性嫌気性細菌(酸素があっても無くても生存できる細菌)は、水中に遊離酸素(溶存酸素)と亜硝酸性窒素・硝酸性窒素に含まれている結合型酸素が混在している場合、遊離酸素を優先的に利用して、下水中の有機物を酸化分解するプロセスです。
 反応時間:   6〜8時間。
 窒素の除去率: 20〜40%(約30%)。
         浮遊物(固形物)に含まれている有機性窒素分が沈殿により除去されるほか、水に溶けている有機性窒素がアンモニア性窒素に分解され、その一部は微生物の細胞となって余剰汚泥として除去される。しかし大部分は、アンモニア性窒素の形で残存する。
 リンの除去率: 10〜30%(約20%)。
         浮遊物(固形物)に含まれているリン分が沈殿により除去される。

3-2 生物学的窒素除去法(高度処理)

 窒素の酸化(硝化)や酸化された窒素の還元(脱窒素)の反応が生じ、水中のアンモニア性窒素が最終的に窒素ガスになり、水中から除去されるプロセスである。
 活性汚泥の入れ替わり時間が長く、有機物負荷が低い条件では、水中の遊離酸素を利用する亜硝酸細菌・硝酸細菌が働いて、アンモニア性窒素は亜硝酸性窒素に、亜硝酸性窒素は硝酸性窒素にそれぞれ酸化されます。
 また、水中に遊離酸素がなく、且つ亜硝酸性窒素・硝酸性窒素に含まれている結合型酸素がある場合(これを無酸素状態という)には、脱窒細菌が結合型酸素を利用して、下水中の有機物を酸化分解します。このとき、亜硝酸性窒素・硝酸性窒素は還元されて、不活性な窒素ガスになります。
 このためには、生成した亜硝酸性窒素・硝酸性窒素を含む混合液(硝化液)を無酸素槽に循環する必要があります。
 反応時間:   12〜16時間。
 窒素の除去率: 60〜70%(約65%)

3-3 生物学的リン除去法(高度処理)

 酸素のない状態(嫌気)と酸素のある状態(好気)を繰り返すことにより、リン含有率の高い活性汚泥をつくり出す(リンの過剰蓄積)プロセスである。
 活性汚泥は、好気的条件下(好気槽)では、必要とされる以上のリンを微生物体内に取り込みます。
 遊離酸素だけでなく、結合型酸素も存在しない嫌気的条件下(嫌気槽)では、その蓄積したリンを放出します。その速度は、活性汚泥中のリン濃度に比例します。
 反応時間:   4時間。
 リンの除去率: 85〜95%(約90%)

3-4 生物学的窒素・リン同時除去法(A2O法)【高度処理】

 流入下水と活性汚泥とが、まず嫌気槽(遊離酸素も結合型酸素もない状態)に入り、リンの放出と有機物の吸着が行われます。
 次の無酸素槽には、好気槽から硝化液が循環されてきます。その中に含まれている亜硝酸性窒素・硝酸性窒素の結合型酸素が呼吸に使われ、脱窒が起きます。
 さらに、好気槽では有機物の酸化、リンの過剰蓄積、窒素の硝化が行われ、この槽の一部の混合液が無酸素槽へ循環されます。
 本法では、活性汚泥中に、生育条件の異なる「リン蓄積菌」、「硝化菌」、「脱窒菌」が共存しており、この三者の機能をバランスよく発揮させることのできる運転条件を設定することが必要となります。
 反応時間: 16〜20時間

3-5 砂ろ過法(高度処理)

 活性汚泥処理水に残存している浮遊物を、砂の層を通してさらに濾し取ります。

3-6 オゾン処理法(超高度処理)

 活性汚泥処理水に含まれている色素成分(多くは、人体の血液成分に由来)や臭気成分(下水処理を担っている活性汚泥に生息している微生物がもっている臭気成分)を、オゾン(O3)の酸化力で除去します。
以上