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T.下水道の歴史(古代から第二次大戦まで)−日本とヨーロッパー
U.「東京の下水道整備のあゆみ」 レジュメ
V.日本における近代下水道の計画期(明治時代)
W.活性汚泥法のいろいろ
X.屎尿の処分と農地への施肥


読み物シリーズ



水環境案内人のメモ帳(2010/08/15)


地田 修一

 水再生センター(下水処理場)に見学に来られた生徒・学生さんや社会人の方々に対して、事前説明をし、さらに実際の処理施設を案内している水環境案内人の立場から、下水道や水環境について過去に質問を受けたあるいは今後受けるかもしれないであろう事柄について、メモ的にアットランダムに記していくこととします。

T.下水道の歴史(古代から第二次大戦まで)−日本とヨーロッパー

1. 下水道の原風景

 野山を歩いていて尿意や便意を感じた時、やむを得ず、その場で用を足し土をかけておくという行為を行うが、これは屎尿処分の原点である。
 また、テントの周りに溝を掘っておき、万が一雨が降った時、テントに雨水が流れ込まないように工夫するが、これが雨水排除の基の形であろう。

 縄文時代の貝塚から、糞石(大便が化石になったもの)が出土することがある。この時期では、生活の場に隣接した貝塚やごみ溜めをトイレ代わりに使っていた。自然の分解作用まかせであったが、環境汚染を引き起こすこともなかった。

2. 屎尿を水に流す

(1) 「厠(かわや)」の語源:川屋(川の上につくったトイレ)
 縄文時代前期の5,500年ほど前の鳥山貝塚(福井県若狭湾の三方五湖)には、「桟橋形水洗式トイレ」があった。桟橋の杭跡の周辺から多くの糞石が出土したことから、「桟橋からお尻を突き出して排泄していた」と、考えられている。
 水に流すという意味では、一種の水洗トイレである。このようなトイレは、今日でも東南アジア地域でみることができる。

(2) 未処理の水洗式トイレ
○インダス・モヘンジョダロ(紀元前3000年頃)の水洗式トイレ(処理せず)
 雨水、家庭雑排水、トイレ排水は、桝(レンガ造り)を経由して、暗渠のレンガ造りの下水道に流れ込んでいた。レンガまたは大理石の蓋が掛けられていた。

○メソポタミヤ(紀元前2200年頃)の水洗式トイレ(処理せず)
 各家には浴室と水洗式トイレがあり、それらは建物の道路側に配置され、道路に沿って造られた暗渠の下水道に、排水管を通じて汚水を流すようになっていた。この下水道は、硬焼きのレンガでできており、継手や内側はアスファルトで防水されていた。マンホールもあり、点検や掃除ができるようになっていた。

○古代ローマの水洗式公衆トイレ(処理せず)
 紀元前5世紀から紀元前3世紀になると、切石積みのアーチで覆蓋された暗渠の排水路が造られ、雨水や地下水に加えて、排泄物をも排除した。古代ローマ帝国の各都市の中心地にある広場付近には、このような排水路が造られた。

○藤原京の水洗式トイレ(処理せず)
 奈良時代の貴族の屋敷では、道路側溝(たえず水が流れていた)に堰を設け、築地塀の基壇の暗渠から屋敷内に水を引き込み、築地塀に平行した木樋の中に水を流し、この上に屋根を作って、そこで排泄した。大便がそのまま流れ出ていかないよう穴を設け沈澱させ、その上澄み水は元の側溝に還流させた。そして、道路側溝や沈澱穴の掃除は、雨の降った日の翌日に、囚人たちを使って行った。
 なお、藤原京遺跡の深さ40cm、長さ1.6m、幅50cmほどの穴から「ちゅう木」が発掘され、その土壌中から「寄生虫卵」が検出されたことから、トイレの跡と認定されている。「土坑式トイレ」といわれるものである。四本の木の杭跡もあり、これに踏板を渡して用を足していたものと思われる。

○高野山の水洗式トイレ(処理せず)
 高野山(817年(平安時代の初期)に空海上人が開山)の寺院や民家では、川水を竹筒などを利用して、まず台所や風呂場に配水し、その余り水を川屋(便壷のないトイレ)に流し、排泄した屎尿をこの水とともに川に流し去っていた。
 昭和に入り、糞塊の堆積や伝染病の発生などが社会問題化し、次第に下水道などで処理するようになり姿を消した。
 高野町の下水道:昭和9年11月着工、昭和12年6月竣工。第1区は、処理人口約9,400人(常住5,400人、観光4,000人)で、イムホッフ槽法(嫌気式)で処理し、第2区は、処理人口約700人で、散水濾床法で処理するものであった。
 高野山式の水洗トイレは、戦後も、日本の各地で少数ではあるが残存していたという。

3.移動式便器

○穴あき椅子式トイレ:ヨーロッパ・ゲルマン民族。建物の外に捨てる。
 紀元4世紀頃から勢力を増し北ヨーロッパで栄えた、ゲルマン民族の王侯や貴族は7世紀頃から「穴あき椅子式トイレ」を使った。ルネサンス期以降になると、有産階級にも普及した。腰をおろすところに蓋があって、それを開けると「おまる」がセットされているものである。溜まった汚物は建物の外(汚水溜め、樽など)に捨てていた。水洗トイレの普及により19世紀末には使われなくなった。
 一方、庶民は長い間、「おまる」や「しびん」を使った。姿を消したのは、第二次世界大戦前後である。
 地方都市のプロバンスでは1954年に水洗トイレができるまで、屎尿の処分を次のように行っていた。
 「毎朝7時前に馬に引かれた肥樽が、サン・レミ通りを隈なく回る。壁の角や隅、馬車用門の傍らなどに桶(「おまる」にした屎尿をこの樽まで運んで捨てた)が置かれていて、「肥樽引き」によって空にされるのを待っている。主婦にとっての作業の第二段階は、所有者の名が書かれているこの桶を町のいくつかの給水栓のところまで運んで洗うことである。」

○馬桶(マートン):中国。建物の外に捨てる。
 中国の一般家庭では、トイレのない家が多く、公衆トイレもそれほど多くないので、一種の「おまる」である「馬桶」を使って用を足した。木製で、漬物を漬ける樽のような形で、用を足すときは、蓋をとり、その上に座ってする。中身が溜まると、野外の運河、公衆トイレなどに捨てにいく。かつては、馬桶が道端で日に干されている風景が普通にみられた。

○ひのはこ、おおつぼ:平安時代の貴族の屋敷(寝殿造り)。建物の外に捨てる。
 寝殿造りの建物では、トイレと呼べる特定の設備がなく、大便用には「ひのはこ」、小便 用には「おおつぼ」や「しとづつ(尿筒)」と、呼ばれた移動式の便器が用いられた。今日の「おまる」である。御簾(みす)と呼ばれる「すだれ」のようなもので広い部屋の一画を仕切り、その陰で用をたしていた。
 一方、京の都に住む一般の庶民は、暗黙の了解の上で、野外の特定の排泄場所(街角の空き地など)が決められており、足元や着物を汚さないように、共用の「高下駄」を履いて用をたしていた。(「餓鬼草紙」)

4. 屎尿の利用(汲取りトイレへの移行)

 野外でするか、家でするかの違いがあるにしても、屎尿は長らく「捨てるもの」であったが、鎌倉時代末期から、徐々に壷や樽などに溜める「汲取りトイレ」に移行していった。「肥料価値のある屎尿を確保する」という見地からである。
 麦を裏作とする二毛作が、鎌倉時代末期になると、盛んに行われるようになり、農民の間に生産性を高めるための工夫や地力維持への関心が高まった。従来の、草を刈って田に敷き込む「刈敷」や草木灰に加えて、速効性のある屎尿を追い肥として使用する農業技術が定着していった。
 中国の宋王朝ではすでに屎尿を肥料として使っていたことから、鎌倉時代に盛んに行われていた日宋貿易によって、「屎尿の肥料化」が日本に伝えられたものと推測される。

○京都・東福寺のトイレ(東司)
 室町時代前期に造られた現存する最古の便所建築で、重要文化財に指定されている。現在は、内部は使用されていない。
 正面を入って奥行方向に右側三間(5.4m)は大便所、左側三間は小便所で、地下にそれぞれ9箇の壷が埋められ、隔壁で仕切られていた。
 これに続く右側三間、左側三間は手洗い場になっていた。

参考
 「慕帰絵」:1351年頃(南北朝)に描かれた汲取りトイレの絵。土を掘った穴の上に板を渡してある。
 「法然上人絵伝」:南北朝時代に描かれた汲取りトイレの絵。板敷きで、中央に板製の便器があり、高下駄を履いて用をたしている。

○屎尿を肥料として農地に施肥(鎌倉時代末期〜昭和30年頃まで)。
 江戸時代に、全国に広まった。
 屎尿と作物(米や野菜)を媒介とした、都市と農村を結ぶ「リサイクルの輪」ができあがった。
 屎尿をまけば作物がよくとれる。農家はお金を払ってでも手に入れたかった。やがて、屎尿を汲み取って農家に売る業者が生まれた。屎尿は値段がついて取引きされるものとなった。
 江戸の場合、長屋で大人20人の店子が生活していたとすると、一年間に屎尿を売り払って得られる収入は、おおむね1両から1両2分であった。一人前の大工の一月の収入が2両程度の時代に、である。個人の家の場合は、江戸では野菜などとの現物交換が多かった。
 肥溜めに糞尿を溜め、農地にまいていた江戸時代。ここで素朴な疑問がわく。昔の町は臭かったのではないか。確かに今の世の中からみれば芬々たる臭いだった。
 江戸時代に、長崎の出島に入国した西洋人(C・P・ツュンベリー「江戸参府随行記」。シーボルト「江戸参府紀行」。ケンペル「江戸参府旅行日記」。ともに東洋文庫、平凡社。など)の紀行文をみると、「糞尿を農地にまいていたから、その臭いだけはたまらない」と、書かれている。ただ、「馬糞や「わらじ」なども農家の人が拾って肥料にしていたので、道に「ごみ」も「うんち」も転がっていない」と、感心している。
 むしろ、当時のヨーロッパの方がひどい有様で、日本ほどは屎尿を農地にまく習慣がなかったので、町のそこいら中に糞尿が溢れていた。そこで、掃除を兼ねて豚を放してそれらを食べさせていたという。
 「おまる」の排泄物を窓から道路に捨てるものだから、それを避けるために貴婦人がパラソルをさすようになった、という説があるほどである。
 だから同時代でいえば、日本の町の方がきれいだったのではないでしょうか。

5.都市下水路

 雨水と家庭雑排水とを排除する、終末に処理施設を持たない下水道システム。

(1) 大阪の背割下水:戦国時代。原則は開渠。
 背割下水(家屋や敷地の背面を分割するかたちで造られた排水溝)の建設は、大阪の船場が開発された慶長3年(1598)からの約100年間で行われた。
 当初は素掘り溝あるいは木組み溝で始まり、徳川時代のある時期に、石組み溝へ改良されたものと考えられる。
 明治27年(1894)から始まった改良事業までのおよそ300年間にわたって、この近世の下水道が使用されていた。

(2) 江戸の町の下水道:原則は開渠。
 家々からの下水は、路地の溝(木組み、石組み)を経由して町中の下水道(雨落ち下水、横切り下水、箱下水(埋下水)、桝)から、近くの堀や小川に流れ出て、そこから隅田川や神田川に流れ、最終的には江戸の海へ流されていた。
 堀や川につながる所には、竹や木で作った「合掌」や「矢来」などを設け、下水に含まれている「ごみ」が流れ出ないようにした。
 江戸の町の下水道は、17世紀の中頃には、かなり整備されていた。
 割下水:道路の真ん中を掘り割って設けられた排水路。北割下水、南割下水。
 大阪や江戸は、街づくりのかなり初期から、生活雑排水、生ごみ、屎尿といった都市の排泄物を、きちんと始末するシステムが組み込まれていた。
 時代が江戸から明治に代わっても、下水道は江戸時代の木組みや石組みのままであった。

(3)銀座煉瓦街の洋式溝渠(暗渠):明治6年〜10年。
 車馬道と人道との境界石の下に暗渠が設けられ、数条の支溝が横に通じていた。暗渠の中は潮の干満により常に流れており、不潔なものが停滞することのないようになっていた。
 表通りや横町通りは洋風の溝渠であったが、裏通りでは蓋のないU字形の溝渠であった。汚水の排除については、雨水排除のような計画的な建設がなされていなかった。
 煉瓦家屋には元々、トイレや台所が設けられていなかったので、入居者がそれらを木造で建て増しをした。トイレは汲取り式であった。台所からの汚水は、支溝を通じて暗渠やU字溝に流れ込んだ。

(4)神田下水(暗渠):コレラの蔓延、ヨハネス・デ・レーケの指導、明治17〜18年度。
 雨水の排除は在来の排水路を使い、屎尿は汲取りトイレのままとし、新たに埋設する暗渠には家庭雑排水と雨水の一部を排除させた。
 本管は煉瓦積みの卵形渠、枝管は円形の陶管を使用した。
 「屎尿の始末は、本来の日本の方式でしなければならない」と勧告しているが、これは日本の古来からの技術をよく研究していたデ・レーケの見識であった。

6.水洗便器の発明

 1775年:ロンドンの時計師・アレクサンダー・カミングスがイギリスの特許を得る。
 その3年後の、
 1778年:ジョセフ・ブラーマがこれを改良。100年後でも、まだこのタイプのものが使われていた。
 水洗トイレの出現は、排水管からの臭気が入り込まないトイレを室内に設置することを可能にし(水封装置の効果)、ロンドンの上流階級の家では、18世紀末には、水洗トイレを設置することが普通となった。
 「水洗装置付きのトイレが成功し、フランスの全家庭への普及が達成できるかどうかは、まず十分で規則的な水の供給によって条件付けられた。…… そして次に使用後の水を始末できる可能性がなければならなかった。」 (「トイレの文化史」ロジェ=アンリ・ゲラン)

7.ヨーロッパの下水道の歴史

(1) ベルリン
 1871年:ベルリンがドイツ帝国の首府となる。 人口百万人の大都市。
 この頃は、大半の屎尿は、家屋の下に掘った穴に貯留され、清掃人がそれを汲み取り郊外に搬出する、「運搬式」で処分されていた。
 地下室のある家では、木または鉄で作った樽や桶を置き、数日ごとにそれを取り替え運び出す、という方法もとられた。
 便所を屋外に設ける家も、多かった。
 水洗トイレは、約1/4の家庭に普及していた。
 家庭雑排水、水洗トイレの排水、工場排水などあらゆる汚水が、雨水とともに、深い溝を通って市の中心部を流れるシュプレー河に流れ込んだ。その結果、この河は悪臭を発する巨大な下水道と化してしまった。
 コレラの流行:1831年、1837年、1866年と、幾度となく流行。
 1861年:二つの下水道計画が提案され、論争に。
 1860年に政府は、大都市における都市浄化問題に関する調査団を、ハンブルグ、パリ、ロンドンその他のイギリス各地に派遣し、各都市の下水道計画や工事状況を調べさせた。この調査団の団員から二つの計画案が出された。
 ウィーベの計画:下水を無処理で、一地点から河に放流するというもの。
 ホープレヒトの計画:12の中継ポンプ場から下水を郊外の灌漑畑に圧送し、処理するというもの。
 1872年:下水道計画の最終答申案は、水洗トイレの使用を義務付けるもので、ほぼホープレヒトの案に沿ったものになる。下水道改良委員会(委員長:ウィルヒョウ)が膨大な事前の調査・実験を行い、彼の案を裏付けまとめあげたものである。市議会の承認を得、翌年から正式に下水道工事が着工された。
 1890年:下水道普及率 50%を超える。
 1900年:下水道普及率 ほぼ100%に。
 ベルリンの灌漑畑:20世紀初頭には10,477ha、すなわち市街地より5,000ヘクタールも広い。砂礫層の土壌が適しており、苗木の育成、野菜、雑穀の栽培、養魚、牧畜などの事業が市の直営で行われた。その一部は現在でも使われている。
 なぜ、ヨーロッパの都市で「排泄物を土に返す」という考え方が生まれたのだろうか。それは、中国を旅行し、農家が屎尿を畑に肥料として返している姿を見て、驚いたドイツの有機化学者J・リービッヒが1840年に出版した「有機化学の農業利用」の映響であった。この本の中で彼は、屎尿や下水を畑地に返すことによって、その中の有機物が腐敗して、窒素、リン、カリウムなどの無機物に分解されることを述べ、さらに、「植物は空気、土壌の中から窒素、リン、カリウムなどの無機物を吸収し、光合成によってそれらを養分に変えて生長する」という学説を発表している。

(2) パリ
中世
 街路に汚物が投げ捨てられていたことでは、他の欧州の諸都市と同じであった。
 1531年:家主は各家に便所を設置すること、とする法律の制定→(1819年:トイレの構造を細かく規定した王令の発布)
 パリで最も古い下水道:1374年、モンマルトル地区。
 市域全体を計画的に施工するものではなく、造り易いところから造るという場当たり的なもの。
 開水路→ 暗渠化(ごみなどの投棄の防止、馬車のじゃまにならないよう)

19世紀
 19世紀の前半での人口は百万人。
 各家の屎尿はそれぞれの汚水溜めに溜められた後、汲取られ、郊外の石切り場跡の穴に投棄された。液状部分はセーヌ河に流出。沈澱物は天日乾燥し、肥料として利用された。
 1849年:市街地から遠く離れたボンディの森に屎尿の投棄場を設けた。
 しかし、低所得者層が多く住む住宅では、家の下に穴を掘り、屎尿の液状部分を地中に浸透させる、吸い込み式トイレも多く残っていた。
 当時、家庭からの雑排水や、街路上の塵芥、汚物を洗浄した排水は、不完全な側溝や下水道を経て、セーヌ河に流れ込んでいた。
 道路は、ごみの捨て場であり、汚水の排水路であり、さらに悪いことに街角の屎尿槽から、屎尿が道に溢れることなどもあった。
 1832年:コレラの発生で、パリ市内だけで約2万人が死亡。当時は、その原因として「毒気説」が有力であったため(もう一つの考え方は、「接触伝染説」)、その毒気を封じ込めることができるものとして、下水道の必要性が高まった。
 下水道や下水溝を直して流れを良くし、蓋をして毒気が立ち上らないようにすることが必要である、と考えられたのである。
 1856年:ベルグランの下水道基本計画が議会で承認される。これは、4本の遮集幹線を敷設し、全市の下水を自然流下で郊外に送り、セーヌ河に放流するというものである。これはロンドンの例を参考にしたものである。
 1861年に完成。引き続いてさらに、準幹線の建設に着手。この際、ドブ川となっていた小河川を下水道に転用した。
 パリの下水道は、その中に水道管、雑用水道管、通信用の圧縮空気管、ケーブルなどの地下埋設物を収容している。
 下水道には、雨水、家庭雑排水,工場排水、道路の洗浄水(路上の塵芥を含む)が流し込まれたが、当初、「屎尿」は受け入れを拒否された。
 1878年:下水道延長 620Km
 1885年:下水道延長 827Km
 1894年:下水道延長 960Km
 1880年(1886年との説も):下水処理が行われるようになったことを受けて始めて、屎尿の下水道への受け入れが認められた(すなわち、水洗トイレの使用が認められた)。この頃は、下水道で集めた下水の大部分は、セーヌ河に未処理で放流していたが、その一部は灌漑畑で処理されていた。
 1890年:パリの下水の全量が灌漑畑で処理される。
 1894年:水洗トイレの使用を義務付けた。
 これによって、8万5千余の汚水溜めがなくなることになった。

(3)ロンドン
 市街地が形成された当初は、
 屎尿は「汚水溜め」に溜め、適時、夜間に運び出す。
 下水道の役目は、雨水と地下水の排除にあり、道路側溝が排水の重要なツールとなっていた。したがって、家庭雑排水や屎尿を下水道へ流すことは禁じられていた。都市の排水機能は、テムズ河に流入する小河川とそこに流れ込む自然または人工の水路や溝であった。
 その後、コレラの大流行に脅威を感じた行政当局は、
 1847年:家庭雑排水や屎尿を下水道へ強制的に流入させた。これがテムズ河の水質汚濁とコレラの蔓延を助長した(テムズ河を水道水源としていたため。1848年にはコレラにより1万4千人が死亡。)。
 1848年:首都下水道委員会の設立。
 1859年:テムズ河の両岸に幹線下水道を建設し、下水をロンドンにまで逆流しないはるか下流にまで遮集して放流する事業に着手。バザルゲットが技師長として活躍。ただし、下水は未処理。
 1868年:この事業の完成により、コレラの発生は激減する。
 しかし今度は、テムズ河の河口域の水質汚濁が問題となり、
 1882年:未処理放流を禁止し、下水は沈澱処理し、発生した汚泥は海洋に投棄することになった。
 イギリスでは、灌漑畑(農地に畝と溝をつくるか、周囲を畦で囲み、そこへ下水を流し込む)について調査研究され、一部、小規模で実施されたが、広くは採用されなかった。
 接触濾床法の開発:ディブディン(首都事業局の化学技師)が、微生物が下水を浄化する能力をもっていることに着目したもの。パイロット実験まで行なわれたが、ロンドンでは採用されなかった。この技術の発展したものが、散水濾床法である。
  活性汚泥法の開発:マンチェスターのファウラー博士は、1897年に、「下水中の浮遊性のある種の微生物が急速に沈澱することによって、きれいな上澄水が得られること」を見出した。マンチェスターの下水処理場で、浮遊性の生物体を用いて実験を行った。後に、この浮遊性の生物体を「活性汚泥」と称した(1913年)。繰り返し利用できることがわかり、下水処理法として実用化された。
 1928年:北部処理場を活性汚泥法に改造する工事を開始し、1934年にはほぼ完成した。南部処理場は1955年以降に活性汚泥法に改造された。

8.東京における近代下水道の整備

 屎尿を含む下水を処理するシステムの導入。
(1) 東京市下水設計第一報告書:
 明治22年、W・K・バルトンの指導、幻の下水道計画。
 分流式とし、雨水は改造した在来の排水路に流し、新たに埋設する下水道管には家庭雑排水のみを流し屎尿は入れない、とするものであった。
 ただし、将来、トイレの水洗化が普及し、屎尿を受け入れるようになるであろうことを配慮して、管渠の勾配、断面を設計している。
 隅田川の中流に放流する路線(三河島処理区)は処理するが、海と河口に放流する他の二つの路線は未処理放流としている。
 近代水道の整備が優先され、実施されなかって。

(2) 下水道法の制定:
 明治33年。ペストの脅威に対応。
 施設の使用を住民に義務付ける。
 財源確保に関する条項が欠落していた。

(3) 東京市下水道設計:
 中島栄治。明治41年告示。
 三処理区(三河島、芝浦、砂町)、合流式(雨水+家庭雑排水+屎尿)、終末処理場で処理。

(4) 三河島汚水処分場:
 大正11年:散水濾床法
 昭和11年:機械式(パドル)活性汚泥法
 昭和36年:散気式活性汚泥法

芝浦汚水処分場:
 昭和5年:沈澱法 
 昭和12年:機械式(シンプレックス)活性汚泥法
 昭和34年:散気式活性汚泥法

砂町汚水処分場:
 昭和6年:沈澱法
 昭和35年:散気式活性汚泥法

9.処理場の呼称

 汚水処分工場→ 汚水処理場→ 下水処理場→ 処理場→ 水再生センター。

10.今日の下水道の役割

 雨水の排除(浸水の防除)
 汚水の排除(便所の水洗化)
 公共用水域の水質保全(下水の処理)
 リサイクル型都市づくりへの貢献(処理水や汚泥などの有効利用)
 施設の活用(処理場の上部利用、下水道管への光ファイバーの設置)

U.「東京の下水道整備のあゆみ」 レジュメ

1.前史―江戸の下水道


2.明治前期―文明開化と近代下水道への模索―

(1)銀座煉瓦街の洋式溝渠(明治6〜10年)
(2)神田下水(明治17、18年度)

3.明治後期―近代下水道整備への胎動

(1)東京市下水設計第一報告書(明治22年)
(2)旧下水道法の制定(明治33年)
(3)下水道整備への期待

4.明治末〜大正期―三河島汚水処分場の建設と運転

(1)東京市下水道設計の策定とその一部変更
@東京市下水設計報告書(明治40年):中島鋭治
A東京市下水道設計の告示(明治41年4月)
B東京市下水道設計の一部変更の認可(大正2年11月)
C幹線工事の着工(大正2年12月)
D製管工場において手詰めの鉄筋コンクリート管を製造(大正2年)

(2)三河島汚水処分場の運転開始(大正11年3月)

5.昭和前期―芝浦、砂町汚水処分場の運転開始

(1)組織
(2)昭和5年:芝浦汚水処分場 沈澱処理
 昭和6年:砂町汚水処分場 沈澱処理
 昭和11年:三河島汚水処分場 機械式(パドル式)活性汚泥法の導入
(3)三つの下水道計画:
 昭和5年 「東京都市計画郊外下水道」
 昭和7年 82ヵ町村が東京市に編入され、隣接の旧12町の「旧12町下水道計画」
 明治41年 旧市域の「東京市下水道設計」
(4)終戦直前の下水道の普及:旧市域では80%普及(下水管 1,423Km)
 新市域(下水管 525Km)
 合計: 下水管 1,948Km(普及率 10%)
 処理場 3箇所、ポンプ所 10箇所

6.昭和中期〜後期―浸水被害と水質汚濁の克服

(1)戦後復興からオリンピック開催を目指して
 昭和22年:東京都人口500万人超える → 昭和25年:628万人
 昭和25年:下水道計画の一元化
      下水道整備の再スタート
 昭和36年:「河川下水道調査特別委員会」で、15本の中小河川を下水幹線に転用を
 昭和37年:下水道局発足
 昭和38年:「東京都公害対策審議会」で、隅田川汚濁に関する答申、新河岸川浄化対策事業を公共下水道事業の一環として実施、(昭和37年)
  昭和41年:浮間処理場が運転開始(工場排水を主に処理する)
       工場側には「水質料金制度」を適用、浮間処理場、水質料金制度を廃止、それぞれの工場に「除害施設」の設置を義務付ける、
 昭和37年:小台処理場
   39年:落合処理場
   42年:森ヶ崎処理場
   49年:新河岸処理場
   52年:小菅処理場
   56年:葛西処理場
   59年:中川処理場
(2) 汚泥処理技術の向上

7.概成100%普及達成まで

(1)昭和53年:隅田川の浄化が進み、花火大会などの復活
 昭和63年:普及率87%
 平成6年:普及率99.5%(概成100%)
      オリンピック投資ではずみがつき、
      → 昭和40年代:水質汚濁防止効果への期待
      → オイルショック不況後も:重点施策としての位置付け
(2) 区部下水道事業の現況(平成12年3月)
 普及人口:約820万人
 下水道管:約1万5千Km
 処理能力:約630万m3/日
 処理場数:13箇所
 処理水量:約480万m3/日
 脱水汚泥量:約3千m3/日
(3) 隅田川の小台橋での水質の推移
 昭和46年(隅田川上流地域の下水道普及率 38%):22.3mg/リットル
 昭和54年(  〃          71%):環境基準(8mg/リットル)を下回る
 平成12年:ここ数年、環境基準(5mg/リットル)前後を推移している

8.下水処理の高度化を目指してー水辺環境の創出と下水道

 昭和62年:落合処理場に急速砂濾過法(BOD、浮遊物質などの有機物に除去)を導入
 放流先の神田川:処理水の占める割合が90%、ここ数年来、アユの遡上が確認され、水質はめざましく改善、
 平成7年:固有水量の少ない、渋谷川、目黒川、呑川に落合処理場の高度処理水を送水し、流量を確保する事業を実施
 平成12年:東尾久浄化センターに生物膜濾過施設を設置し、ここに三河島処理場の処理水を送り、さらに高度処理を行う、
 平成7年:有明処理場、中野処理場に「硝化・脱窒」、「脱リン」機能(窒素・リンの除去)を付加した活性汚泥法の変法を導入、中川処理場、清瀬処理場などの一部にも導入、

9.多摩地区の下水道整備のあゆみ

(1)単独公共下水道
 昭和42年 立川の下水処理場運転開始
   43年 三鷹     〃
   44年 八王子    〃
  他に、町田市、 武蔵野市(区部流入)、 奥多摩町
(2)流域下水道
 昭和42年 都 「三多摩地区総合排水計画(第一次)」
   43年 都 「      〃    (第二次)」
      都:幹線下水道と処理場の整備(多摩川上流、北多摩1号、北多摩2号、南多摩、清瀬、野川系統(区部流入)
     市町村:枝線下水道の整備

V.日本における近代下水道の計画期(明治時代)

第一節 前史−江戸の下水道

(1)江戸の下水道の仕組み
 江戸の町について書かれた本の中に「水道はあったが、下水道はなかった」と、断言するものがいくつかある。これは、下水道を水洗便所の利用が可能な施設であるとしての記述である。しかし今でこそ、「下水道は屎尿処理が可能な施設である」ということが常識となっていて、下水道が普及した地域では便所の水洗化が義務付けられているが、東京都区部においても昭和30年代頃までは、水洗トイレ排水を受け入れ最終的に下水を処理する下水道のほか、家庭雑排水と雨水のみの下水を単に排除するだけのものも存在していた。
 江戸の下水道は、下水(屎尿を含まない)を排除するだけのもので、屎尿は汲取られて近郊の農村で肥料として利用されていた。町人が多く住んでいた長屋を例にして、江戸の町の下水排除の仕組みについてみると、概ね以下のような状況であった。
 長屋の入り口を入ると土間があり、そこに台所がつくられていた。台所で使う水は、長屋の井戸から汲んで水瓶へ運んだものであり、大切に使われた。台所からの排水は木樋や竹筒で家の外へ出し、長屋の路地の真ん中を流れている「どぶ」に排除した。幅が六、七寸(約18〜21cm)ほどの、丸太の杭で支えられた木組みのものや石組みのものであった。底が張られ、板の蓋が掛けられていた。ここには、長屋の人々が洗濯や食器などの洗い物をする、井戸端の共同の流し場からの排水も流れ込んでいた。井戸は、江戸時代中期以降になると掘り抜き井戸も増えてきたが、多くは神田上水や玉川上水の水を汲揚げる水道井戸であった。さらに、雨水もこの「どぶ」に集まってくる。
 「写真− 在来の下水道」(略)
 長屋の路地から敷地外の「どぶ」に繋がる手前のところには、桝が取付けられていた。桝は複数の「どぶ」を1ヶ所に集めたり、下水の流れる方向を変える所に取付けられる。そして、町境から道路を横切って隣町の「どぶ」に繋がる。道路を横切るものは「横切下水」といわれ、橋が架けられていた。このようにして、町から町へと「どぶ」は繋がり最終的には近くの堀や川に出る。下水が堀や川に流れ出る所には杭を並べて打ち込んであり、ここで下水と一緒に流れてくるゴミを取り除いた。

(2)江戸の堀・川と現代の下水道
 江戸の町には、現在の東京からは想像もできないほどのたくさんの堀や川が流れ、これらが下水道の幹線の役割を果たしていた。図− に江戸の町の堀や川を示す。
 「図− 隅田川に合流していた江戸の掘・川」(略)
 現代の下水道との関連をみると、たとえば、王子(現・北区)付近で石神井川から分岐し、中里(現・北区)・尾久・日暮里(現・荒川区)・根岸(現・台東区)を経た後、三の輪(現・台東区)で山谷堀と思川とに分かれていた「音無川」の跡は、日暮里付近から三の輪付近までが「音無川幹線」になっている。三の輪付近で「分水堰」を超えた下水は、「山谷堀上流」跡につくられた「雨水渠」を通じて、日本堤ポンプ所へ入る。日本堤ポンプ所には、「浅草新堀川」跡につくられた「元浅草幹線(雨水渠)」からの下水も入ってくる。日本堤ポンプ所からの下水は、「山谷堀下流」の跡につくられた「雨水渠」で隅田川に流し出される。「分水堰」を超えない下水は、南千住(荒川区)付近から三河島処理場に繋がる幹線に合流して、三河島処理場で処理された後、隅田川に放流される。
 このように、江戸時代に下水道の役割を果たしていた堀や川は、現代の下水道に引き継がれているのである。
 「図−  東京都下水道計画図(略)
 江戸の下水道(どぶ)は、雨水排除を主眼に整備されていた。家庭からの雑排水は、現在と違って水を大切に使っていたので、「どぶ」に流される量はごく少量(たとえば、米のとぎ汁は拭き掃除に使い、さらに残ったものは植木に撒いた)であり、屎尿が下水に含まれることもなく、下水といってもそれほど汚れてはいなかった。また、雨水の一部は溜めておいて防火用水や道路の散水に使われた。

第二節 文明開化と近代下水道

 慶応4年=明治元年(1868)7月17日、江戸を東京とする詔勅が出され江戸府は東京府となり、次いで9月8日、その年の年初に遡り年号が明治に改元された。しかし、時代が江戸から明治に替わっても、下水道は江戸時代の板棚や石組みのままであった。
 明治5年(1872)2月、和田蔵門付近(現・千代田区)から出火、銀座・京橋・築地(現・中央区)一帯が消失した。この大火を機に、東京府は東京を外国風の不燃建築物によって近代都市にすることをめざし、銀座に煉瓦街を建設することとした。明治6年(1873)10月のことであり、街路には洋風溝渠が造られた。
(1)銀座煉瓦街の洋風溝渠
 煉瓦街の道路は、表通り(現・銀座通り)が幅十五間(約27m)で、横町通りが幅十間(約18m)と八間(約15m)、裏通りが幅三間(約6m)であり、裏通り以外は車馬道と人道が分けられていた。道路両側には、洋風の石造りの溝渠が設けられていた(「下水道東京100年誌」)。車馬道と人道との境界石の下に暗渠が設けられ、数条の支溝が横に通じていた。暗渠の中は潮の干満により常に流れており、不潔なものが停滞することのない構造となっていた。表通りや横町通りは洋風の溝渠であったが、裏通りでは蓋のないU字形の溝渠であった。
 官築の煉瓦家屋には便所や台所が設けられていなかったので、入居者がそれらを木造で建て増しをした。便所は汲取り式であった。汚水の排除については、雨水排除のような計画的な施設の建設がなされていなかった。台所からの汚水は、支溝を通じてU字溝や暗渠に流れ込んだ。
 「写真−銀座煉瓦街」(「荒川下流誌」(略)
 銀座煉瓦街が完成したのは明治10年(1877)頃である。当初は東京府全域に外国風の不燃建築物による近代都市化を進めようとしていたが、財政難と住民からの不評により、煉瓦街の建設は銀座一帯だけで中止となった。下水道整備についても同じこととなる。

(2)神田下水
 明治10年(1877)から15年(1882)にかけて、全国にコレラが流行し、多数の死者を出した。明治15年の東京府下のコレラによる死者も、約5,000人に上っている。この惨状をみて、政府は下水道整備の必要性を痛感し、明治16年(1883)4月30日付で東京府に対して「水道溝渠等改良ノ儀」を示達した。これを受け、東京府は下水道改良事業の立案に着手し、内務省御用掛の石黒五十二より設計提案を受けた東京府は、内務省御雇工師オランダ人ヨハネス・デ・レーケの指導のもと計画案をまとめた。
 事業実施区域は、明治15年(1882)のコレラ流行で大きな被害を受けた悪疫流行の危険性の高い神田地区とした。「雨水の排除は在来の排水路を使い、屎尿は汲取り便所のままとし、新たに埋設する暗渠には家庭雑排水のみを排除させる」と、いうものである。本管はレンガ積みの卵形渠、分管は円形の陶管とした。
 明治17年(1884)11月、東京府知事・芳川顕正は内務卿・山縣有朋に対し「府下溝渠改良ノ儀ニ付伺」として神田下水の事業計画(設計書等)を申請した。同年11月13日、内務省から東京府に築造認可指令が出され、同年暮から工事に着手した。これがいわゆる「神田下水」である。
  第一期工事(17年度)
 神田区の通鍋町、鍛冶町以西、竜閑町新川以北を対象。
 予算:5万円(全額国庫補助)
 工事:本管 約0.6Km、分管 約1.95Km
第二期工事(18年度)
 神田区の通鍋町、鍛冶町以東、竜閑橋筋新川以北、浜町川筋新川以西を対象。
 予算:3万円(国庫補助金)、1.2万円(地方税)
 工事:本管 約0.4Km、 分管 約1.17Km
 東京府は、第三期工事(内神田・錦町・美土代町を対象に、本管約0.7Km、分管約2.4Km)の予算として国庫補助金5万円、地方税1.2万円を支出する予定であったが、政府が国庫補助金を不許可としたためやむなく中止され、いわゆる「神田下水」は約4Kmの管渠を敷設しただけで工事未了となった。
 神田下水では、下水は処理されることなく、竜閑川や新たに掘られた浜町川に放流された。そして、屎尿は従前どおり汲取られ肥料として利用された。
 「写真−神田下水」(略)
 神田下水は、現在も2Km余が東京都の公共下水道として機能しており、この内の614mが平成6年3月に文化財保護法により「東京都指定史跡」に指定された。指定の概要は以下の通りである。
@名称:神田下水(面積1,289.4m3、長さ614m、幅2.1m)
A 所在地:東京都千代田区神田多町2丁目8番地先から同区鍛冶町1丁目3番地先に至る特別区道
B所有者:東京都下水道局・千代田区
C指定理由:神田下水は、1884年(明治17)に東京で最初に布設された近代下水道である。煉瓦造卵形管を用いた施設としては横浜、神戸に次ぐものであり、完成後100年以上も経過した今日まで、現代の下水道システムの中でその機能を果たしながら、保存されている事例としてはきわめて稀であり、重要な近代土木遺産である。保存状態も良好である。

(3)神田下水以降
 神田下水の工事終了後も、雨水排除の下水道整備は続けられた。「東京市下水道沿革誌」には「応急雨水渠工事」箇所が、次のように記されている。
 麹町区(現・千代田区) 隼町・陸軍省経理部間の暗渠
 四谷区(現・新宿区)  元鮫ヶ橋・青山御所裏間の暗渠
 本郷区(現・文京区)  駒込追分町・丸山新町間の暗渠と妻恋町暗渠
 浅草区(現・台東区)  北田原町・吾妻橋北詰間の暗渠
 下谷区(現・台東区)  五軒町通り暗渠
 神田区(現・千代田区) 一ツ橋通りほか三線路暗渠

第三節 東京市による下水道計画の策定

 明治維新の混乱が落ち着いた頃から東京の人口は増加に転じ、明治21年(1888)には東京市(15区)で130万人、東京府全体で156万人に膨張した。一方、これを支える都市基盤は江戸時代のままという状態であり、近代都市の建設には下水道だけでなく、上水、道路、河川、橋梁、港湾などの整備が急務であった。

(1)市区改正条例と下水道計画
 ときの東京府知事・芳川顕正は、明治17年(1884)、政府に「市区改正意見書」を提出し支援を要請している。市区改正とは今でいう都市計画のことである。明治21年(1888)8月に、東京の一元的な都市整備を目標として「東京市区改正条例」が公布される。
 東京市区改正条例は「条例」となっているが、近代的な都市計画のあり方を定めたものとしてはわが国初の法制である。内務大臣の監督のもとに、東京市区改正の設計・年度計画を決めるため「東京市区改正委員会」を置くことが定められていた。
 明治21年10月、第6回東京市区改正委員会において、W.K.バルトン(英国から招聘した内務省衛生局御雇工師)を主任とする7名の上水下水調査委員(長与専齋、古市公威、原口要、山口半六、永井久一郎、原竜太)に、上下水改正についての設計・調査を委嘱した。
 下水改良については明治22年(1889)7月に、「東京市下水設計第一報告書」が市区改正委員長に提出された。「分流式とし、雨水は在来の排水路を改造して流し、新たに埋設する下水道管には家庭雑排水のみを流し屎尿は入れない」とするもので、その内容は概ね以下の通りである。
@排除方式  分流式(雨水は在来の溝渠で排水する)を採用
A屎尿の扱い 屎尿は貴重な肥料であるから、原則として汚水管に流入させない
B排水区域  東京15区全域を対象とする
C排水人口  150万人
D汚水量   1人1日最大8立方尺(約222m3)
E汚水排除  全市15区を3路線に分ける
       第一路線:都心地域を対象、品川湾に排除
       第二路線:下町地域を対象、荒川に排除
            三河島で間断向下濾過法により汚水処理を行う
       第三路線:墨東地域を対象、中川に排除
F管渠    大口径管:煉瓦積管
       小口径管:陶管
G管渠延長  本管:約48Km
       枝管:約480Km
H事業期間  本管とポンプ場の整備:五箇年計画
       枝管は順次施工
I費用    総工費:350万円
       完成後の下水管理費:毎年7万円 
 第二路線(下谷、浅草及び神田の一部)は、隅田川の中流に放流するので下水の処理が必要であるとし、わが国で初めて下水処理施設(間断向下濾過法)の建設を計画している。三河島地内にポンプ場を設け、さらに汚水を濾過処理して、荒川に放流するとしている。
 「東京市下水設計第一報告書」は提出後1年余を経て、ようやく明治23年10月、市区改正委員会は計画内容の審議に入るが、財政上の理由から上水道の整備が優先され、下水道改良は延期となり幻の計画となってしまった。下水道事業に収入財源がなく、工事費も汚水対策だけで350万円もかかるうえ、雨水対策の議論や神田下水に対する批判なども出て、意見がまとまらなかったからである。
 本格的な下水道計画の立案にまで進んだ東京の下水道は、ここでいったん挫折をみることになった。ただ、当時の大雨による深刻な被害もあって雨水吐工事などは延期もできないので、在来の溝渠の補修などは東京府で施工した。

(2)下水道法の公布
 「東京の下水改築はなお未着工で、浚渫も不十分である」という市街状況の中で、明治33年(1900)4月に下水道法が施行された。下水道の使用を強制することにより、社会全体の公衆衛生を保持していこうとする考え方が強く打ち出されている。しかし、事業主体は下水道整備を急務とする「市」に限定されていた。また、屎尿については塵芥汚物と同列に扱い、同じ年に公布された汚物掃除法に委ね、当時は、肥料価値のある有価物であった屎尿の汲取りは、自治体が関与せず、各戸の家と汲取り業者との間の民々の契約にまかせていた。
 法の成立過程で、「下水」という名称が「下水道」に変わった。従来から存在する「どぶ」を指す「下水」と、区別するためである。法の名称も「下水道法」となり、これを契機に「下水道」という言葉が定着した。
 この旧下水道法は、昭和33年(1958)の新法制定まで長くわが国近代下水道建設の根拠法となったが、公共事業の原則にのっとり施設の使用を住民に義務付ける一方、建設ならびに維持管理に要する財源に関する条項が欠落しており、これが下水道財源の安定的な確保を妨げることとなり、この間の下水道の普及に少なからぬ影響を与えた。

(3)下水道整備への機運
 明治23年11月に財政上の理由から上水道の整備が優先され、下水改良は延期になっていたが、その後の東京市の発展は目覚しく市街地の中心には高層建築が建ち、水洗トイレもかなりつくられ始めた。しかし、その多くは近くの池とか堀に未処理で流しているのが実態であった。
 明治39年(1906)の時事新報は、「上水改良はできても下水溝は不潔、山の手などは吸込み下水で、上水道利用も市民の三分の一にすぎず、井戸水は下水がないため汚れている。下水道の早期実施をするように」と指摘し、さらに、「東京市下水の始末、不行き届き至極にして病毒蔓延の源をなす。下水道の設備なき都市は厠を備えざる家と同様、そして、外人が「本所割下水」や浅草の「オハグロどぶ」を見たらなんというか、帝国ホテル側の掘割が臭くて投宿を見合わせた者がある」と、東京における下水道整備の促進を論じている。
 また、深川の古老の話によると、「亀戸から進開橋までの五之橋通りは、昔は狭かった。片側は「どぶ」だった。どこの細い道に入っても片側に必ず「どぶ」があった。家の中で使った水はこの「どぶ」に入る。進開橋のところに水門があって係りがいて、引き潮になるとその水門を開けて、「どぶ」の中の水をグワーと吐き出す。潮が上がってくると閉める。大雨が降ると、家の中にも水が入ってきた。下水が詰まってしまってね。大雨の後は水を全部吐くのに1ヶ月半くらいかかったかな」という状態であった(「江東ふるさと文庫」江東区)。
 当時は降雨時の惨禍が頻発しており、この面からも下水改良の機運が高まっていた。

(4)東京市下水道設計の策定
 先行した上水改良が明治31年11月には大部分を竣工し、一部(神田区及び日本橋区)に通水したことを受け、明治32年〜37年にわたってあらためて下水改良に関する実施測量調査(資料収集、人口調査、測量など)が行われ、実施調査がほぼまとまった明治37年2月、市区改正委員会は、中島鋭治(東京帝国大学教授)に「東京市下水設計の調査」を委嘱し、明治40年3月、「東京市下水設計調査報告書」が提出された。
 それは、「計画人口は300万人で、排除方式は家庭雑排水、屎尿、雨水を1つの下水道管に流す合流式とし、3つの排水区【第一区(芝、麻布、赤坂、麹町、四谷、牛込、小石川、本郷、日本橋、京橋、神田の大部、下谷の一部)、第二区(下谷、浅草、神田の一部)、第三区(深川、本所)】に分け、第一区は芝浦ポンプ場より第七台場沖に送水し直接放流、第二区は三河島汚水処分工場で、第三区は砂町汚水処分工場でそれぞれセプチックタンク処理(腐敗槽の一種で、汚水中に存在する嫌気性菌の作用で汚水を分解させる処理法)を行う」と、するものである。
 合流式を採用した理由として、中島博士は次のように述べている。
@東京は降雨量が比較的多いが、これを完全に排除できる雨水渠が備わっていない。もし暗渠式の雨水渠を別につくるとしたら、現在の道路の狭さや路面下の先行施設の状況からみて容易なことではない。
A 広大な低湿地帯を抱える東京では、雨水排除の必要度が高く、これを早急かつ効率的に進める必要がある。
B 分流式に比べて合流式の方が、工事費を削減できる。
C 合流式は、降雨時に多量の雨水が流入するので自然に管内の清掃ができるほか、管径が大きいため検査や修繕などを容易に行うことができる。
 また当時は、屎尿は汲取られた後、周辺の農村に運搬されて肥料として利用されていたことに配慮しながらも、「屎尿を下水道に流入させることは外国では慣例になっているが、わが国では重要な肥料であり、従来から下水道に排除する習慣がなかった。しかし、時勢の推移にともない、近年は水洗便所を設置するところが増加する傾向にある。屎尿を下水道に収容しても、欧米の実例からも水質的に大差がないので、本計画においては収容してもよいものとする」と、している。
 この「東京市下水設計調査報告書」が、市区改正委員会(設計、財源、衛生の3部門の特別委員会を設ける)での検討を経て一部修正され、基本計画としての「東京市下水道設計」が告示されたのは、明治41年4月のことである。その骨子は、
@排除方式  合流式
A計画人口  300万人
B計画汚水量 1人1日平均6立方尺(約167m3)
C計画最大雨水量  1時間当たり1.25インチ(約31.7mm)
D排水区域  第一区:都心地域を対象
       第二区:下町地域を対象
       第三区:墨東地域を対象
E総排水区域面積  1,751万坪(約5,780ha)
F総管渠延長  45万4000間(約825Km)
G処分法・放流先 第一区:芝浦ポンプ場に集め、第七号台場沖に放流
         第二区:三河島汚水処分工場でセプチックタンク処理のうえ、隅田川に放流
         第三区:砂町汚水処分工場でセプチックタンク処理のうえ、中川に放流である。
 図− 東京市下水道設計図(略)

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(5)東京市下水道設計の一部変更
 この計画もいざ実施という段階で、またもや財政問題に悩まされた。東京市が要求して いた工事費に対する二分の一の国庫補助が三分の一に削られたうえ、下水道税をとったらとの意見もあったが実施に至らなかったからである。また、折からの打ち続く大雨による甚大な洪水の被害もあり、設計の変更を余儀なくされた。
 ときの市長・尾崎行雄の固い決意により、明治44年(1911)にようやく「東京市 役所内に下水改良事務所を設置し、下水改良に関する事務を開始する」ことを告示し、明治44年5月、「第一期下水道改良事業」として第二区の工事実施を決め、認可を申請した。
 しかしその直後、第二区全域にわたって改めて測量を実施するとともに、新たに「下水 改良工事顧問会」を設置(明治44年9月)し、「東京市下水道設計」に再検討が加えられることになった。大正元年11月に第二区下水改良工事設計原案の既定方針を変更し、大正2年5月に「東京市下水道設計」の変更を告示した。さらに、同年11月には既定計画変更案について内務・大蔵両大臣の認可を得ている。
 主な変更点は、次のとおりである。
@排除方式     一部地域を分流式とする
A計画最大降雨量(降雨強度) 31.7mm/時を50mm/時に改める
B汚水処分方式   撒水濾床法
 汚水処理方式は、セプチックタンク処理法から撒水濾床法(砕石を敷き詰めた濾床表面の好気性微生物の作用で汚水を分解する処理法)に変更された
C事業費      第一期工事の総事業費:680万円
D工期       第一期工事の工期:明治44年度〜大正7年度(8ヵ年)
 この変更に際しては、主任技師・米元晋一が明治44年8月から翌年8月まで海外に出張し入手した欧米諸国の下水道に関する最新情報が参考にされている。
 なお、下水改良事務所の所長は助役が兼務し、総務課と工務課が置かれ、明治45年8月には新庁舎も竣工した。
  写真− 下水改良事務所の全景(略)
  変更後の第二区の下水改良設計の詳細は、以下のとおりである(「第二区下水改良工事既定設計変更」(大正2年5月15日告示)の現代語訳)。
 区域 浅草区の大部分、下谷区、神田区の一部
 面積 約201万8,000坪
 下水道延長 約7万6,482間
 本区画は、上野台、本郷台付近と隅田川、神田川の沿岸以外の地域において概して卑湿を極めている。新堀川沿岸並びに千束町、光月町付近は殊に低い窪地である。したがって、既存の溝については勾配が緩やかで、雨水、汚水を排除する能力が不足するばかりでなく、洪水時には隅田川の水位が遥かに上昇して、その疎通能力を阻害するため、汚水は雨水とともに氾濫して衛生上の危害がはなはだしい状況にある。特に、下谷は藍染川の下流に位置し、郡部及び本郷、上野からの雨水が溢れその被害は少なくない。このため、不忍池から万世橋との間に内径10尺余の下水管を敷設し、藍染川及び本郷台から流下する雨水を神田川に放流する。さらに、上野山下から和泉橋との間に横径6尺・ 深さ4尺あるいは横径7尺5寸・深さ5尺5寸の矩形の暗渠を埋設して上野山内の雨水を神田川に放流する。
 本区画の下水排除方式は、地勢が比較的高い地域では多くは合流法とし、汚水並びに雨水を同一の管渠に導き、雨水は適所に雨水吐を設けて、直接河川や溝渠に放流する。地勢が低く合流法によっても雨水を直接河川、溝渠に放流できないばかりでなく、高潮時には河川水が下水管内逆流する恐れのあるところでは、分流法によって汚水と雨水を分離して、雨水はなるべく地表にそって排除する方法を講じる。
 汚水量は、本区画の人口を将来60万人と仮定して、1人1日平均6立方尺の半量を8時間で排泄するものとし、雨水量は1時間の最大降雨量を2インチとする。ただし、合流法により排水する区域では、雨水量が最大汚水量に達するまでは汚水と同一に処分する。
 仲御徒町、松永町から発生する汚水は、一旦、和泉町ポンプ場で揚水して、下谷二長町において合流枝線に収容する。汚水幹線は、下谷二長町を起点として、鳥越町、三筋町、入谷町、龍泉寺町等を経て枝線からの汚水を収容し、三河島汚水処分工場に達する。枝線は本幹線を中心として敷設すべき大小幾多の下水管からなり、全て暗渠とする。
 雨水は、上野山下から和泉橋の間の雨水吐ならびに隅田川、神田川及び山谷堀沿岸に設ける多数の雨水吐から放流する。その他は、南北に貫通する一条の雨水幹線によって排除する。つまり、本願寺付近で分水路を設け、これから以南の雨水は新堀川を改修して隅田川に放流し、分水路以北の雨水は、光月町に至るまでは在来溝渠を幅1間から3間に改修し、光月町から田町二丁目にかけては新たに幅4間の開渠を開削して、これにより山谷堀に放流する。また、山谷堀は雨水の疎通を改善するため、田町二丁目から吉野橋の間の幅員を5間に拡げる。さらに、開渠である北部雨水吐については、高潮時に河水の逆流を防止するため、田町二丁目付近に閘門を設置するとともに雨水排除のためのポンプを新設する。
 分流式の区域では、雨水については、上記の幹線雨水吐開渠を中心として大小幾多の溝渠によって放流する。これら全ての溝渠については、改修して有蓋そして有底の構造とする。最大の汚水管は、光月町から龍泉寺町三ノ輪を経て三河島に達する勾配1/2,000、内径9尺余の半円形幹線であって、三河島汚水処分工場の流入部の管底高は、霊岸島基点下約11尺である。三河島汚水処分工場では、汚水をポンプによって揚水し、沈澱池、濾過池を通過して、いわゆる黴菌的清浄法を行って衛生上の危害がないようにした後、隅田川に放流する。汚水処分工場の面積は約5万9,000坪でポンプ場、沈砂池、沈澱池及び濾過池を配置する。」
 本設計は、大正2年11月7日に内務・大蔵両大臣の認可を得、本格的に工事が開始されることとなった。同年12月25日には、下谷区龍泉寺町での浅草幹線および浅草区内での新堀南幹線の工事が着工されている。
 神田下水の中断以来、冬の時代を過ごさざるを得なかった東京の下水道は、ここにようやく長いトンネルを抜け、今日の下水道事業につながる大事業がスタートを切ることになった。明治22年(1889)7月に「東京市下水設計第一報告書」が東京市区改正委員長に提出されて以来、工事着手まで実に24年が経過したことになる。

(6)三河島汚水処分工場の用地買収
 三河島汚水処分工場の用地買収の経緯を語るものとして、「三河島町郷土史」に概ね次のようなことが記録されている。「東京市が処分工場用地として隅田川に面している土地を探していることを知った三河島村の地主62名が土地の買い上げ願いを東京市に提出している。明治42年(1909)3月のことで、時の市長は尾崎行雄である。同年3月20日に処分工場の敷地として、5万3,000坪の地域を決定した。ところが、これに対して当時の村長ほか有志は、この土地は村の中央部を東西に貫通し村内を分断しており、明らかに地元の発展を阻止するものであるとの説を起こし、地主諸氏と鳩首協議の結果、3月28日54名の連署をもって敷地の位置を変更してほしい旨の嘆願書を市に提出した。再検討の結果、現在の場所になった。」
 紆余曲折を経て大正3年1月に至り、三河島汚水処分工場用地 53,841坪、幹線埋設用 地 2,683坪を買収してようやく用地問題が最終的に終結した。
 写真− 三河島汚水処分工場の用地(略)
 用地問題も解決し、大正3年(1913)6月から三河島汚水処分工場の建設が始まった。

W. 活性汚泥法のいろいろ

1. 標準活性汚泥法

 活性汚泥中の多種多様の通性嫌気性細菌は、水中に遊離の酸素、亜硝酸性窒素、硝酸性窒素が混在した場合、優先的に遊離の酸素を利用して、下水中の有機物の酸化分解を行う。
 反応時間:6〜8時間。
 窒素の除去率:20〜40%(約30%)
        浮遊物(固形物)に含まれている有機性窒素分の沈殿による除去。
        さらに、有機性窒素がアンモニア性窒素に分解され、その一部は微生物の細胞になって余剰汚泥とともに除去されるが、大部分はアンモニア性窒素の形で放流水に残存。
 リンの除去率:10〜30%(約20%)
        浮遊物(固形物)に含まれているリン分の沈殿による除去。

2. 硝化脱窒法

 汚泥日令が長く、またBOD負荷が低くいと、水中の遊離の酸素を利用して、亜硝酸細菌や硝酸細菌の働きにより、アンモニア性窒素は亜硝酸性窒素に、さらに亜硝酸性窒素は硝酸性窒素にまで酸化される。
 また、水中に遊離の酸素はないが、亜硝酸性窒素や硝酸性窒素に含まれている結合型の酸素がある場合(これを無酸素状態という)、脱窒細菌がこれらの結合型の酸素を利用して、下水中の有機物を酸化分解する。亜硝酸性窒素や硝酸性窒素は還元されて不活性な窒素ガスとなる。
 このためには、生成した硝酸性窒素を含む混合液(硝化液)を脱窒槽に循環するプロセスが必要となる。
 反応時間:12〜16時間。
 窒素の除去率:60〜70%(約65%)

3. 生物学的脱リン法

 活性汚泥は、好気的条件下では、必要とされる以上のリンを微生物体内に取り込み、遊離の酸素だけでなく、結合型の酸素も存在しない嫌気的条件下では、その蓄積したリンを放出する。その速度は、活性汚泥中のリン濃度に比例する。
 反応時間:4時間。 
 リンの除去率:85〜95%(約90%)

4. 生物学的窒素・リン同時除去法(A2O法)

 流水下水と返送汚泥が、まず嫌気槽(遊離酸素も結合型酸素もない状態)に入り、リンの放出と有機物の摂取が行われる。
 次の無酸素槽には、好気槽から硝化された液が循環され、その中の亜硝酸性窒素や硝酸性窒素の結合型酸素が呼吸に使われ、脱窒が起きる。
 さらに、好気槽では有機物の酸化、リンの摂取、窒素の硝化が行われ、混合液の一部は無酸素槽へ循環される。
 本法は、同一の活性汚泥中に生育条件の異なる「リン蓄積菌」、「硝化菌」、「脱窒菌」が共存しており、この三者の機能をバランスよく発揮させる運転条件を設定することが必要となる。
 反応時間:16〜20時間

X.屎尿の処分と農地への施肥 

はじめに

 都市から発生する屎尿は、貴重な肥料として有価物として有料で汲取られていたが、大正の半ばに至り都市住民側が汲取り料金を支払うようになり、廃棄物視されるようになった。

屎尿の収集運搬

(1) 荷車(手車)
 この辺の若者は皆東京行をする。この辺の「東京行」は、直ちに「不浄取り」を意味する。荷馬車もあるが、九分九厘までは手車である。弱い者でも桶の四つは牽く。少し力がある者は六つ、甚だしいのは七つも八つも牽く。一桶の重量十六貫とすれば、六桶も牽けば百貫からの重荷だ。(「みみずのたはこと」徳富健二郎)
 明治末〜昭和初期の東京・世田谷でのはなし。

(2) 馬車、牛車
 (汚わい船が)着く岸の近くには、どこにも大抵肥溜が並んでいて、一旦そこに移された下肥を、農家の人たちが牛車や馬車で来て、肥担桶に詰めて買って行く。(「江戸川物語」伊藤晃)
 昭和14年頃の江戸川中流域でのはなし。

(3) 肥船
 私たちのヤマベ釣りの場所は、新河岸の汚わい船の着くところと決まっていた。ヤマベたちは、その船からこぼれる蛆を食いに寄っていたのである。(「江戸川物語」伊藤晃)
 この肥船は屎尿を直接船に入れて運ぶものですが、このほかに肥桶を載せるタイプもあった。

(4) 貨車
 東武伊勢崎線牛田駅の近くに引込み線をつくり、ここに屎尿の中継所を設け、木槽貨車に積み替え、中千住駅まで人力で移動させ、貨物列車に連結していました。運搬は夜間でした。(佐野丈夫談)
 昭和21年頃のはなし。

(5) トラック
 昭和27年頃、2トンのオート三輪車を買いました。肥桶を12本積むことができました。タイヤが小さいので、これ以上は無理でした。しばらく、荷馬車と併用しました。(高杉喜平談)
 桶を両側にぶら下げた天秤棒をかついで、トラックの荷台にさしかけた板を登っていくのはよほどの熟練が必要だった。(聞書き)

(6) バキュームカー
 昭和36年にバキュームカーを購入しました。値段が高くて(25万円程度)たいへんでした。その頃のホースは今みたいにビニール製でなく、ゴム製で重かったので肩に担いで運びました。(高杉喜平談)

屎尿の売買

(1) 農家が自家用に都会の屎尿を汲取り対価を払う(鎌倉時代から)
 小便桶二つと旬の野菜を盛った篭を担ぎ、おおっぴら声高らかに道を通行する賤夫がいる。……それぞれの家の夫婦や娘は、すぐにその声を聞き、家を出て小声で「小便」と呼ぶ。そしてまず、その交換する野菜の名をたずねる。その品が考えに合えば「入って尿を汲みなさい」と言う。……汲み終ると、大根何本、茄子何個、野菜何把と報告する。娘は詳しく尿の量と野菜の量がつり合っているかを調べ、もし多ければ当然異論はなく、もし少なければ「さらにもっと加えなさい」と言う。(「都繁昌記」森田英樹訳)
 江戸後期の京都でのはなし。

(2) 専門業者の出現(都会で屎尿を買い、農村まで運搬し販売する。江戸時代後期から大正前期まで)
 関東取締出役が、下肥商人が掃除代や下肥代を吊り上げていることに対してけしからんといっています。ここで掃除代というのは、下肥を汲取る時に家主に支払う代金のことです。下肥代というのは農家に売る時の値段です。……それぞれの下肥を荷揚げする河岸には、下肥売り捌き人がいて、これは農民と肥船の船頭との仲立ちをしている人ですが、どうも手数料を取っていたらしい。そういう人たちが戸田市域にも結構な数いました。(「戸田市郷土博物館資料」)
 幕末の埼玉県・戸田でのはなし。

(3) 屎尿を発生する側が汲取り料を支払う(農家、専門業者、自治体の三者が地域を分けて汲取りを実施。大正後期から)
 大正7年になると、屎尿の汲取りが停滞するようになります。そこで、東京市では市が直接、屎尿を汲取る事業を開始し、汲取り料金(大正9年では1荷(2桶)当たり10銭)を取ることにしました。(「下肥の流通と肥船」)
 大正14年当時の大阪市における屎尿の処分は、従来の汲取り便所から汲取り処分を行っているもの(市営5%、民間95%)と、水洗トイレを用い浄化槽で浄化してから下水に放流するものに大別されるが、大部分は汲取り処分である。(「本邦都市に於ける屎尿処分の現況と将来」藤原九十郎)

農地への施肥

 農地の横に設けた肥溜で汲取ってきた屎尿を腐熟させた後、畑や水田に施肥した。
 写真―1 農地への下肥の施肥(略)
 写真―2 肥溜(略)

(1) 江戸時代の農書
 佐藤信淵著「十字号糞培例」は、屎尿と他の肥料との調合の割合や施肥量や施肥方法を具体的に述べている。例えば、「馬糞3荷、草木灰3荷、獣肉腐汁3荷、酒粕5荷、人糞5荷、雨水30荷 以上をよく混ぜ合わせ、大きな桶の中で半月ほど熟して使う。この肥料は、痩せ地を肥やし、草木の生気をきわめてさかんにするには最も優れている」と。(「十字号糞培例に見る屎尿施肥」森田英樹)

(2) 東京東郊での事例
 東京東郊のデルタ地帯(足立、葛飾、江戸川)の農村には見るべき山林がほとんどなく、耕地の地味を維持するには河川や池の泥を使ったり、購入肥料に頼るほかなく、その一つが下肥であった。幸い、船による大量の下肥輸送が容易であったので、下肥をあらゆる作物に大量に利用した。稲単作ではなく、一年中様々な蔬菜を作る農業が展開された。それぞれの野菜(ねぎ、蓮根、きゅうり、なす、小松菜、大根、こかぶ、山東菜など)に応じてきめこまかな施肥が行われた。(「東京東郊の下肥利用の歴史」堀充宏)

(3) 川越近郊での事例
 私の村では、大正末期はまだ人糞肥料の時代で、水田には熟成させた後で使ったが、桑畑では穴を沢山掘ってそこにじかに投入した。桑三株に穴一つ、そこで熟成させる。茶畑でも同じです。一週間に十樽から二十樽は必要だった。金肥を買うだけでなくて、便所、風呂の排水、生ごみ、わら、牛馬の糞や敷わらなんかも全部有効に使用した。(「農民哀史から60年」渋谷定輔)

屎尿の投棄

 住宅地が郊外へ郊外へと進出して農地を減らす一方、最近は化学肥料が普及してきて、屎尿の需要が急激に減ってきました。全国の市町村は頭を痛めました。ここでは、やむをえず、野原に穴を掘って捨てています。ある所では、車で山の中へ運び捨てています。ある大都会では、膨大な量の屎尿がダルマ船に積まれて大川を下っていきます。行き着いた所はもう一段大きい船。屎尿が積み替えられています。やがて、船は黒潮が流れる外海に出ました。バルブがゆるめられます。屎尿が海中に流れ出します。(「映画・し尿のゆくえ」日本環境衛生協会)
 昭和30年頃の状況。

改良便所

 屎尿は貴重な肥料であって、我々は屎尿に対してむしろ或る親しみをさえ感ずるようにならされている。消化器伝染病と腸管寄生虫の伝播は、全く糞尿の媒介によって行われるものであるから、もし屎尿の始末がよく行われるならば、これらの疾病は根絶せしむることができるであろう。
 貯蔵能力が三ヶ月以上におよび、古い屎尿と新しい屎尿が混ざり合わないような構造とする必要がある。具体的には、第一室には上方から土管を通して屎尿が落され、それが次室から次室へと押し送られて遂に第五室へ溢れ出す。それまでに三ヶ月を経過する計算である。第五室の上壁に設けた汲取り口から随意に汲み出すものである。(「便所はどうすればよいか―都市の屎尿問題と改良便所―」高野六郎)
 戦中、戦後で約三万個が設置された。

屎尿処理の基本方針

 昭和31年に政府は、「屎尿処理基本対策要綱」を打ち出しました。陸上投棄や海洋投棄の原則的廃止、総水洗化を目標として、これを公共下水道、屎尿浄化槽、コミュニティプラント(住宅団地の汚水処理施設)により達成し、その間の汲取りトイレからの屎尿は「屎尿処理施設」により処理をするというものです。

屎尿処理施設での堆肥化

 屎尿を嫌気性処理した後に残る汚泥は、コンポスト(堆肥)化され農地に施肥された。

(1) 東京・砂町処理場での事例(昭和28〜57年)
 屎尿を密閉タンクに投入し37℃に加温し20日間滞留させ嫌気的に分解し、上澄み液は下水に混ぜて処理する。一方、沈殿した汚泥は天日乾燥し、野積み状態で好気的に有機物の分解をさらに進め堆肥化し、農家に販売した。堆肥化作業ならびに販売は民間企業に委託して行った。
 写真―3 天日乾燥(略)
 写真―4 堆肥化(略)
 納豆が大豆よりも、沢庵が生大根よりも、奈良漬が瓜よりも味が旨いのは発酵という過程を経て作られるからです。わが社のみやこ有機肥料は発酵浄化して作った有機肥料です。有機肥料は土の中で分解しながら、含まれている肥料成分が作物の生長に応じて効きすぎもなく、肥切れもせず徐々に効いていく、と同時に、土壌を団粒構造にして、作物の根を張りやすくする土壌改良の役目も併せて行います。・・・化学肥料万能の幣ようやく現れ始めた時に当たり、是非発酵有機肥料の長所を皆様の栽培技術の中にお取り入れ下さい。(「みやこ有機肥料」効能書き)
 「みやこ肥料」の主な用途は育苗用でした。化学肥料と違い、ハウスで育てている苗にガス障害が起きることがなく、施肥においても肥料の分量がアバウトであっても作物への影響が少ないという評価でした。言い換えると、作物にやさしく力強い丈夫な苗ができるということです。出荷先は、遠くは北海道、宮崎、高知から、近くは静岡、愛知まで広範囲にわたっていました。主にメロン、キュウリ、トマト、ピーマンなどのハウス園芸に用いられていました。
 農家では「みやこ肥料」のリン成分を重要視していました。屎尿汚泥堆肥に含まれているリン成分は、リン鉱石からつくる化学肥料のリンとは作物に与える効果が異なると評価していたのです。(内藤泰三談)

浄化槽

 浄化槽の設置基数は、平成14年3月現在、全国で882万基あり、そのうち約80%が(屎尿)単独処理浄化槽で705万基、残り20%が合併(屎尿+生活雑排水)処理浄化槽で176万基ある。
 単独処理浄化槽の場合は、生活雑排水が垂れ流されている状態にあるため、平成12年の「浄化槽法」の改正によって、新設時には合併処理浄化槽の設置が義務付けられ、既設の単独処理浄化槽の設置者も、合併処理浄化槽への設置替えに努力しなければならなくなった。

下水道への屎尿の排除と下水汚泥の堆肥化

 平成17年度末のデータによると、公共下水道を経由して屎尿を処理している割合は総人口の63.5%に達している。ちなみに、これに下水道類似施設(農漁村集落排水処理施設、合併処理浄化槽、住宅団地汚水処理施設など)を加えた汚水衛生処理率は、平成17年度末で74.5%である。
 屎尿・雑排水などの下水は活性汚泥という微生物群集の力を利用して処理しているが、この過程で有機物を多く含んだ汚泥が発生する。一部の地域では、下水汚泥を堆肥化した後、緑農地に施肥している。この近くでは、所沢、東松山、茂原、日立、甲府などがある。利用先は、農地、果樹園、牧草地から公園緑地、造園などで、販売形態も多様で自治体が直接農家へ供給するケースから農協、肥料組合、商社を通じて販売するケース、自治体自らが公園緑地で使用するケースなどがある。
 近年、取扱いやすい化学肥料の施用によって農業における生産性が著しく向上したが、一方で、地力の低下による連作障害や病害虫の発生がクローズアップされており、衰えた地力の増進を図るものとして下水汚泥などの有機質資材の重要性が注目されている。(「下水汚泥の農地・緑地利用マニュアル」下水汚泥資源利用協議会)

下水汚泥堆肥の実施例

(1) 天童
 消化汚泥を遠心脱水し、その全量をオガクズ添加による堆肥化を行い、市の農協を通じて販売している。一次発酵は竪型サイロ式、二次発酵は屋内堆積式である。
 図−1 竪型サイロ式(略)
 図−2 堆積式(略)
 写真―5 袋詰した下水汚泥の堆肥(略)
 施肥農家からの感想として、@土が軟らかになる A通気性が良くなる B保水性がよくなる C根の張り具合がよい D特に芝生等で、緑色が濃くあざやかになる Eミミズの発生が見られる などが寄せられている。(「有機性汚泥の緑農地利用」日本土壌肥料学会監修)

いらないものを活用する

 屎尿を農業に使うということに対する評価は二通りに分かれている。都市の屎尿を近郊農村が使うというシステムをリサイクルのさきがけとして高く評価する立場と、屎尿は寄生虫や不快害虫の温床となり伝染病などの原因となったということを主張する立場である。
 この二つの評価はどちらが正しいというものではなくそれぞれ事実であり、どちらにくみするかは価値観の違いとしか言いようがない。
 しかし現代社会に目を転じたとき、私たちが快適な生活を送るために膨大な食料や資源が廃棄物になって捨てられている現状がある。
 これから先わが国において、屎尿そのものを農業で活用することはないと思うが、その発想自体には大いに学ぶべき点があるのではないか。(「都市近郊農村の下肥利用」堀充宏)
 このような観点に立つと、現在、堆肥化した下水汚泥を農地へ施肥していることは、まさに昔行っていた「下肥の農地への施肥」のリバイバル版といえる。
参考文献
1) 日本下水文化研究会編 「トイレ考・屎尿考」 技報堂出版
2) 廃棄物学会・日本下水文化研究会編 「ごみの文化・屎尿の文化」 技報堂出版
3) 下水汚泥資源利用協議会編 「下水汚泥の農地・緑地利用マニュアル」 日本下水道協会
4)日本土壌肥料学会監修 「有機性汚泥の緑農地利用」博友社