屎尿・下水研究会

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下水道かいわい記 (2023/06/27)

地田 修一 氏
第8回 里帰りした桜が咲く宮城かいわい
第7回 啄木ゆかりの湯島かいわい
第6回 用水の流れ息づく日野かいわい
第5回 桜草が自生していた浮間かいわい
第4回 鮎漁場のあった立川かいわい
第3回 鉱泉場として賑わった森ヶ崎かいわい
第2回 防火守護地碑の建つ神田和泉町かいわい
第1回 鶴の舞う田んぼだった三河島かいわい
 

里帰りした桜が咲く宮城かいわい

 みやぎ水再生センター(足立区宮城(みやぎ)2−1)から歩いて5分ほどの宮城小学校の隣に南宮城公園があります。公園の名前は、かつてこの地が南宮城町であったことの名残りです。この公園の一画に、直径20cmほどの桜の木が一本立っています。説明版に『アメリカ・ワシントンのポトマック河畔に植えられている日本から贈った桜の枝から取り木した、いわゆる里帰りした桜です』とあります。
 明治45年3月にワシントンへ贈った桜の苗木は、このすぐ近くにあった荒川堤(現在の江北橋左岸辺り)で一時育てられていたものです。ところが肝心の本家の荒川堤の桜はその後の荒川放水路開削工事や戦争で衰退してしまい、昭和56年に苗木3千本がワシントンから逆に寄贈されたのです。実は昭和27年にも「里帰り桜」が実施されたのですが、この時は自動車排ガスの影響を受けて上手く育ちませんでした。ここにあるのは2回目の里帰り桜です。
 わが国がアメリカに贈った桜について、『ポトマックの桜物語』(外崎克久、鳥影社)は『明治43年4月、尾崎(行雄)市長によって召集された東京参事会は、躊躇なく再度の桜寄贈を決定した。(中略)苗木栽培の大作戦が開始されると同時に、59種類の中から厳選して11種類の桜を千住・江北村の荒川堤に植えた。そこは関東でも桜名所として知られた場所である。(中略)昨年(明治43)師走、これらの品種から接穂一万本以上を採取して興津試験地(静岡県)へ移送し、全ての接穂に青酸ガス薫蒸法で防虫処理を施した上、日陰の乾燥した土の中に貯蔵した。そして、台木へ接ぐ好期となった今年(明治44)の2月、接穂を掘り起こし、接ぎ木を完了している』と、その経過を詳細に述べています。
 荒川堤は昭和初期まで「荒川の五色桜」と呼ばれる桜の名所でした。最盛期は明治末から大正にかけてです。多くの乗合船が出、堤の両脇には200人ほども入る掛茶屋が何軒もでき、あふれた人は土手下の民家から畑、空き地に至るまで−一杯になって、花見を楽しんだそうです。その賑わいに、地元も経済的におおいに潤ったとのこと。
 ところで宮城と云う地名の謂れについてですが、戦国時代から「武蔵国足立郡宮城」は存在していました。この地を所領していた戦国武将・宮城氏に因むものです。宮城氏の出自をさかのぼりますと、御家人として鎌倉幕府に仕えていた奥州・宮城氏(現在の宮城県仙台市付近が本拠地)に行きつきます。この地を支配するようになったのは、武蔵国の名族・豊島氏との婚姻関係にあります。
              (文:立川 玉水)



昔の荒川五色桜の花見(出典∴モノクロ写真に彩色を施した絵葉書)


みやぎ水再生センターと江北橋の桜をあしらったレリーフ

みやぎ水再生センターは、JR王子駅で都営バスに乗換え「宮城2目」下車 徒歩5分です。





啄木ゆかりの湯島かいわい

 湯島ポンプ所(文京区湯島4−6)は、切通公園内にある地下式ポンプ所(昭和44年運転開始)です。地上に見えているのは入口のある建屋と通風口のある建屋とで、ともにごく小さなものです。当初は有人でしたが、現在は蔵前ポンプ所(台東区所在)から遠隔制御運転されています。近くには、旧岩崎邸庭園や湯島天神があります。  切通公園と湯島天神の北裏とを隔てているのが春日通りです。新しく切り開かれてできた坂であることから、切通坂と称されました。初めは急な石ころ道でしたが、明治37年に上野広小路と本郷3丁目間に市電が開通したことにより、ゆるやかになりました。
 映画『湯島の白梅』【原作は『婦(おんな)系図』(泉鏡花、明治40年)】の主題歌(作詞:佐伯孝夫、作曲:清水保雄、唄:小畑実・藤原亮子)が昭和17年にレコーディングされ、この坂の名前は全国的に知られるようになりました。その3番の歌詞〈青い瓦斯燈 境内を出れば 本郷切通し あかぬ別れの 中空に 鐘は墨絵の 上野山〉は、切通坂の上から不忍池方面を俯瞰した眺めです。
 薄命の歌人・石川啄木が、この坂を通うようになったのは明治42年3月からです。本郷3丁目交差点近くの理髪店「喜之床(きのとこ)」の2階を一家で間借りし、銀座にあった朝日新聞社に校正係として勤める生活が2年2ヶ月続きました(啄木24〜26歳)。帰宅は、銀座から市電に乗り上野広小路で乗り換えて本郷3丁目で下車。ところが夜勤の晩には、終電で上野広小路まで来ると、本郷3丁目行きの電車はもう終わっていることもしばしば。そんな折りは暗い切通坂を、湯島天神の石垣をまさぐりながら、いろいろな思いを抱いて上ったことでしょう。
 没後出版された啄木の第2歌集『悲しき玩具』に、切通坂にまつわるこんな2首が収められています。「途中にて乗換の電車なくなりしに、泣かうかと思ひき。雨も降りてゐき。」、「二晩おきに、夜の一時頃に切通の坂を上りしも− 勤めなればかな。」。また、明治43年の処女歌集『一握の砂』に、「
ふるさとの靴なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく」との、上野駅を詠んだと思われる一首もあります。
 この頃の啄木は質屋通いをしたり、知人・友人から借金を重ねていました。近くの菊坂通りにあった松坂屋質店にも通っていたそうです。こんなエピソードも。「私は知らないけど従兄が石川啄木に英語をならったって言ってましたよ。(中略)啄木は質を入れに来て、客が立て混んだりしていると、中学生だった従兄に英語の復習なんかしてくれたそうですよ。そうすりゃア質値も上がるってもんでさア」【『大正・本郷の子』(玉川一郎、青蛙房)】。
               (文:立川 玉水)



博物館明冶村に移築保存された「喜之床」 (「新潮日本文学アルバム−6』、新潮社)


切通坂と天神裏

湯島ポンプ所は、東京メトロ千代田線「湯島」駅下車 線歩5分です。





用水の流れ息づく日野かいわい

 浅川水再生センター(日野市石田)の界隈には、かつて多くの農業用水が縦横に流れていました。地元の方がこんな思い出話を語っています。『用水堀の堀さらいも大切な仕事であった。これもすべて共同で行われた。用水堀にはいって探い所では腰までつかりながら、土手の草刈りや伸びた樹下の枝を払い、ゴミや泥土を土揚げにさらいあげて、水の流れをよくした』。【『日野市史別巻・市史余話』(日野市史編さん委員会、平成2年)】。現在では、用水堀に潅漑だけでなく景観・環境などの多様な価値を見い出し、向島用水親水路のように水車や遊歩道を整備し、市の「緑と清流」課が管理しているところもあります。
 浅川水再生センター(平成4年運転開始)では、せせらぎを配した「みなみぼり遊歩道」を整備し、一般に開放しています。高度に処理した再生水を、このせせらぎに流しています。近くの多摩川や浅川の自然と相まって、トンボなどの生き物が生存できるビオトープとなることを期待して造られたものです。歩道、腰掛などには下水汚泥をリサイクルしたメトロレンガがふんだんに使われています。また、太陽光や風力の自然エネルギーを利用した照明も設置されています。さらに、地中から心地よい音色を奏でる「水琴窟」が設えられています。
 『水琴窟探訪』(中村隆一、屎尿・下水研究会文化資料−2、平成21年)に、ここの水琴窟が紹介されています。『水琴窟の音は、(土中の)伏せられた瓶の中に溜まった水の面に衝突した水滴が発する音が内側で共鳴して、水門から甲高い響きになって出てくるわけです。(中略)とりとめがないというか、予測不可能な余韻に満ちた音こそ水琴窟の妙味なのです』と、水琴窟の仕組みについて解説したうえで、次のようにそのロケーションを描写しています。『ビオトープ空間の先は一転して日本庭園になっています。(中略)ビオトープが柳の木で遮られ、そこからは長方形の敷石がつづき、やがて丸みのある飛石になっています。盛り土されて少し傾斜した飛石道を上っていくと手水鉢(蹲踞(つくばい))があり、玉石を囲んで投石、竹製の鑓水(筧)が配置され、そのうしろに景石がズシリと置かれています。さらに細く真っ直ぐに伸びた四、五本の北山杉が全体の景観を引き締めています。これこそ典型的な日本庭園の水琴窟です』。「みなみぼり遊歩道」は水再生センターの敷地とは切り離されたエリアですので、ぜひ見学(開放時間:4〜10月は9〜19時、11〜3月は9〜17時)され、水琴窟の〈ピン、チン、チンチロピン、ピンポンピン〉という幽かな滴り音を堪能されることをお勧めします。
                (文:立川玉水)



用水堀の堀さらい【『水の郷 日野』(鹿島出版会−2010)】


浅川水再生センターと水琴窟のある「みなみぼり遊歩道」

浅川水再生センターは、多摩都市モノレール「万願寺」駅下車、徒歩10分です。





桜草が自生していた浮間かいわい

浮間水再生センターは、平成13年に運転を開始した、23区内にある13箇所の水再生センターのうち最も新しい施設です。この界隈はかつて、荒川沿いに広がる浮間ヶ原と呼ばれる葦原でした。春になると、屋根やヨシズの材料として冬に刈り取られた葦の根元で、桜草の群落が咲き乱れ、江戸時代から桜草見の名所として知られていました。
 小説『田舎教師』、『蒲団』などの作品がある田山花袋は、紀行文『東京近郊 一日の行楽』(博文館、大正12年)の中で、『浮間ヶ原は桜草の名所だ。そこに行くには、赤羽で下りて、工兵大隊の坂を上って、大袋村から、浮間の渡をわたる。停車場から十八町。(中略)あたりがぱっとひらけて、水の溶々として碧を湛えて流れるさまや、地平線がひろく見渡されているさまや、田や畠の遠く連っているさまなどが人の目を惹く。(中略)川を渡ると、浮間ヶ原である。一面、桜草で、丁度毛氈でも敷いたようである』と、この地を紹介しています。枯れ草のなくなった明るい早春の2〜3月に、桜草は芽を出し4月にいっせいに赤や白の花を咲かせます。夏になると、地上部は枯れ根茎だけになり、芽を出す準備をしながら次の春を待つのです。
 埼京線浮間舟渡駅の北側に浮間公園が広がっています。旧荒川の流れの一部である浮間ヶ池とその周辺を整備したものです。魚釣り、バードウオッチング、散策の場となっており、運動施設もあります。この公園の一画に「桜草圃場」があります。
 昭和初期に行われた荒川の改修・築堤工事や湿地の埋立てや工場の誘致などにより自然環境が激変し、浮間ヶ原に自生していた桜草は衰退の一途を辿りました。わずかに残っていた桜草を地元の愛好家が庭先でほそぼそと栽培していたそうです。この貴重な桜草を後世に残そうと、昭和37年に「浮間ヶ原桜草保存会」が結成されました。会員たちの心を込めた「桜草圃場」での栽培作業が実り、株数が徐々に増えていきました。圃場はその後拡張され、自然のままとは言いがたいですが、浮間ヶ原の風情がよみがえりました。毎年4月中旬〜下旬の開花期には一般に公開されています。
 荒川の高い堤防に上り浮間界隈を眺めると、モクモクと煙を吐いていた煙突は工場の移転によりめっきり減り、それらの跡地には高層マンションが林立しています。東北・上越新幹線と埼京線の高架が荒川と新河岸川との間をうねるように走っています。駅舎のすぐ向こうに見え隠れしているのが浮間水再生センター。手前の広い水辺が浮間公園。ともに、この地域の水環境を支えるシンボルとして定着していくことでしょう。
               (文:立川 玉水)



尾久原桜草(出典:江戸名所花暦、八坂書房)


旧荒川の流れの一部である浮間ヶ池

浮間水再生センターは、JR埼京線「浮間舟渡」駅下車、徒歩5分です。





鮎漁場のあった立川かいわい

 流域下水道の下水道幹線や7箇所の水再生センターを束ねている流域下水道本部(立川市錦町)から南に1kmほどで、多摩地域の母なる川・多摩川に至ります。ここでとれる鮎は、江戸時代には将軍家へ献上されるほど有名でした。明治22年に鉄道が通ってからは、昼間、屋形船を浮かべて徒歩(かち)鵜飼(鵜とともに鵜匠が川に入って漁をする)を楽しみながら、とれたての鮎を賞味する行楽が流行り、大勢の人々が立川にやって来るようになりました。
 日本画・「多摩川河畔丸芝鮎漁場」は『立川村十二景』(立川市重要文化財)のうちの1枚で、駅前で旅人宿を営む馬場吉蔵が描いた明治36年頃の多摩川縁の一景です。遠くに見えるのは甲武鉄道(現JR中央線)の鉄橋です。手前の休み処は増水すると流されてしまうので仮造りです。本格建築の母屋は、土手によって護られている処【現在の錦町下水処理場(立川市が管理)付近】に建てられていました。調理した鮨料理を「おかもち」に入れて屋形船に運ぶ人が見え、休み処の前には魚篭(びく)が置かれ、まな板の上で鮎をさばいています。その横では、折しも鵜匠が篭から鵜を出そうとしています。この二人の会話が気にかかるのか、お盆に酒の徳利を載せた店の女が振り返っています。
 『多摩川中流域の漁労具』(安斎忠雄、立川市教育委員会)の中で、郷土史家の三田鶴吉は『川に入ると、川底の砂利や足の先が透き通ってはっきり見えました。(中略)魚が体中ところかまわず突っつくので、とてもくすぐったくて入っていられなかったことがあります』と、かつての多摩川の豊かさを語っています。こうした多摩川の鮎漁は昭和10年頃まで続きました。
 ちなみに、東京湾育ちの若鮎の多摩川への遡上は、昭和58年が18万匹だったのに対し、『平成23年には前年比約4倍の783万匹にまで急増した。24年は調査以来最高となる1194万匹を記録し、25年には645万匹、26年には541万匹』(産経新聞、平成27年6月12日付)と、多摩川の水質が改善されたことを反映して復活しつつあります。
 この鮎漁場の近くで、かつて甲州街道が多摩川を渡っていました。渡河は渡し船か簡単な木橋に頼っていましたが、大正15年に鉄筋コンクリートの日野橋がやや下流に架けられ、街道のルートが変更されました。錦町下水処理場正門前の行止りの小道が往時の旧道で、道端にひっそりと建っている「日野の渡し碑」によって、わずかにそれと知ることができます。
               (文:立川 玉水)



多摩川河畔丸芝鮎漁場(出典:今昔写真集たちかわ、立川市教育委員会)


錦町下水処理場と日野の渡し碑

流域下水道本部は、JR中央線「立川」駅南口下車、徒歩5分です。





鉱泉場として賑わった森ヶ崎かいわい

 森ヶ崎バス停のすぐ近くにある大森寺(大田区大森南5−1−2)は、慶応4年の「船橋の戦」に敗れこの海岸に流れ着いた幕臣の遺骸を葬った処と伝えられています。明治32年のこと、付近の農民が潅漑用水を兼ねて参拝者用の手洗水を得ようと、この寺の一角に井戸を掘ったところ、鉱泉が湧き出しました。その後10年ほどで、この森ヶ崎界隈は鉱泉場としての体裁を整えるようになり、鉱泉病院も開設されました。明治末から大正・昭和初期にかけて、森ヶ崎鉱泉場は東京近郊の保養地、湯治場として栄えていきました。
 森ヶ崎水再生センター(昭和42年処理開始)の正門・本館の辺りに、かつて鉱泉旅館「大金」がありました。創業者が出版社専属の車屋であったこともあり、多くの文士が原稿を書くために、ここ森ヶ崎に長期間逗留するようになりました。
v  尾崎士郎もその一人で、代表作である 『人生劇場・青春編』(昭和8年から都新聞に連載)の後半部分はここで執筆しています。後年、尾崎は『京浜国道』(昭和32年朝日新聞社刊)で、『梅にそって防波堤があり、その前に大きな養魚場があった。周岡はことごとくポプラの林にかこまれて、五十軒にあまる鉱泉旅館が堂々たる構えをつらねている。(中略)雑木の繁みから風をつたって三味線の爪弾きの音が聞こえてきたり、竹薮の中のほそ道から湯道具を抱えた若い芸妓のなまめかしい姿がちらちらとうかびあがるようになった』と、最盛期の頃をなつかしんでいます。
 しかし、昭和10年を過ぎる頃から戦争の影が色濃くなり、客足は遠のいていきました。尾崎は戦後間もない様子を書き残しています。『ああ、森ヶ崎−数々ののびやかなバカバカしく楽しい思い出を残しているこの一郭は今や、あとかたもなく私たちの視野の外に没し去った。(中略)空襲の被害だけは辛うじてまぬがれたものの、戦争中、軍需工場の工員宿舎にあてられていた鉱泉宿は(中略)寄合住宅に変わり、(中略)昔なつかしいポプラの並木は一本残らず切りとられ(中略)昔の養魚場(筆者注 昭和17年に休止)は、半ばちかく塵埃によってうずめられ、原形だけはわずかに残しているとはいうものの、葦の繁みに鳴く、よし切りのひそやかな風情なぞは想像すべくもない』。
 ここに出てくる「養魚場」は、現在では森ヶ崎水再生センターの西処理施設及び隣接する中学校に代わっています。
               (文:立川 玉水)



森ヶ崎案内略図(出典:森ヶ崎八景絵葉書−大正末〜昭和初期発行−の袋)


森ヶ崎水再生センターと森ヶ崎バス停

森ヶ崎水再生センターは、JR京浜東北線「大森」駅から森ヶ崎(東京労災病院前」行きの京浜急行バスで終点下車、徒歩1分です。





防火守護地碑の建つ神田和泉町かいわい

秋葉原駅で降り昭和通りを渡って上野方面へ少し行き、千代田区と台東区との区境になっている通りに入ると、ほどなくして右手に煉瓦塀で囲まれたこじんまりとした建物が見えてきます。和泉町ポンプ所です。竣工は大正11年、今なお現役です。
 大正12年9月1日昼少し前に起きた関東大震災により、東京の市街地は見渡す限り焼け野原になってしまいました。その中に不思議にもぽっかりと焼け残った一画がありました。それがここ和泉町ポンプ所の界隈です。  近くの和泉公園に「防火守護地」なる石碑が。以前は隣接する小学校内に置かれていたそうです。刻まれた碑文に『この付近一帯は…関東大震災のときに町の人が一致協力して防火に努めたので出火をまぬかれました その町名は次の通りであります 佐久間町二丁目 三丁目 四丁目 平河町 練塀町 和泉町 東神田三丁目 佐久間町一丁目の一部 松永町の一部御徒町一丁目の一部』 と、あります。
 町内の人たちの消火活動の一部始終を、「おはなし千代田」(千代田区、平成元年)は『地震の約四時間後、神田駅方面から燃えてきた火は神田川南岸まできて、さかんに火の粉を佐久間町(筆者注 防火守護地の碑文に明記されている地域一帯)に降らせました。この時、町内の人たちは逃げるより火を消そうと集まりました。バケツリレーで水をかけ、(中略)火を消しました。(中略)二日の朝八時ころ、蔵前方面からの猛火は佐久間町の東側から北側にかけて襲いかかりました。人々は和泉町の東京市の下水ポンプ場の水を利用したり、町内の帝国ポンプが得意先に納入するばかりだったガソリンポンプで、井戸水をくみ集めて放水したりして、午後六時ころ完全に消し止めました』と、詳細に伝えています。
 和泉町ポンプ所へ流入した下水が延焼防止に一役かっていたのです。後に東京府は、この地域を「町内協力防火守護之地」として史跡に指定(昭和14年)しました。先ほどの石碑は、これを記念して昭和43年に地元有志によって建てられたものです。
                (文:立川玉水)



関東大震災による焼失を免れた家並(出典:『目で見る千代田の歴史』千代田区)


90年余り働き続ける和泉町ポンプ所

和泉町ポンプ所は、JR山手線「秋葉原」駅又は東京メトロ日比谷線「秋葉原」駅から徒歩6分です。





鶴の舞う田んぼだった三河島かいわい

 史実を綿密に追うことで知られている小説家・吉村昭氏は、その著『彰義隊』(平成17年朝日新聞社刊)の「あとがき」で、『私は、荒川区立図書館に行き、ガリ版刷りの『三河島町郷土史』を手にした。簡易な郷土記録と思っていたが、…郷土史としては予想外の傑出した内容であった。私は、その記録をもとに宮(筆者注 寛永寺山主・輪王寺宮)をかくまった家々の子孫の家を訪れて伝承を得、小説の執筆を決意した』と、述べています。
 実は、同じこの郷土史(大本英太郎、昭和7年刊)に「三河島水再生センターの用地買収」の経緯が語られている箇所があり、このように記されています。『三河島の地主62名連印を以て、…(明治42年3月)10日右の諸氏東京市役所に出頭し、時の市長尾崎行雄氏に対して「土地買い上げ願い」なるものを提出した。…当局は之れに対し、同年同月20日汚水処分場敷地として、…5万3,000坪の地域に決定したのであるが、…三河島の中央部を東西に貫通し、村内を分断するの感があった。之れに対し、時の村長松本勇太郎氏外有志は之れは明らかに土地発展を阻止するものなりとの説を起し、…54名の連署を以て敷地変更の嘆願書を当局に提出した』。
 再検討の結果、現在の位置に変更し、大正3年1月に至り用地を買収することができ、同年6月から三河島汚水処分場の建設が始まりました。ちなみに、この辺りは田んぼが広がり所々に沼沢地が点在し、冬になるとナベヅルなどが飛来するところだったそうです。
 平成19年12月に「旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設」(大正11年運転開始)が国の重要文化財に指定されました。関東大震災にも耐え、平成11年に休止されるまでの77年間下水を汲み続けてきたポンプ施設です。レトロなレンガ道のこの施設は、桜やツツジなどの緑の木立を背景に、チンチンと警笛を鳴らしながらこの施設をかすめて走る都内で唯一つ残された都電荒川線を前景とし、春夏秋冬を通じて一幅の絵となる「産業遺産」として今後とも永く地元の人々とともに歩むことでしょう。
               (文:立川玉水)



三河島汚水処分場の用地(『東京の下水道100年の歩み』東京都下水道局)


旧三河島汚水処分場喞筒場施設と都電荒川線

 三河島水再生センターは、京成線「町屋」駅又は東京メトロ千代田線「町屋」駅から徒歩13分、都電荒川線「荒川二丁目」から徒歩3分です。