読み物シリーズ
漁業者からみた屎尿の海洋投棄 (2024/01/12)
地田 修一 氏
日本下水文化研究会
1.著者・中井国之助氏とその著書の紹介
2.屎尿の海洋投棄問題の勃発
3.屎尿投棄問題の新たな展開
4.おわりに
昭和47年の海洋汚染防止法の改正に伴い、昭和48年4月以降は、全国どこでも屎尿は沿岸15海里(約27.8km)以内への投棄が禁止された。このため、瀬戸内海への屎尿の投棄が出来なくなり、屎尿処理施設が完成するまでの暫定措置として、瀬戸内海沿岸の県に対して、昭和50年8月末を期限として、和歌山県と高知県の沖合いの海域への屎尿投棄が許可された。その量は地元の分を含めて実に400万人分である。
投棄場所が、鰹の漁場に当たっていたことから漁業者にとって深刻な問題となった。暫定措置の期限が切れる二ヶ月前になっても、屎尿の陸上処理には何の進展も見られず、ここに至って和歌山県漁業協同組合連合会(県漁連)は、ついに関係自治体への抗養行動を開始した。
本報告は、当時、和歌山県漁連の責任者であった中井国之助氏が後に著した『自伝漁界懸命記』の記述を基に、屎尿の海洋投棄に対する漁業者サイドの対応を明らかにしようとするものである。
キーワード:海洋汚染防止法、海洋投棄、漁業協同組合、漁場保護、陸上処理
1.著者・中井国之助氏とその著書の紹介
中井国之助氏は、明治35年、現在の和歌山県田辺市の江川浦で生まれる。ここは典型的な漁村で、父親も漁師であった。当時の田辺一帯の漁船は、すべて艪船で、人力で船を漕いで魚を獲りに行っていた。田辺に動力漁船が現れたのは、明治41年になってからである。
小学校を卒業(大正4年)した著者は、漁師として船から船、港から港へ渡り歩く出稼ぎに出る。大正から終戦にかけての頃は、潮岬から白浜までの沖合いは黒潮に乗って回遊する鰹や鮪の良い漁場であった。一本釣りの全盛時代で、鰹や鮪の大漁船で江川漁港は大いに賑わった。
図−1 艪船による鰹釣り(「山海名産」より)
昭和4年、地元の江川漁業組合の総代となる。この頃から、鮪釣りなどで県外に出漁するようになる。昭和17年に組合の理事、24年には新しく発足した江川漁業協同組合(漁協)の組合長となる。さらに、39年、田辺周辺の四つの漁協を合併してできた新江川漁協(組合員数約800人、後に田辺漁業協同組合と名称を変更)の組合長に就任する。
昭和49年、和歌山県漁業協同組合連合会(県漁連)の会長に推される。54年、30年間務めた田辺漁協の組合長を辞任する。また、その前年には県漁連会長職を後進に譲っている。
図−2 動力船による鰹の一本釣り(「海からの幸」より)
主な著書に、『自伝,漁界懸命記』(現代史出版会、昭和55年)がある。この本の「あとがきにかえて」の項で、中井氏は次のように述べている。
『漁業のことより知らない私、漁業一途、人情に生きるを信条として歩んだ七十余年の人生には、苦しかった少年漁夫時代、江川漁業協同組合の理事、そして組合長の青壮年時代、漁協合併後の田辺漁業協同組合長や県漁業連合会会長の老年時代と、数多くのことがございました。…
人生記録を発刊してはとのアドバイスを受け、前に認めた漁業回顧録、漁界一途などをまとめ直し、その後の出来事なども若干を付け加えさせて項ければと、専門家の方に編さん・取りまとめをして頂きましたのが、今回の「漁界懸命記」であります。一人の男の漁界懸命の一生が、移りかわりゆく漁界にどうかかわり、どうあがき努めたか。このあとも勢い鋭く海に押し出す若い方々に、一掬いのなぐさめと励ましになれば、こんな嬉しいことはありません。海よ広かれ、美しかれと、漁師は永久に願っております。』
2.屎尿の海洋投棄問題の勃発
中井氏は、県漁連会長就任直後に自らが遭遇した「屎尿の海洋投棄」問題について、一つの節を設けて詳述している。その書き出しで、『し尿の海上投棄というのは、広大な海の自然浄化作用を元々利用してのことで、なにも当時に始まったことではない』
と、まず一般論を示した上で、しかし現実には、
『(投棄し尿は、)急激な人口増に伴いその量を増し、…その質も昔とはだいぶ違ってしまった。その結果、紀州沖に北上してくる鰹、鮪が、し尿投棄付近の海上では全く散ってしまい、漁獲高が減少の一途を辿ったわけである』
と、漁業者にとっての死活問題にまで発展してしまった状況であったことを指摘している。
2−1海洋汚染防止法の改正に伴う余波
昭和47年6月、海洋汚染防止法(昭和45年制定)が改正され、48年4月以降は、全国どこでも屎尿は沿岸から15海里(約27.8km)以内への投棄が禁止された。このため、瀬戸内海への投棄が不可能となり、兵庫、岡山、広島、徳島、香川、愛媛、の六県は、屎尿処理施設が完成するまでの暫定措置として、50年8月末を期限に和歌山県と高知県の沖合いの海域(潮岬南方64海里(約118.5km)に屎尿を投棄することが許可された。
その量は地元の二県の分も含めると、日量約3,600m3で400万人分に相当するものであった。
参考のため、時期と海域は異なるが、海上での屎尿投棄の模様を、『沖縄トイレ世替わり』(平川宗隆、ピーダーインク、2000年)から引用する。
「ここは海洋汚染防止法に基づくし尿投棄の許された海域である。…投棄海域では船は停泊せず海面を疾走(?)しながら、右舷後方に在る直径五〇センチほどの排出孔から積んであった七五〇トンのし尿を船外へ吐き出し始める。もくもくと排出されたし尿は海水より比重が軽いせいで海面をただよいながら、コバルトブルーの海面を帯状に糞色に染めていく…例の糞尿特有な臭いが辺り一面を覆い尽くす。投棄が終了するまで約35分かかったが、しばらくすると空色を塗ったあとの筆洗液に黄土色を使うた筆をつけたかのように濃紺の海に飲み込まれていった」
写真−1 屎尿を海洋に投棄する(「トイレ考・屎尿考」より)
この海域は、和歌山県の鰹の漁場に当たっており、
『鰹というのは、海面近くを群遊する性格をもっていて、だからこそ釣りもできるのだが、それが、このし尿投棄がなされると海面が濁るため一斉に深く潜ってしまう』ため、一本釣りの鰹の漁獲高が大きく激減したのである。
『土佐のかつお一本釣り』(西川恵与市、平凡社、1989年)によれば、鰹釣りの漁場は、「(かつおの群れに)近づいて当て餌を投げこむと、なんなくいわしに食いついた。「わいたぞ!」と言って、餌飼え(えどがえ)が多量のいわしを投げこむ。食い気旺盛、はえている群で、かつおが飛び飛びして餌をとり、船に押し寄せる。釣れるわ釣れるわ、一時間ぐらいで船はぐらりと左にかしぎ、甲板はかつおの山となった。」
といった状況であり、通常、鰹は海面下すぐのところを群れているとのことである。
図−3 鰹の群(「土佐のかつお一本釣り」より)
一方、屎尿の陸上での処理施設の建設は、どの県においても住民の反対運動が強く、遅々として進まず、
『解決策らしい解決策がどこからも出ないままに、ただ漁民のみが被害を受けて、50年8月という期限が迫る』情勢であった。
2−2 県漁連の抗議行動
和歌山県漁連は、海洋投棄の協定期限をあと2ヶ月間のみ残すこととなった50年6月、和歌山県当局ならびに県議会に、屎尿の海洋投棄即時中止を要望する旨の陳情を行った。その理由説明の中で、『現在し尿投棄中の海域は、日本でも有数の漁場であり、かつお、まぐろ漁操業に多大の支障を生じている。…我々は、本県沿岸漁場環境保全上重大な危機感のもとに、実力行使を含めあらゆる手段をもって対処して行く考えである』
と、強く訴えるとともに、屎尿の陸上処理施設の整備に関する具体的な対応策の提示を迫った。
2−3 行政側の対応
この県漁連の強い要望を受けて、和歌山県当局も瀬戸内海環境保全知事市長会議(昭和50年7月24日)の席上、以下のような緊急提案を行っている。
『陸上処理施設に対する実情に即した国庫補助制度の大幅な改善など、国は所要の処置を構ずべきだ。同時に他の廃棄物処理についても政府は抜本対策を確立されたい』
これに対する厚生省の回答は、
『し尿はあくまで陸上処理が原則であるとはっきり見解を示し、…国庫補助は、現在海洋投棄をしている県下に優先配分する方針を明らかにした一方、補助率の改善を検討する』
というものであった。
3.屎尿投棄問題の新たな展開
ところが、関係各県は、屎尿の陸上処理計画の遅れを理由に、和歌山県に対し、「海洋投棄をもうしばらく続けさせて欲しい」と、再度、強く申し入れてきた。しかしながら、これは明らかに約束違反であった。
3−1 県漁連からの逆提案
海洋に投棄される屎尿も含めた廃棄物は、廃棄物処理法および海洋汚染防止法によって、種類に応じて、A海域、B海域、C海域とその投棄海域が指定されており、排出方法についても規定されている。
県漁連としては、
『漁場保護、海洋汚染防止のため認め難いという基本姿勢を持ちつつも、…持っていき場のないし尿を抱え、各県が深刻に悩みぬき、弱り果てている姿も無視できない。… そこで私たちは現実的処理案として、今後三年間の期限つきで、和歌山県の外洋にあたる陸岸から約140海里(約260キロメートル)沖のB海域へのし尿投棄はやむをえない』
との案を示した。この判断について中井氏は、
『当時として私は大きな賭をしている。はたして、そんなにうまくいくものであろうか』
と、胸の内を吐露しているが、案の定、問題はこれでおさまらなかった。
3−2傘下の漁協からの反対運動
B海域への投棄続行を了承した和歌山県および県漁連に対して、県下の紀南の五漁協(田辺漁協を含む、後に七漁協に増える)は「和歌山県し尿投棄絶対反対漁民連絡協議会(し尿投棄反対連協)」を結成し、猛烈な反対運動を展開した。
『私にすればまさにこれは、足元から火の手があがったという感じであった』
と、中井氏は述懐している。
一方、県内の17の市町村から、「昨今の地方財政危機の折、B海域までのし尿海上投棄については非常に困難であり、即刻実施は不可能である」という申し入れがあり、これが反対運動に「火に油を注ぐ」ことになった。
図−4 屎尿投棄の位置(「自伝 漁界懸命記」より)
3−3 県漁連として補償費を要求
和解への道がなくなったことから、今まで仲介的立場に立っていた県漁連としても、県当局に再度の逆提案を行い、その見返りに補償費を要求することとした。
『県漁連は三年後の陸上処理施設の建設を目標に、それまでの間、県下の市町村に限り現行の64海里海域への投棄続行を認める。その代りには漁民が払う犠牲補償、迷惑料という形で、県補助金を含め一人当たり二百五十万円の補償費を、三年間で通算約二億八千万円ほどになるが、払ってほしい』
交渉の結果、この金額が県漁連に支払われることになった。県漁連としては、この補償費をあくまでも県下全体の漁業振興に役立てようと考えていたのである。ところが、これがまた、新たな騒動の発火点になってしまった。
3−4 し尿投棄反対連協が被害当事寺への償還を要求
し尿投棄反対連協は、50年12月8日、県漁連に被害当事者への償還を求める要望書を突き付けてきた。それは、
『一、海洋投棄反対運動費用、休業補償四千万円の弁済。 二、初年度迷惑料は、被害補償として反対連協に重点配分。 三、迷惑料の漁民への還元。』
というものであった。
汚水対策協議会の小委員会での議論では、
『し尿反対連協が展開してきた運動の成果を高く評価しながらも、被害補償などについては認定が極めて困難である』
との意見が大勢を占めていた。そのため補償金は、
『漁業振興資金の創設基金として活用する方が、全員福祉、公平分配にならて好ましいのではないか』
との考え方のもとでの議論が続けられていた。
ところが、まさにこの時、この小委員会の傍聴をめぐって、し尿投棄反対連協との対立が生じ、県漁連の建物(水産会館)が占拠されるという事態にまで発展してしまった。
『私は、その夜一晩中考えた。そして、この間題を解決するためには、漁連会長と田辺漁協組合長を兼務することはできないとの結論に立ち至った』
田辺漁協組合長辞任の辞表を提出したが、これは、後日突き返された。
事態は緊迫していた。何度も、話合いがもたれ、
『私は会長としての腹案があるので、とにかく県漁連と汚水対策協議会との合同役員会で全力を尽くす。だから、どうか水産会館の封鎖を解いてもらいたい』
と頼んだところ、ようやくし尿投棄反対連協から、
『納得のいく回答を出すなら、封鎖を解除してもよい』
との、歩み寄りを得ることができた。
3−5 県漁連会長案を提示
そこで昭和50年12月24日、水産会館会議室での合同役員会の席上で、次のような県漁連会長案を示した。
『一、51年度の迷惑料である四千六百万円のうち、四千百五十万円をし尿投棄反対運動諸経費等の弁済のため、し尿連協を結成している.七漁協に配分し、四百五十万円を汚水協経費に充当する。 二、51年度、52年度以降の県支払い分それぞれ四千三百万円については、来年早々、水産振興、公害防止、漁民救済、操業安全確保諸対策費として運用する方策を考える』
さらに、その席上で、
『53年夏までの、し尿の陸上処理の実現をめざして、全漁民が結集し運動する』
という追加案も出され、いずれも承認された。
こうして、屎尿の海洋投棄をめぐる県漁連の内紛もようやく解決をみたのである。
4.おわりに
県漁連会長の立場と一漁業者との狭間で、一途に悩み、情熱をもってその解決に懸命に当たってきた中井氏は、次のように感慨を述べている。
『私にしてみれば内部紛争は、漁連の信用問題にもかかわってくる問題だっただけに、政治生命を賭けて必死に努力するよりなかった。…将来の(し尿の)陸上処理施設の早期完成の問題をどうするかなど、前途にはなお多難ないくつかの問題が残されていた。…海に生活を求める漁民にとっては、一日も早く後遺症のないきれいな海をとり戻し、大事な食糧源の資源確保にまい進できることを心から願う』
海洋汚染防止法は、昭和45年に制定されて以来、廃棄物投棄による海洋汚染の防止に関する条約(いわゆる「ロンドン条約」)の規制強化を受けて、幾多の改正が加えられてきており、その中で、屎尿の海洋投棄についても、現在実施している者に対して5年間の経過措置を設けたうえで、平成14年より禁止されることとなった。
参考文献(本文中で明記したものを除く)
1)「漁民残酷物語」:霞堂宣夫、エール出版社
2)「下水処理水と漁場環境」:渡辺競編、恒星社厚生閣