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間取りからみたトイレの位置の変遷

地田 修一 氏

目次
1.はじめに
2.住宅
3.商家(複数のトイレ)
4 武家(上便所、下便所)
5.農家(外便所、軒下の便所)
6.おわりに




 「汲み取りタイプのトイレを家屋の中に置くのは、何故か?」という素朴な疑問を解決すべく、建築史の資料をひも解いてみた。「間取り図」を使って、庭に造られていた「外便所」がだんだん母屋に近づき、やがて廊下でつながるようになってきた流れをみることとする。また、併せてトイレにまつわるエピソードを適宜折り込んでみた。

キーワード;汲み取り便所、外便所、内便所、上便所、下便所、軒下の便所

1.はじめに

 尿と便とを便壷に半月から一ヶ月間溜め、業者に頼んで汲み取ってもらう 「汲み取り便所」が何故に狭い家屋の中に置かれたのだろうか。臭いがするのはともかくとして、蛆がわき、そこからハエが部屋に飛び立ち、あろうことか食べ物にたかると言った光景はつい最近までどこの家庭においても見られたものである。そのため、ハエ取りリボンが吊るされたり、ハエ叩きが用意されたり、食卓蝿帳が用いられたりした。その一方で、便所の床や壁の拭き掃除を、一家の主婦が一生懸命に丹精込めて行っていた。
 本発表では、汲み取り便所にまつわる生活実態を述べるとともに、間取り図をもとに時代をさかのぼり、母屋と便所とが離れていた頃まで辿ることにする。

2.住宅

2−1新しいタイプの長屋(完全な内便所)
 東京・港区の商家を中心にして、それを取り巻く職人、勤め人の賃貸の長屋が立ち並んでいた繁華な地域にあった、明治末から大正にかけて建てられた長屋における生活実態である。
 『住民の多くは職人的な人で、……。長屋の造りは平屋建てで、入ったところが土間と板の間で玄関と台所が一緒になっていて、座り流し、水瓶、竃が置かれて、その奥が2〜3室と押し入れ、手洗いが配置されていました。廃水は流しの直ぐ下に落ちて建物の外側に、建物の根太の下を通って側溝に入って流れていったようです。』……
  『便所は汲み取り便所で、使う紙は現在のようなトイレットペーパーではなく殆どの家では新聞の切ったのや「クロチリ」といって黒っぽい再生紙が大半で「白いチリガミ」を使うのは余ほどの家でした。汲み取りは昔は郊外の農家が集めにきたようですが、昭和の初め頃には東京市の清掃部門で大八車に肥樽を乗せて集めにきました。便所は殆どが裏側にありましたので人がやっと通れるぐらいの狭い幅ですから、空のときはまだ良いのですが荷を一杯入れたときは、相当苦労して運び出していました。汲み終わりますと「今日は1荷とか1荷半」とか言われ、買い置きして在った汲み取り券を渡しました。』(「昔の排水、昔の生活、昔の東京」(熊井知次 著、下水文化研究第1号、;日本下水文化研究会刊))。
 この長屋のトイレは、図−1の間取りからわかるように、完全な内便所である。居室とは廊下で仕切られているが、家屋に一体化された配置である。
 この形式は、江戸時代の武家の長屋(大名屋敷をとりまくように建てられた家臣団の住む長屋)にみられた、廊下で隔てられさらに板の間が突き出ていてその先にトイレを配置する形式(図−2)に似ているが、突き出し部分を省略し、トイレを家屋の中に押し込めたものとなっている。

2−2 一戸建て(庭に突き出たトイレ)
 昭和初頭の東京・葛飾区のある家での出来事である。
 『庭の裏木戸があいて誰かが入って来た。小母さんは又、口を袂で押さえて、「ほら、来た来た豊田さん、貞子も。早く早く」といって自分から先に家へ入ってしまった。私も何が何だかわからないで、小母さんの後につづいてお勝手から入った。小島さんがお勝手と廊下をしめた。小島さんに、「何あに」と聞くと、小島さんは、「おわい屋、おわい屋」と言って笑った。…… ガボッガボッとおわいを汲む音が聞こえる。……手拭でほおかむりをした、おわい屋さんは、天秤棒をキシキシいわせて、こい桶をかついで出て行くところだった。うす黄色い水が汲み取り口から、点々と三四ヶ所たれていた。小母さんは、「まあ、だらしのないおわい屋さん」と言ってまゆをしかめた。…… 小島さんは小声で、「家のお母さんとっても綺麗好きなのよ。だから、おわい屋さんやなんかきて、さわった所は皆ふかせるのよ」と壜の蓋をしながら言った。』
 この文は、「綴方教室」(豊田正子著、木鶏社刊)の「綺麗好き」の中の一節である。
 この家は、三間間口の庭つきの一戸建てで、玄関の土間を入り障子をあけると三畳の間があり、そこの襖をあけると床の間のある八畳の座敷がある。八畳の部屋から、杉に似た形の小さな木がたくさん植わっている庭が眺められて、ツルツルに光った廊下に床の間のそばの丸窓が、うすくうつっている。ここの主婦がお琴を習っていることからすると、やや裕福な家と思われる。作者も言っているが、この主婦は人並み外れた綺麗好きな人のようである。しかし、おわい屋さんに対する態度は一般にもこれと似たようなところがあったであろう。
 さて、この家の間取りであるが、図−3に近いのではないだろうか。
 この間取りは、官吏、教師、技術者などの中流の俸給生活者の典型的な住まいである。本質的には武家住宅の流れを受け継いだものであり、床の間を構えた格式的な間取りである。廊下を隔てて庭に突き出た先にトイレを配置している。手前が男の小便用、その奥に大便用がある。

2−3 古いタイプの長屋(共同便所(外便所))
 東京・墨田区・本所の江戸の雰囲気を残した長屋での話である。
 『(隅田川の)吾妻橋のたもとに、一銭蒸気の船着場がありました。…… この船着場の近くに「枳殻(からたち)寺という寺がありました。…… この寺の横丁から松倉町へ抜ける道を「咳のお婆さんの道」とも言ったらしいんです。…… 道の中ほどに提灯屋があって、その前の八百屋の路地を入ると、真ん中のドブをはさんで六軒ずつの九尺二間の長屋が向かい合っていて、突き当たりに井戸端があり、江戸時代の長屋の名残りをとどめていました。…… 何しろこの長屋は汚い見本のようでした。「雪隠」つまり便所ですが、六軒長屋の中ほどに二人分の大小便所があったんです。共同便所ですから朝晩は混み合って、娘なんか恥ずかしがって近所の厠を借りたんです。それに、汲取料を払わないから汚穢屋(おわいや)が来ません。汚物が便壷から溢れ出して、臭気が表通りまで匂うのです。この近くに酒井大学頭様のお屋敷があって、お屋敷まで臭うので、お留守居役が困って何度か包み金をお下げ渡しになったんです。それに味をしめて、長屋の連中は便所掃除もしないのです。私のおやじが怒りましてね、あんな者に金なんぞだすことはない…と言っていました。」(「本所どぶ板談義」(宮原秋男著、下町タイムス社刊))
 汲み取り料が取られたということからすると、大正の半ば以降の話であろう。この頃から大都市における屎尿処分の停滞が顕在化し社会問題となってくる。
 この長屋の間取りは、図−4(江戸の裏長屋)に類似していると思われる。大通りに囲まれた袋小路の裏町の住まいで、共同の井戸、共同便所(外便所)、芥溜めがあった。

図−1新しいタイプの長屋


図−2 江戸の武家の長屋


図−3 中流市民の一戸建て


図−4 江戸の裏長屋

3.商家(複数のトイレ)

 東京・中野駅に近い青梅街道から少し入った地域の商家での話である。第二次大戦で焼ける前の生活実態である。
 『今と違い従業員は住み込み制度で、…… この為台所や風呂付近の設備は一般家庭と異なり規模も大きく、使う水の量も馬鹿になりませんでした。……食事は主家の家族は奥の部屋で、従業員は隣の板の間で、箱膳を使ってとりました。』(「昔の排水、昔の生活、昔の東京」)
 このような裏通りに立地している商家は、江戸から戦前までほとんど 図−5 のような形式のものが多かった。ちなみに裏木戸は汲み取りのためにあった。奥の庭まで通しで続いている「通し庭」があり、奥にある部屋を囲むように廊下が続き、その突き当たりにトイレが配置されている。
 少し大きな商家になると、従業員のトイレと主家の家族が使うトイレが別々になっており、さらに、商品の出し入れなどで外で作業を行うことが多いところでは、内便所のほかに外便所を設けるところもあった。
 図−6は、埼玉・川越市の蔵造りの商家(元タバコ卸商)の昭和47年頃の間取りである。トイレは、玄関の脇(大便用)と奥座敷(8畳)の裏の廊下の先(小便用と大便用)とに内便所があり、さらに奥まった庭の先に外便所(小便用と大便用)が配置されている。

図−5 一般的な商家


図−6 蔵造りの商家

4 武家(上便所、下便所)

 先ほど一つの家屋にトイレを別々に二つ設ける例をあげたが、このような考え方のルーツは武家の時代になった鎌倉時代にまでさかのぼることができる。
 『(武家の住まいは、基本的に書院造りであり、)座敷には会所の役割が求められ、棚、床の間などが設置されるようになった。 …… また、部屋を細分化し、各部屋の機能を専門化し、便所も専用の部屋として位置づけられることになった。……間取りにも武家社会のモラル(家長絶対、男尊女卑)が持ち込まれた。……トイレも「上便所」 と「下便所」に分かれ、家長ならびに男の家族は「上便所」を、女性は主家の家族であっても通常、「下便所」を使うようしつけられた。また、屋敷内では、便所は廊下の一隅に造られるようになる。庭と便所とが連続していく第一歩となる。……やがて便所は座敷よりもむしろ廊下や庭とのつながりを深めていく。便所はやがて「離れの間」といった位置づけになる。』(「厠、便所、トイレの起源とは」(荒俣宏 著、日本トイレ博物誌、INAX刊)
 現在、愛知県犬山市にある明治村に移築されている「鴎外・漱石旧居」は、この形式の住宅である(図−7)。明治20年ごろ東京・文京区に建てられたもので、江戸以来の武家住宅をそのまま発展させたもので、大正の半ば頃まで、都市住宅の基本となっていた。

図−7 武家住宅の発展(鴎外漱石旧居)

5.農家(外便所、軒下の便所)

 長野県の北部の農家における、明治後半の生活実態である。
 『農家には、母屋の軒下の一隅に小便溜めがあり、大便所がその隣りにあって、土足で出入りできるようになっている。母屋のなかに設ける上便所や、独立して建てられた便所のある家は珍しかった。……便所から汲み取った下肥は、この仕入溜に入れ、水で稀釈して腐塾させる。使用するときは、汲み出し柄杓といって大きな柄杓で下肥桶に汲み取った。』(「農村生活カタログ」伊藤昌治著、農山漁村文化協会刊)
 ここでいう「独立して建てられた便所」とは、屋根のついたきちんとした外便所を指している。
 図−8は、母屋の中にトイレが配置されていない形式の農家の間取りである。農家建築の原型である。図には記載されていないが、便所は入口の左横の厩の前の軒下か、あるいは庭に別棟の外便所があったと考えられる。図−9は、中門造の農家で母屋の入口を入ったすぐ脇に内便所が配置され、その先の大戸を開けると土間がある。冬、雪の多い地方にみられる形式である。
 さらに、これら二つの中間的な形式として、入口の横の軒下に小便用の便所を置き、このほかに雨戸の外に、屋根をつけて母屋と密着させたトイレを配置したものがある。この離合、トイレに入るには一旦外に出てから行かなければならない。外梗所が限りなく母屋に近づいたものである(図−10参照)。

図−8 農家の原型


図−9 内便所をもつ農家


図−10 外便所を母屋に近づけた農家

6.おわりに

 日本古来の建築様式である農家建築では外便所や軒下の便所が一般的であり、家屋内に定置したトイレ(内便所)を設けるようになったのは武家建築においてトイレを専用の部屋として機能分化してからであろう。そして、廊下や土間により母屋から離されていたものが、敷地の制約等によりだんだん母屋との一体化が強まってきた。また、古いタイプの長屋の共同便所(外便所)は、昔、一軒一軒の家にはトイレがなく、野糞あるいは共同で使用する外便所での排便の風習にルーツがあると考えられる。


【参考文献】(本文中で明記したものを除く)
1)内田青蔵ら編著:図説・近代日本住宅史、鹿島出版会、2001
2)稲葉和也ら著:日本人のすまい、彰国社、昭和58
3)川島宙次:古代の伝承・民家の来た道、相模書房、平成4