読み物シリーズ
厠の変遷と屎尿の位置づけ
地田 修一 氏・森田 英樹 氏
目次
1.厠の原風景
2.屎尿を水に流す
3.移動式便器
4.汲取りトイレ
5.江戸時代のトイレ
6.明治時代のトイレ
7.大正・昭和時代のトイ
8.水洗トイレの普及
1.厠の原風景
野山を歩いていて便意や尿意を感じた時、やむを得ずその場で用を足すという行為(いわゆる野糞や立小便)を行うが、これが屎尿(しにょう)処分の原点であろう。やがて−定の集落ができてくると、そこらじゅうでするわけにはいかないので、野外の特定の場所で排泄するようになった。
縄文時代の貝塚(かいづか)から糞石(ふんせき)へ大便が化石になったもの)が出土することがある。生活の場に隣接している貝塚やごみ溜(た)めの付近を、トイレ代わりに使っていたのではないかと推察される。人口密度も低く、自然の分解作用にまかせておいても、環境汚染を引き起こすことはなかった。
このように家の外で用を足すのが、奈良、平安時代ぐらいまでの庶民の生活スタイルであった。国立博物館に『餓鬼草紙(がきぞうし)』と称される絵巻が伝わっている。絵には老若男女が排便をしている所に伺便餓鬼(しべんがき)が群がっている、平安末期の京の街角が描かれている。排便をしている人の足元をみると、当時の庶民のほとんどが裸足(はだし)か草履(ぞうり)であったにもかかわらず、高価な高下駄(たかげた)を履(は)いている。これは、この場所がすでに糞尿で溢(あふ)れているため足元や着物を汚さないように履いたものと思われる。住民の暗黙(あんもく)の了解(りょうかい)の上で特定の排泄(はいせつ)場所、つまりトイレの位置が決められていたのではないだろうか。
時代は遡るが飛鳥時代の藤原京遺跡で、長さ1.6m、幅50cm、深さ40cmほどの穴から「ちゅう木(糞べら)」が発掘され、土壌中からも寄生虫卵(きせいちゅうらん)が検出されたことから、この穴はトイレの跡であると認定された。「土坑式(どこうしき)トイレ」といわれるものである。四つの杭跡(くいあと)があり、杭に踏板を渡して用を足していたものと思われる。
2.屎尿を水に流す
厠(かわや)の語源は「川屋」である。川の上につくった便をする所という意味である。縄文時代前期の5,500年ほど前の鳥山貝塚(福井県若狭湾の三方五湖)には、「桟橋式(さんばししき)トイレ」があった。桟橋の杭跡の周辺から多くの糞石が出土したことから、桟橋からお尻を突き出して排泄していたと考えられている。水に流すということでは、一種の水洗トイレである。このようなトイレは、今日でも東南アジア地域でみることができる。

インドネシアの川屋(「すまいの火と水」彰国社)
@奈良時代の水路式トイレ
奈良時代の貴族の屋敷では、絶えず水が流れている道路側溝に堰(せき)を設け、築地塀(ついじべい)の下の暗渠(あんきよ)から屋敷内に水を引き込み、築地塀に平行した木樋の中に水を流し、この上に屋根をかけてそこで排泄をしていた。大便がそのまま流れ出ていかないように、少し先に穴を設けて沈澱(ちんでん)させ、その上澄み水を元の道路側溝(そっこう)に戻していた。
道路側溝や沈澱穴の掃除(そうじ)は、雨の降った日の翌日に、囚人(しゅうしん)たちを使って行っていたそうである。
A高野山式トイレ
平安時代の初期に空海上人(くうかいしょうにん)が開山した高野山の寺院や民家では、谷川の水を竹筒などで、まず台所や風呂場に配水(はいすい)し、その余り水を便壷のない厠の下に流し、排泄した屎尿をこの水とともに近くの川に流し去っていた。トイレの異名である「高野山(こうやさん)」は、ここからきている。しかし、交通が便利になり参詣人(さんけいにん)も増加した昭和に入り、糞塊(ふんかい)の堆積(たいせき)や赤痢(せきり)などの伝染病(でんせんびょう)の多発が社会問題化し、浄化槽(じょうかそう)や下水道で処理するようになった。
この高野山式トイレは、戦後も日本の各地で、少数ではあるが残存していた。

古代王都のトイレ想像図(参考「平城京左京二条二坊・三条二坊発振調査報告」奈良文化財研究所)
3.移動式便器 (ひのはこ、おおつぼ、しとづつ}
平安時代の貴族は、寝殿造(しんでんづくり)の邸宅(ていたく)に住んでいた。寝殿造の建物には、トイレと呼べる特定の設備がなく、大便用には「ひのはこ」、小便用には「おおつぼ」や「しとづつ(尿箇)」という移動式の便器が用いられた。今日の「おまる」や「しびん」である。御簾(みす)と呼ばれる「すだれ」のようなもので広い部屋の一部分を仕切り、その陰で用を足していたのである。「おまる」の中身は、使用人が捨てていた。

高野山の水洗便所(「すまいの火と水」彰国社)
4.汲取りトイレ
野外でするのか、家の中でするのかの違いはあるにしても、屎尿は長らく「捨てるもの」であったが、鎌倉時代末期から徐々に樽や壷に溜める「汲取(くみと)りトイレ」に移行していった。「肥料(ひりよう)価値のある屎尿を確保する」という見地からである。麦を裏作(うらさく)とする二毛作(にもうさく)が、鎌倉時代来期から盛んに行われるようになり、生産性を高める工夫や地力維持への関心が高まった。
中国の宋王朝ではすでに屎尿を肥料として使っていたことから、鎌倉時代から行われていた日宋貿易(にっそうぼうえき)によって、中国から「屎尿の肥料化技術」が日本に伝えられたものと推測される。従来の、草を刈って田に敷き込む刈敷(かりしき)や草木灰に加えて、速効性のある屎尿を追い肥として使用する農業技術が次第に広まっていった。

厠で用を足す僧侶(「弘願本法然上人絵伝」知恩院蔵 接写)
西本願寺蔵の『慕帰絵(ぼきえ)』に汲取りトイレが描かれている。南北朝時代のものである。トイレの外観は竹の柱に板壁をはりつけ、屋根は板葺(いたぶ)き、内部は土を掘った上に板を渡し、下の穴に屎尿を蓄えるようになっている。
同じく南北朝期の『弘願本法然上人絵伝(ぐがんぼんほうねんしょうにんえでん)』(堂本家本)に「厠の念仏」という場面がある。トイレの外観は不明であるが、内部は板敷きで中央に板製の便器があり、一人の僧侶が高下駄を履いて用を足している。
ともに母屋(おもや)とは別棟(べつむね)の外トイレである。日本古来の建築様式である農家建築では、外トイレや軒下(のきした)トイレが一般的であり、家屋(かおく)内に定置したトイレを設けるようになるのは武家建築(書院造)(しょいんづくり)になってからである。
5.江戸時代のトイレ
江戸時代になると、農村での屎尿の利用が全国的に定着した。屎尿と作物へ米や野菜)を媒介(ばいかい)とした、都市と農村を結ぶ「リサイクルの輪」ができあがった。「屎尿をまけば作物がよくとれるので、農家はお金を払ってでも手に入れたかった」ということで、やがて、屎尿を汲取って農家に売る業者が生まれた。屎尿は「廃棄物(はいきぶつ)」ではなく、値段がついて取引きされる「有価物(ゆうかぶつ)」となったのである。
江戸の場合、長屋(ながや)で大人20人の店子(たなこ)が生活していたとすると、共同の外トイレの屎尿を売り払って得られる収入は、一年間でおおむね一両から一両二分であった。一人前の大工の一ヶ月の収入が二両程度の時代にである。個人の家の場合は、野菜などとの現物交換が多かったようである。

立ち小便をする女(「江戸かわや図絵」太平書屋)
屎尿の代価は、江戸ではすべて大家のものであったが、京都周辺では大便は大家のもの、小便は店子のものとなった。関西では、農家も小便を欲したようであり、小便桶と大便所が別々に設置される場合が多かったので、女性も小便桶に向かって立小便をしていた。
6.明治時代のトイレ
洋式の水洗便器が輸入され始めたのは明治の中頃であり、また陶器(とうき)製の水洗便器が国産化されたのは大正に入ってからである。明治期でのトイレの水洗化はごく一部であり、一般庶民の住宅にまで普及することはなかった。
7.大正・昭和時代のトイレ
急速な都市への人口集中による都市部の拡大と化学肥料の普及とがあいまって、屎尿の農地への還元は、屎尿の運搬や消費量の面から、近郊農村でその全部をまかなえる状況ではなくなってきた。さらに、屎尿利用の最大の課題であった寄生虫、消化器系伝染病、蝿の発生などの衛生問題も大きくクローズアップされた。
こうした中で、汲取りトイレを改良する研究が官民で盛んに行われた。「城口式大正便所」、「昭和便所」、「厚生省式改良便所」などである。いずれも、寄生虫卵や病原菌を死滅させるよう工夫を加えたものであるが、その普及はわずかなものに止まった。
農地への還元量が減って行き場のなくなった郁市の屎尿を処分するために、緊急避難的な措置として、山林や海洋への投棄が昭和の十年頃から行われるようになった。
8.水洗トイレの普及
昭和30年代からの、浄化槽の設置や公共下水道の建設に伴う「水洗便器」の普及はめざましく、平成17年度未には水洗化率は89%に達し、悪臭や蝿などからはほとんど開放された。しゃがみ式の和式便器から腰掛け式の洋式便器への移行も急ピッチに進み、さらに、紙を使って尻を拭く方式から尻を水で洗浄する温水洗浄便座へ転換しつつある。また、節水型水洗便器の開発も進められている。トイレ空間だけをみれば、実に快適(かいてき)になったといえる。
しかしその一方で、屎尿そのもののリサイクルシステムは崩壊し、再び廃棄物祝された屎尿は、水洗便器を介して流し去った後、その先に「何らかの施設を設けて処理する」という新たな時代を迎えることとなった。
出典:怪