読み物シリーズ
下水路のある風景−永井荷風と滝田ゆうが描いた路地裏−
地田 修一 氏
目次
1.旧寺島町玉の井への案内
2.溝
3.路地の排水路
4.便所
5.汲取り
6.汲取り口の掃除屋
【参考資料】
漫画にみるトイレ−滝田ゆうの世界−
はじめに
2.路地の風景
3.スタンドバー「ドン」の店構え
4.トイレの汲取り口
5.汲取り
6.汲取り賃の請求と支払い
7.天秤棒で肥桶を担ぐ
8.リヤカーで運ぶ
9.汲取り口の掃除
10.ごみの収集
11.おわりに
永井荷風の小説「?(さんずいに墨)東綺譚」
と滝田ゆうの漫画「寺島町奇譚」とに描かれている、昭和10年代の東京・下町(現在の墨田区東向島)の下水路風景を紹介する。永井はその頃住んでいた麻布から足繁くこの地を訪れており、また滝田はこの地で生まれ育っている。「文章」と「絵」という異なった表現手法であるが、ともに臨場感に溢れた作品である。期せずして同じ地域、同じ時代を扱っており、格好の歴史的資料である。
キーワード:溝(どぶ)、みぞ、蚊、便所、汲取り
1.旧寺島町玉の井への案内
永井荷風がいうところの「?東」は、当時の寺島町玉の井の地である。寺島は東国では古くから拓けた集落で、隅田川や曳舟川に囲まれた、たくさんの用水路が流れる水田地帯であった。図−lは、当地の願満稲荷の前にある案内板に描かれている玉の井の略図である。現在はごく普通の住宅街となっているが、その名は「玉の井町会」として残っており、今も消えていない。
図−1玉の井周辺
図−2 路地と溝
永井は、馴染みの店(銘酒屋)への案内を、「?東綺譚」(角川文庫)の中でこのように描写している。
『わたくしがふと心やすくなった溝(どぶ)際の家は、…大正道路から唯(と)ある路地に入り、よごれた幟の立っている伏見稲荷の前を過ぎ,溝に沿うて、なお奥深く入り込んだところにあるので、表通りのラディオや蓄音機の響きも素見客(ひやかし)の足音に消されてよく聞こえない。』
永井がこの地に頻繁に足を運んだのは、昭和11年の梅雨時から初冬にかけてであり、57歳の時である。
一方、昭和7年にこの地で生まれ育った滝田ゆうは、漫画「寺島町奇譚」(ちくま文庫)の中で、 『…紛れもなく、わがふるさととしての寺島町を舞台とした作品である。… その界隈に育ったことが、夢のまた夢であれ、かつての現実を自分の作品に反映させることで… ぼくは多くを思い浮かべることが出来るのである。』
と、述べている。「寺島町奇譚」が雑誌に連載され始めたのは昭和43年からであり、しかもこの界隈は昭和20年3月の空襲で焼失しており、30年も前の情景を思い出しながら描いたことになる。吉行 淳之介はその解説の中で、『この作品は、文学的雰囲気をもった連続画で奉る。… その土地で過ごしたのは幼少年時代であり、子供のときの記憶は根強いから。』
と、そのこと細かな情景描写に驚嘆している。永井の小説「?東綺譚」が朝日新聞に発表された昭和12年には、滝田はまだ5歳になったばかりである。
ここで、二人の略歴を見てみよう。
永井荷風は、
明治12年、現・文京区春日で内務官僚の長男として生まれる。旧制中学卒業後、24歳の時渡米、その後ヨーロッパへ。41年帰国後「あめりか物語」、翌年「ふらんす物語」を刊行。43年慶應大学文学科教授、「三田文学」創刊。大正5年慶應大学退任、以後作家生活一本に。昭和12年「?東綺譚」新聞連載。34年死去、享年79歳。「すみだ川」、「日和下駄」、「葛飾土産」など。
滝田ゆうは、
昭和7年生まれ。生母がすぐに亡くなったため、叔父夫婦に引き取られ、その後、墨田区寺島町(現東向島)の義母のもとで暮らす。昭和25年高校卒業後、「のらくろ」で有名な漫画家田河水泡の内弟子となる。昭和43年漫画雑誌「ガロ」に「寺島町奇譚」を連載、独特の画風を確立する。平成2年死去、享年58歳。「怨歌橋百景」、「昭和夢草紙」、「新東京百景」など。
2.溝
「日和下駄」(講談社文芸文庫)の「水」の章で、永井は大正初めの東京の下水について、 『下水と溝川はその上に架った汚い木橋や、崩れた寺の塀、枯れかかった生垣、または貧しい人家の様と相対して、屡(しばしば)憂鬱なる裏町の光景を組織する。… かかる溝川流るる裏町は大雨の降る折と云えば必ず雨潦の氾濫に災害を被る処である。』
と、すでに概説している。
2−1 晴れた日の溝
永井は廃線となった駅の跡(土手)から見た玉の井を、『眼の下には遮るものもなく、今歩いて来た道と空地と新開の町とが低く見渡されるが、…トタン葺きの陋屋が秩序もなく、端しもなく、ごたごたに建て込んだ間から湯屋の烟突が屹立して、…』
図−3 晴れた日の溝
図ー4 雨の日の溝
図−5 溝づたいの路地
図ー6 ちゃぶ台のある居間
図−7 路地中央のみぞ
図−8 雨の日のみぞ
写真−1 現在の下水道のある路地
そして、その土手を降りると、
『そこはもう玉の井の盛り場を斜めに貫く繁華な横町の半ほどで、ごたごた建て連なった商店の間の路地口には「ぬけられます」とか、「安全通路」とか、「京成バス近道」とか、あるいは「オトメ街」あるいは「賑本通」など書いた灯がついている。』
と、紹介している。元々田んぼを埋め立てて造られた町は、曲がりくねった畦道沿いに銘酒屋が建ち並び、細い路地が入り組み迷路のような町であった。さらに『お雪の家のある第二部を貫くかの溝は、突然第一部のはずれの道端に現れて、中島湯という暖簾を下げた洗湯の前を流れ、許可地外の真暗な裏長屋の間に行く先を没している。』
と、溝について説明し、次のような感想を加えている。
『わたくしはむかし北郭を取り巻いていた鉄漿溝(おはぐろどぶ)より一層不潔に見えるこの溝も、寺島町がまだ田園であったころには、水草の花に蜻蛤のとまっていたような清い小流れであったのであろうと、老人(としより)にも似合わない感傷的な心持ちにならざるを得なかった。』
『溝の蚊のうなる声は今日にあっても隅田川を東に渡って行けば、どうやら三十年前のむかしと変わりなく、場末の町のわびしきを歌っているのに、東京の言葉はこの十年の間に変われば実に変わったものである。』
2−2 雨の日の溝
『突然、「降ってくるよ」と叫びながら、白い上っ張りを着た男が向こう側のおでん屋らしい暖簾のかげに駆け込むのを見た。つづいて割烹着の女や通りがかりの人がばたばた駆け出す。…やがて稲妻が鋭くひらめき、ゆるやかな雷の響きにつれて、ポッリポッリと大きな雨の粒が落ちて来た。』
と突然、雷雨に遭遇する。
『初め家へ上がった時には、少し声を高くしなければ話が聞きとれないほどの降り方であったが、今では戸口へ吹きつける風の音も雷の響きも歇んで、亜鉛(トタン)葺きの屋根を撲つ雨の音と、雨だれの落ちる声ばかりになっている。路地には久しく人の声も跫音も途絶えていたが、突然、「アラアラ大変だ。きいちゃん。鰌が泳いでるよ」という黄いろい声につれて下駄の音がした。女はつと立ってリボンの間から土間の方をのぞき、「家は大丈夫だ。溝があふれると、こっちまで水が流れてくるんですよ」』
この雨により溝が溢れ、路地のみぞにまで鰌が上って来たが、家の土間にまでは浸水しなかったことが会話から理解できる。
2−3 蚊の襲来
静かな夜の蚊について、
『雨のしとしとと降る晩など、ふけるにつれて、… 家の内外に群がり鳴く蚊の声が耳立って、いかにも場末の裏町らしい佗しさが感じられてくる。』
と、いかにも文学的に見たてている。そしてそれは、
『いつも島田か丸髷にしか結っていないお雪の姿と、溝の汚さと、蚊の鳴く声とはわたくしの感覚を著しく刺戟し、三、四十年むかしに消え去った過去の幻影を再現させてくれるのである。』
と、かえってある種の郷愁を感じさせる。
しかし、その蚊の襲来は、
『家中にわめく蚊の群れは顔を刺すのみならず、口の中へも飛び込もうとするのに、土地馴れているはずの主人も、しばらくすわっているうち我慢がしきれなくなって、中仕切りの敷居際に置いた扇風機の引き手を捻ったが破れているとみえて廻らない。火鉢の抽斗(ひきだし)からようやく蚊遣香(かやりこう)の破片(かけら)を見出した時、二人は思わず安心したように顔を見合わせたので、わたくしはこれを機会に、「今年はどこもひどい蚊ですよ。暑さも格別ですがね」と言うと、「そうですか。ここはもともと埋め地で、ろくに地揚げもしないんだから」と主人もしぶしぶ口をきき初めた。』
と凄まじく、蚊遣香が欠かせない。
『家の内の蚊は前よりも一層多くなったようで、人を刺すその針も鋭く太くなったらしい。お雪は懐紙でわたくしの額と自分の手についた血をふき、「こら。こんな」と言ってその紙を見せて円める。「この蚊がなくなれば年の暮れだろう」「そう。去年お酉様の時分にはまだいたかもしれない」』
とあることから、初冬まで蚊が飛び回っていたようである。
3.路地の排水路
3−1道路中央のみぞ
滝田は、細い曲がりくねった路地の中央に掘られているみぞを描いている。路地では、道の中央が低く両側が高くなっており、雨水が家に入りこまないよう工夫されている。この形式に近いものは、現在でも東京の日本橋や京橋などの古くからの街の路地に見ることができる(写真−2)。
3−2 側溝
表の横町のやや広い道は両側に側溝があり、歩くのに危なくないよう板の蓋がされている。
3−3 雨樋
雨樋が下りているところでは板の蓋がなく、雨樋からの雨水を直接側溝に排水できるようにしてある。
写真−2 現在の路地中央の凹み
図ー9 雨の日の側溝
図−10 雨樋
4.便所
滝田の育った家がモデルと思われるスタンドバーの勝手口を入ると、土間がありすぐ横に便所があるが、ここでは汲取り口が土間側に切られている。
5.汲取り
便所の汲取りの様子が土と細かに描写されている。まるでその場で写生したかのようである。
6.汲取り口の掃除屋
この当時、このような汲取り口の汚れを掃除する仕事があった。
図−11 便所
図−12 汲取り
図−13 汲取り料の請求
図−14 天秤を担ぐ
図−15 リヤカーで運ぶ
図−16 汲取り口の掃除
参考文献(本文中で明記したものを除く)
1)中島国彦編:「新潮日本文学アルバム−永井荷風−」 新潮社
2)たましん歴史・美術館編:「滝田ゆうの仕事」 (財)たましん地域文化財団
3)前田豊著:「玉の井という街があった」 立風書房
【参考資料】
漫画にみるトイレ−滝田ゆうの世界−
地田修一
日本下水文化研究会
はじめに
滝田ゆうの漫画「寺島町奇譚(全)」(筑摩書房)に描かれている昭和10年代の東京・寺島町玉の井(現在の墨田区東向島)のトイレ汲取りの情景を紹介します。滝田はこの地で育っており、たいへん臨場感に溢れた自伝的な作品で格好の歴史的資料といえます。
1.旧寺島町玉の井への案内
寺島町は古くから拓けた集落で、隅田川や曳舟川に囲まれ、たくさんの用水路が流れる水田地帯でしたが、現在はごく普通の住宅街となっています。「玉の井」の名は寺島町五、六、七丁目の一帯を指す字名として使われていた時期もありますが、地図に記載されているものではなく俗称です。しかし、現在でも「玉の井」を冠した町会が存在しており、その名は消えていません。
昭和11年の梅雨時から初冬にかけて足繁くこの地を訪れた永井荷風は、小説「?東綺譚」(角川書店)の中で馴染みの店(銘酒屋)【めいしや、いわゆる特殊飲食店】への案内を次のように描写しています。
『わたしがふと心やすくなった溝際の家は、… 大正道路から唯ある路地に入り、よごれた幟の立っている伏見稲荷の前を過ぎ、溝に沿うて、なお奥深く入り込んだところにあるので、表通りのラディオや蓄音機の響きも素見客の足音に消されてよく聞こえない。』
2.滝田ゆうと「寺島町奇譚」
昭和7年に生まれた滝田ゆう(本名:滝田祐作)は、生母がすぐに亡くなったため、一時叔父夫婦に引き取られ、その後父親と義母のもと、幼少年時代を玉の井の地でおくっています。父親は「ドン」というスタンドバーを経営していました。滝田はこの店の二階で暮らし、昭和25年高校卒業後、「のらくろ」で有名な漫画家田河水泡の内弟子となります。昭和43年、漫画雑誌「ガロ」に戦前の玉の井の風景や社会を描いた。「寺島町奇譚」を連載し、登場人物を頭でっかちに描き、文字が少なく絵だけでストーリーを展開する独特の画風を確立します。平成2年逝去、享年58歳。ほかに「昭和夢草子」、「怨歌橋百景」、「新東京百景」などの漫画のほか、随筆に所々漫画をおりまぜた「昭和ながれ唄」、「昭和ベエゴマ奇譚」などの作品があります。
玉の井界隈は昭和20年3月の空襲で焼失しており、「寺島町奇譚」は30年も前の情景を思い出しながら描いたことになります。滝田は、<はじめに>の中で、『紛れもなく、わがふるさととしての寺島町を舞台とした作品である。… その界隈に育ったことが、夢のまた夢であれ、かつての現実を自分の作品に反映させることで、… ぼくは多くを思い浮かべることが出来るのである。』
と、述べています。また、「昭和ながれ唄」(学習研究社)の中で、
『ものごころつき、キヨシがあたりを見まわしたときから、そこはすでに銘酒屋と呼ばれる特殊飲食店ひしめく場末の色街のど真ン中であった。町はその銘酒屋を囲んで、寄り添うごとくに共存し、その明け暮れに屈託はなかった』
と回想しています。
吉行淳之介は<解説>の中で、
『この作品は、文学的雰囲気をもった連続画である。… その土地で過ごしたのは幼少年時代であり、子供のときの記憶は根強いから … 多少の錯覚があるかもしれないが、そういうことは考証家に委せておけばいいだろう 』
と、そのこと細かな情景描写に驚嘆しています。
いずれにしても、記憶だけで失われた玉の井の風景や生活をこれほどリアルに再現し得たことは、滝田がたぐいまれな素晴らしい能力の持ち主であったことを示しています。
2.路地の風景
図−1は、玉の井界隈の路地の風景です。汚水の流れる溝(どぶ)には、所々、小さな木橋やそれより少し大きい橋(コンクリート製)が架かっており、コンクリート橋の橋脚には木製の格子状のゴミ止めが設置されています。溝は土留めのため、木の枠で補強されバリが渡されています。溝の脇や橋の傍には、「防火用水」と書かれた水槽が置かれています。その脇にあるのは、一斗缶を加工した「ゴミ焼き」でしょうか。
塀の木戸の横に木製のゴミ箱が見えます。また、別の家の敷地堺には掲示板が立っています。
子供たちが集まり、買っているのは「玄米パン」です。玄米パン屋さんは、「げーんまいパンのホヤホヤーン」との売り声を繰り返しながら、路地から路地へと回っていました。
ちなみに、「の」の字だけがやたらに大きい「のり」と書いた丸い看板は、「のり(糊)屋」のです。糊加工時の温排水を溝脇に置いた桶に受けてから排水しているらしく、桶から湯気が出ています。トタン屋根やブリキの煙突も描かれています。
図−2には、共同水道の蛇口や木製のたらい、ゴミ箱、物干しなどが描かれています。
図−1 路地の風景−1(P620〜621の絵)
図−2 路地の風景−2(P341下の絵)
3.スタンドバー「ドン」の店構え
図−3は、滝田の父親が経営しているスタンドバー「ドン」(二階建)の夜の情景です。暖簾がはずされ、本日休業の木札が掛かっています。店の前に防火水槽が置かれています。道路側溝には木の蓋が敷かれています。
図−4は、この店の内部です。カウンターがあり、その回りに背の高い丸椅子が置かれています。椅子を運んでいる少年が主人公のキヨシ(少年時代の滝田がモデル)です。
図−3 店構え(P317の上の絵)
図−4 店の内部(P34の上の絵)
4.トイレの汲取り口
一階のスタンドバーの奥の部屋は居間になっていて、タンスやちゃぶ台が置かれています。さらに、この奥に流し台、スノコなどの置かれた土間があり、勝手口になっています。この土間の脇に、トイレの汲取り口が見えます。この家は酒場を開いており、通りに面したところは店の入口となっています。トイレの汲取り口を勝手口の土間側に付けざるを得なかったのでしょう(図−5)。
トイレの開き戸の脇の上部には、手水器が吊り下げられ、すぐそばに手拭いがかかっています(図−6)。手水器は、金属板製の容器を軒から吊り下げ、その底につき出た細い鋼棒を掌でちょっと押し上げると、水がジャッとこぼれ出る仕掛けです。腐食しにくい瀬戸引きのものもありました。明治三十年代初頭に登場して、たちまち全国に普及しました。必要な水量が自由に得られ、動作が単純な機構であったからでしょう。幼児語で「チョンチョン」と言われ、昭和三十〜四十年代まで各家庭で使われていました。
図−5 汲取り口(P319の下の絵)
図−6 手水器(P451の下の絵)
5.汲取り
「ダブン」という擬音がついていることから、既に少し屎尿が入っている肥桶を降ろしているのでしょう。汲取り口の板の蓋を開けて、「ゴボ、ゴボ、ゴボ」と便壷に溜まっている屎尿を柄杓で汲み出して、「ダブダブダブ」と肥桶に流し込んでいます(図−7)。
柄杓は1回で2升(約3.6?)ほど汲めるそうです。肥桶の容量は2斗(約36?)です。汲取り口を汚さないようにするのがコツです。この家の場合は、屋内なので問題はないですが、屋外の場合、寒い季節には汲取り口が凍ってしまうことがしばしばあります。無理に開けようとすると壊れてしまい、汲取り人が自分で板を持って来て直すこともあったそうです。
図−7 抜取り(P293の下の絵)
6.汲取り賃の請求と支払い
図−8をご覧ください。汲取り入は、「三つ半」と言って汲取り賃を請求しています。普通は、「肥桶三杯とあと半杯です」という意味に解されますが、肥桶が2つしか置いてありません。やや、理解に窮する場面です。
汲取り賃は、普通、肥樽半杯単位で数えていました。この場面は昭和10年代のことですが、少し前の大正8年から、汲取り業者の団体である東京糞尿肥料組合は屎尿汲取りの有料化を実施しています。東京市直営の屎尿汲取り賃が、大正10年においては、1桶5銭であったとの記録があります。また、貨幣価値が大きく変わっていますが、昭和20年代後半での東京多摩地区の民間汲取りの例では、1桶20円、半桶15円でした。
この家の奥さん(滝田の義母)は、引出しから東京市のマークの入った券(たぶん汲取り券でしょう)を取出して数えています。事前に、近所の雑貨店などで購入してあったものです。そして、汲取り券を渡しています。
ところで、汲取り人が天秤棒で運んで出て行く場面(図−9)をみると、やはり2桶です。もしかすると、「三つ半」というのは、「三斗半」という意味でしょうか。そうだとすると、1桶に二斗入りますから、「三斗半」は「1桶とあと3/4桶」となります。これでは、少し半端な感じです。いずれにしても謎が残ります。
図−8 汲取り賃の請求(P294の上の絵と中の絵)
7.天秤棒で肥桶を担ぐ
2つの肥桶を天秤棒の前と後にぶら下げて、リヤカーまで運びます。慣れないと、こぼさないようにバランスをとって歩くのはたいへんだったそうです(図−8)。
図−9 天秤棒を担ぐ(P294の下左の絵)
8.リヤカーで運ぶ
2斗入りの肥桶をリヤカーに載せるには、力だけでなくコツがあります。大きなリヤカーでは、10〜12本の肥桶を載せることができます。この場面(図−10)のリヤカーには、8本の肥桶と柄杓と天秤が載せられています。
徳富蘆花は「みみずのたはこと」(岩波書店)の中で、まだ農村であった世田谷・糀谷の農家の肥取りの様子を次のように描写しています。
『この辺の「東京行」は、直ちに「不浄取り」を意味する。… 荷馬車もあるが、九分九厘まで手車である。… 弱い者でも桶の四つは牽く。少し力がある者は六つ、甚だしいのは七つも八つも牽く。一桶の重量を十六貫とすれば、六桶も牽けば百貫からの重荷だ。… 股引草履、夏は経木真田の軽い帽、冬は釜底の帽を阿弥陀にかぶり、焦茶毛糸の襟巻、中には樺色のあらい毛糸の手袋をして、雨天には蓑笠姿で、車の心棒に油を入れた竹筒をぶるさげ、空の肥桶の上に、馬鈴薯、甘藷の二籠三籠、焚付粗朶の五把六束、季節によっては菖蒲や南天、小菊の束なぞ上積にした車が、甲州街道を朝々幾百台となく東京へ向うて行く 』
しかし、この情景のような、屎尿と農作物(あるいは金銭)を介してのリサイクルシステムがまがりなりにも成り立っていたのは、大正の半ば頃までであり、各家庭では次第に汲取り賃を支払って、農家あるいは民間の汲取り業者に頼んで屎尿を汲んでもらうようになりました。
東京市役所が一部の地域での直営の屎尿汲取りを有料で始めたのは、大正9年になってからです。それまでは、屎尿の汲取りは役所では関知せず、民間に任せていたのです。
図−10 リヤカーで運ぶ(P553の上の絵)
9.汲取り口の掃除
図−11をご覧ください。トイレの汲取り口を開けて、長い棒の先に半円形の金属のへらのようなものを括りつけた道具で「カキカキカキー」と、何かを擦り取っています。作業をしている人の横には短い棒のような物が入った取っ手の付いた四角い缶が置かれています。作業が終わると、また、他の所へと移動します。やがて、滝田の家の勝手口の前を通りかかります。簾越しに、行水中の奥さんが「あっ やってってちょうだいな」と、この作業人に声を掛けます。すると、この作業人は滝田の家の勝手口から土間に入り、汲取り口を開けて、先ほどと同様に、「カーリカーリカーリカーリ」と汲取り口の回りを擦り、何かを取っています。作業代を請求している場面が出てきませんので、無料なのでしょう。
何の作業をしているのでしょうか。先ほど描かれていた汲取り人とは、顔立ちも服装も違います。
汲取り入は、屎尿を汲取った後、汲取り口の回りには消毒と消臭を兼ねて、石灰を撒いておくそうです(この漫画にはその場面は出てきませんが)ので、少し垂れた屎尿と石灰とが混ざり合った物(一部は化学反応を起こし、リン酸カルシウムになっている)を擦り取っているのではないでしょうか。言ってみれば、汲取り口を掃除しているのです。そして、擦り取った物を四角い缶に入れて持ち帰り、肥料として自分で利用あるいは他者に販売していたのではないでしょうか。
図−11 汲取り口の掃除(P500の全部の絵、P501の上の右の絵)
10.ごみの収集
図−12と図−13は、ゴミを収集している風景です。大八車に大きな木の箱を括り付けたゴミ収集車を牽いて来、とある街角で止めます。そして、「ガラーン、ガラーン」と、鐘を鳴らして近所の人々に知らせます。すると、手に手に生ゴミ(厨芥)の入ったバケツを提げた割烹着姿の奥さん方が集まってきます。そして、順番で収集車に生ごみを入れています。収集車には東京市のマークが付いています。鐘を鳴らしている収集人の左手には藤蔓(あるいは竹)を編んだ浅い籠が携えられています。
図−12 ゴミ収集車到着の合図(P390の絵)
図−13 厨芥を入れる(P137の中の絵)
ところで、各家の道路際に置いてあるゴミ箱の中身(厨芥以外の可燃性雑芥)は、どのように収集するのでしょうか。滝田の漫画には描かれていませんが、可燃性のゴミを集める別の収集車が来ていたそうです。それは厨芥は、当時のゴミ焼却施設の能力の関係で燃やすことができず、ブタなどの家畜の飼料あるいは埋立て処分されていたからです。現在の分別収集とは意味合いが少し異なりますが、当時も、燃え難い厨芥と可燃性雑芥とに分けて収集していたのです。
11.おわりに
滝田は、玉の井についてこうも述べています。
「雨とくればすぐ水が出る露地だらけ、ドブだらけの玉の井銘酒屋寺島町。なんしろ あのへんの道の出来具合ときたら、真ン中からこう両脇へツゥーとこうなってて、そんでもってたいていポコってドブがあって、低くなってるから、そのドブだって水はけ悪いし、…。でつまり雨が降ってドブ板がプカプカ浮いて、…。」(「昭和ベエゴマ奇譚」(学習研究社))
昭和10年代の東京の下町の典型的な情景です。さらに、トイレは汲取り式で肥桶を運ぶリヤカーが路地から路地を巡っていたわけです。蚊や蝿が飛び交い、ドブや屎尿の臭いが辺りに漂っていたことでしょう。人々はそんな住環境の中で生活をしていたのです。わずか70年ほど前の話です。
参考文献(本文中で明記したものを除く)
1)たましん歴史・美術館編:「滝田ゆうの仕事」 (財)たましん地域文化財団
2)前田豊著:「玉の井という街があった」 立風書房