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写真にみる黎明期の管渠工事

地田 修一 氏

(筆者紹介)
 地田 修一
 (ちだ しゅういち)

 昭和41年、東京都に入都、下水道局に。以後、各処理場に勤務し、平成4年技術開発課長、5年施設管理課長を経て、北部第一管理事務所長を最後に平成13年退職。現在 屎尿・下水研究会


目次
一枚の写真(H19/6)
写真からのメッセージ
下水改良事務所の設置
外神田界隈の賑わい
写真を見ながら(H19/8)
直営工事から請負工事へ

雨水吐き室の建設(大正9年)

一枚の写真

 上の写真は1920年(大正9年)に撮影された第二区第四分区の分水人孔を建設している工事写真である。
 手元にあるのは、引き伸ばした写真(26cm×21cm)を厚紙の台紙に貼り、工事件名と撮影年月日(大正9年3月5日)を毛筆で書き入れたものである。撮影者と同一人かは不詳であるが、写真を引き伸ばし毛筆書きの説明を加えた人の住所と名字がゴム印で押されている。
 工事現場のすぐ近くの商店の屋号を見ると、「木下運送店神田支店」とあり、また左奥にも「丸明運送店」と読める看板をかけた商店があることと工事件名から、外神田地区で行われた雨水吐き室の工事現場ではないかと思われる。

写真からのメッセージ

 @汚水管(手詰めコンクリート管)A越流堰 B雨水流出管 C木矢板(松材) D腹おこし材 E切ばり材 F雨水吐き室(分水人孔)の側壁(レンガ積み) Gスコップ H埋設管(水道管) Iトロッコのレール Jトロッコ(掘削土の運搬用) Iトロッコ(資材の運搬用) Q運送店(屋根は瓦ぶき。看板に合資会社とみえる。一階、二階ともにガラス戸で明かり取りがある) M倉庫(窓が小さくレンガ積み。換気用の煙突がみえる) O旅館風の建物(二階の真ん中にガラスをはめ込んだ障子戸。屋号を刻んだ大きな厚い看板がみえる) O運送店(丸明運送店と書いた屋号が読める)S商店(屋号が「株式会社」まで読める) Q電信柱 I電信柱(「五一丁…」という字が読める) S電信柱(四つの金具がみえる) 大八車(資材の運搬用) S印半天(羽織に似ているが、丈が短く襟の折り返しがなく腰紐もない和服。仕事着や防寒服として使用。世話役か鳶と思われる) S学生服風の上着(役所の人と思われる)ニッカボッカ風の背広とチョッキ(役所の人と思われる) S腹がけと作業着(腹がけには一種のポケットがついている。上衣は福袢(じゅばん)、下表は股引と脚絆) Sハンチング(鳥打帽。前ひさしのついた平たい帽子。親方と思われる) 薗折れ帽(ソフト帽。当時は男性の日常用。フェルト製で山の中央に折り癖をつけてある)S脚絆(ズボンの上から巻きつけている帯状の布。屋外労働用や防寒用に使用) S地下足袋(作業用の足袋。底部と指部をゴム引きにしたもの。明治中期より普及) S登山帽風の帽子丁稚(でっち。職人や商家に10歳ぐらいから年季奉公し、雑役などを行った年少の使用人。素足に下駄を履いている) S和風の防寒コート(ハンチングをかぶり防寒コートを着用。通りがかりの人)

下水改良事務所の設置

 明治44年6月、東京市役所に下水改良事務所が設けられ本格的に近代下水道の建設が進められた。「第一期下水道改良工事」が下谷区、浅草区(ともに現在の台東区)の大部分と神田区(現在の千代田区の一部)の外神田地区を含む第二区から着工され、大正12年に完成している。この時、田町ポンプ所(浅草区田町。雨水ポンプ所)、和泉町ポンプ所(神田区神田和泉町。合流ポンプ所)及び三河島処理場(北豊島郡三河島町)ができた。
 和泉町ポンプ所で御徒町以西の外神田地区から来る下水をいったん幹線に汲み上げここから先は自然流下で三河島処理場にまで導水し、一方、一定量以上の雨水は所々に設けた雨水吐きから河川に放流するものであった。第二区内の雨水放流管(開渠または埋設管)は大きく分けて四系統あり、その吐き口は神田川の万世橋付近、和泉橋付近、隅田川の両国橋付近ならびに山谷堀にあった。

神田川への雨水吐き口(和泉橋横)

 なお、この下水改良事務所は、大正3年12月臨時下水改良課に、さらに大正10年5月土木局下水課に改組・拡充されている。

和泉町ポンプ所

 和泉町ポンプ所は大正11年8月に、田町ポンプ所は同年11月にそれぞれ竣工している。前者は今日でも現役として立派に稼動しているが、後者は残念ながら関東大震災(大正12年)で全焼してしまい、その後再建されたが、名称は日本堤ポンプ所に変わった。
 この他に、江戸時代から続く在来の下水溝渠(多くは開渠)の不備な箇所や雨水氾濫の激しい地域を対象とした「下水渠一部速成工事」が大正3年から9年にかけて実施されたが、この中に外神田地区内の万世橋下水渠が含まれていた。

外神田界隈の賑わい

 江戸時代から、日本橋へと続く通り町筋(現在の中央通り)をはさんだ神田の町々と、神田川の対岸の佐久間河岸を中心とする外神田の町々は、ともに町人の居住地区であった。
 神田には各種の職人が住み、また外神田は舟運を利用した物資の集散地であった。
 ところで神田川の下流は、人工の川である。江戸時代の初期に、平川(現在の日本橋川)の途中を一部埋め立てるとともに、そこから三崎橋、水道橋、万世橋、和泉橋、浅草橋を経て隅田川に至る運河を新しく堀り割ったものである。この結果、平川の上流をはじめ谷端川、小石川、谷田川などの自然河川は新しくできた神田川に吸収された。お茶ノ水駅辺りでみられるように台地を切り通しているが、この時発生した掘削土は神田川右岸の土手の構築に使われた。

日露戦争期の漫画と大正前期の漫画より庶民の姿

 以後、大雨で神田川が氾濫した時には、堤防の低い左岸に当たる今の後楽園や秋葉原駅辺りが頻繁に洪水に襲われることになった。このことは、1903年(明治36年)に平川中流の元来の水路を復活させ、神田川とつなげバイパス機能をもたせるようになるまで続いた。神田区内に最初の駅がつくられたのは明治23年で、上野駅から貨物業務を分離した形で新設された秋葉原貨物駅がそれである。外神田地区は明治時代に入ってからも利根川水系の舟運関連の河岸の一つとして流通センターを形成していたが、この鉄道の乗り入れやその後の青物市場の進出により、その役割を大きく増大させることになった。こうして多くの問屋と運送店がこの界隈に立地するようになったのである。

写真を見ながら

 「これは貴重な写真ですね。河村という名の印が押してありますが、この方は昭和24年頃には第三下水出張所におられました。この写真は外神田、のようですので、そうだとすると第一下水出張所の管轄です。

建設中のレンガ積みの半円形管

 当時(大正9年)は、役所の人が設計し、労務者に直接指示を与え工事を進めていたと思います。山留めのやり方や労務者の服装は、私が現場で工事を監督していた昭和24年頃の直営工事と似ています。
 相当地盤が良いところですね。矢板がとびとびにしか打ってありませんし、腹おこしを押さえている切ぼりも電信柱より細いです。このように家屋が密集している所で、このやり方を選択したということは、よほど地山が良かったのでしょう。昔の木造家屋は地盤がちょっと引っぱられただけでガタガタになってしまいましたから。

レンガ積みの円形管)

 分水人孔(雨水吐き室)の側壁はレンガで造ってありますが、一般にレンガ造りは非常に頑丈に施工されていて壊すのが大変なんです。おそらくこれもこのままの形で今も健在なのではないでしょうか。分水人孔は地上にはマンホールがあるだけですが、中はこのような大きな部屋になっているのです。」
 「見たところ土被りは1mくらいしかありませんね。昔は深い所に管渠を増設することはそんなにありませんでした。右手前の埋設管に人が四人乗っていますが、これはたぶん水道管でしよう。
 左手の箱型のトロッコは掘削土を近くの空地にまで運搬するためのもので、右手のは工事用の資材を運ぶためのものです。この当時は、いわゆるネコ車と呼ばれる一輪車は使われていませんでした。

レンガ積みの卵形管(神田下水

 スコップが右手前に写っていますが、掘削はこれを使っての人力でした。昭和30年頃までは、地表から15mくらいまでの深さならば、芋掘りの開削工事で行いました。ベルトコンベヤーはあまり使わず、作業員がスコップで段跳(だんばね)と呼ばれた中間ステージに一旦上げ、これを何回か繰り返して掘削土を地上に上げました。一回で2mくらい上げました。
 河川を横断する工事も開削工法でした。船が通ったり雨が降ったりするので、川を半分づつ締め切って掘削していく方法がとられました。」

完成したレンガ籍みの分水人孔(雨水叶き室)

 「手詰め管は、財務局直営の月島製管工場(現在の中央区勝どき五丁目、大正2年操業開始)で作り、支給材として施工業者に渡していました。木の型枠を縦にして、これにモルタルやコンクリートを詰め込んで作りました。鉄筋は日本製鉄など三社のものが使われました。モルタル管は内径530〜757mmまでの四種類が、また、鉄筋コンクリート管は内径909〜1363mmまでの5種類が作られていました。現場で目地と目地との間隔が1mの管をみたら、手詰め管だと思って間違いないです。
 手詰め鉄筋コンクリート管が出現すると、モルタル管は次第にその使用率が低下していきました。  やがて昭和の始め頃からは、民間の製管会社による手詰め鉄筋コンクリート管の製造販売もされるようになりました。

製管工場

 陶管の下水道への使用は、神田下水の建設(明治17年着工)からですが、昭和10年頃では内径230mm、300mm、380mmの陶管を枝線に使っていました。陶管の製造会社は、愛知県に集中していました。」

手詰め管の型枠

直営工事から請負工事へ

 「私が東京市役所に入ったのは昭和15年です。工手(こうて)として水道局下水課設計掛勤務となりました。当時の設計担当者は技手(ぎて)で、その下に雇、工手がいて三名でチームを組んでいました。初めての仕事は、江東区内の砂幹線の測量の手元(箱尺を立てるなどの助手的な役割)でした。
 昭和24年に第三下水出張所勤務となり、仲居堀幹線の工事現場に配属され直営工事の監督に携わるようになりました。担当員は技手で、その下に事務職員、工手、人夫、工員などが数名いました。この地域は地盤が悪く木製の矢板では土留めがきかないので、シートパイルを打ちましたが、それでも地山が崩れてひどい目にあったことがあります。
 下水道工事が直営から請負に変わったのは、昭和20年代の後半からです。しかし、当初の請負は、役所の担当者が地元説明、施工法、竣工検査の書類作成、受検方法さらにはその後の処置法まで指導しなければ工事がスムーズに進捗しませんでした。今では請負者が全部やっていますが、その頃はまだ役所が骨を折っていたのです。
 本当に請負者が力をつけてきたのは、東京オリンピックの後からです。そして次の段階として、責任施工制が導入されました。もっともこの制度の導入は、下水道局の工事発注量が多くなり、局の職員だけでは工事監督をまかないきれなくなったことも背景にあります。」
             (完)

【参考資料】
1.東京市下水道沿革史 東京市下水改良事務所(大正3年)
2.江戸・東京の下水道のはなし 東京下水道史探訪会編 技報堂出版(1995年)
3.情報提供 塙亀吉、中島永次、田淵寅造