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江戸川柳から見る下水と暮らし

栗田 彰 氏(2008/02/09)
水とくらしを考える下水道の会 第20回総会記念講演
平成19年8月1日 山形市「ホテルキャッスル」2階 弥生

[ご挨拶]
[江戸下水]
[水道と水屋]
[水汲]
[井戸]
[井戸替]
[洗濯]
[入浴]
[雨]
[屎尿]
[締めくくり]

[ご挨拶]

 栗田と申します。略歴はプロフィールに書いていただいた通りに相違ございません。現在は素浪人生活を送っております。
 本日は、「水とくらしを考える下水道の会」の第20回の総会だそうで、私も朝から皆様方の熱心なご討議を拝聴させていただきました。
 私は現役の頃から日本下水文化研究会の会員になっておりまして、第2回でしたか、「下水文化研究発表会」で、こちらの「水とくらしを考える下水道の会」の発表を聞かせていただいたことがあります。大変素晴らしい活動内容でしたので、当時、私も運営委員の一員として、皆様方の活動報告を優秀論文に推薦させていただいたことを覚えております。
 本日、この第20回という記念すべき総会に私ごとき者をお招きいただき、皆様方の前でお喋りする機会を得まして、大変光栄に存じております。
 皆様方の期待にお応えできるかどうか、わかりませんが、マ、年寄りのお喋りだと思って、諦めてお聞き下さい。
 私が「江戸の下水道」について調べてみようと思ったキッカケは、下水道局の広報係に勤務しておりましたときでした。もう20年以上も前になります。
 あるとき、一人の都民の方が局を訪ねて来られまして、「明治以降の下水道のことはよくわかるンだけど、明治の前の、江戸時代の下水道はどうなっていたのか」と聞かれました。ところが、私など考えても居なかったことでしたので、「多分流れているうちに道路に浸み込んじゃッたんじゃないでしょうか」なんて、言ってしまいました。知らないということは、恐ろしいモンです。
 でも、歴史学者の中にも、当初の江戸の下水は「会所地」に流し込まれていたなんて、本に書いている方もいらっしゃいます。これは、間違いです。後世の「沽券絵図」には、「会所地」の廻りに下水がつくられていたことがわかる、名残りが描かれているのです。
 なにしろ、その都民の方が訪ねて来られた当時の下水道局には、その方のご質問に答えられるだけの資料が無かったのです。
 それから、これは調べておく必要があると思ったのですが、何をどこから、どう調べたらよいのか皆目見当が付きませんでした。そのうち、フッと、川柳が「江戸庶民風俗資料の宝庫」といわれていることを思いついたのです。
 調べ出しますと、そのうちに、川柳ばかりではなく、江戸の地誌ですとか、浮世絵、戯作本などにも、江戸の下水道のことがいろいろ書かれていることがわかってきました。
 そんなわけで、本日は「江戸川柳から見る下水と暮らし」について、少しお喋りをさせていただきます。
 前置きが長くなってしまいましたが、 まず、ご当地を詠んだ川柳、といっても、山形市ではなく、山形県になりますが、ご当地に関係のある川柳からご紹介しましょう。
 
 ○名の高い下女は流しの口を吸い〔柳多留一二一〕
 
 「口を吸い」という色っぽい言葉を遣って気を持たせています。川柳には「下女は好色」という約束があります(「公職」ではありません。色を好む方です)。嫁さんは可愛くて初々しい。姑は意地悪。若旦那は道楽者。伊勢屋はケチ。といった具合に約束事がありました。それで、下女は好色という約束事から、「口を吸い」なンてェ言葉で気を持たせているわけです。
 ところがこの句の下女は「お竹さん」と申しまして、「好色」どころか、大変慈悲深い人で、自分の食事は物乞いに来る人たちに食べさせ、自分は流しの排水口に張った網に溜まった飯粒を食べていたのだそうです。ですから「口を吸い」というのは、この「流しの排水口から取った飯粒を食べていたことを言っているのです。
 この「お竹」さんは、日本橋大伝馬町の名主の家で働いていた女中さんなのですが、この「お竹」さんが、出羽国庄内の出身で、実は大日如来の化身であった、というよく知られた伝説があります。それで「名の高い下女」ということになるわけです。竹女故事
 一の絵を御覧下さい。『江戸名所図会』の「竹女故事」の挿絵です。ここに描かれている女性が「お竹」さんです。
 いまも、羽黒山の麓の「手向」という所に「黄金堂」がありまして、そこに「お竹大日堂」があって「お竹大日如来像」が祀られています。お竹さんを描いた絵馬も掛けられています。
 実は、この句と、この絵から、江戸の下水道を読み取ることができるのです。絵をよく御覧下さい。流しの端に網が吊されています。そこから光が放たれています。
 
 ○流しへも光明のさす下女が徳〔柳多留一二四別〕
 
 お竹さんの徳を称えた句です。この流しに網を張ってご飯粒を溜めるというのは、お竹さんが食べるためなのかも知れませんが、私には、この伝説は「ごみを下水へ流してはいけない」ということを教えているように思えるのです。「流し」に「ディスポーザー」なんかを取付ようという発想とはまるで逆です。
 もう一度、絵を御覧下さい。流しの下に細い溝が描かれています。この溝からの下水は台所の出入り口に描かれている石の蓋がされた「下水」に流れ込みます。ここから台所の窓の下を通って、井戸端と隣の家との間にある石組の「下水」から、裏口の外の道路の端につくられていた、道端の「下水」に流れ出ていたものと考えられます。
 江戸の町には、道路の両側、屋敷地と屋敷地との境、町と町の境には、石組か木組の「下水」がつくられていました。
 ここで、ちょっとお断りしておきますが、江戸時代には、雨水や台所からの排水などを「下水」と言っておりましたが、その「下水」が流れる「水路」のことも「下水」と言っておりました。
 言ってみりゃァ、「下水道」なんですが、「下水道」というと何となく近代下水道の暗渠の下水道管を連想してしまいます。ですから『江戸の町には下水道はなかった』と書かれた本も何冊かあります。これは現代の下水道を考えてしまうからなのです。
 私は江戸の下水道のことを、お話しするときは、いつも、両方とも「下水」と言っております。まぎらわしいかと思いますが、よろしくご判断ください。
 さて、話を「お竹さん」に戻します。
 
 ○行く所(とこ)は湯殿流しは置き土産〔柳多留四二〕
 
 お竹さんは大日如来となって、湯殿山のある庄内へ戻り、江戸で奉公した家には「流し」を置き土産にしたという句です。「湯殿」と「流し」の縁語仕立ての句です。川柳にはこういう言葉遊びがよく見られます。
 「お竹」さんが使った「流し」といわれるものが、東京の「心光院」というお寺さん=港区東麻布・東京タワーの下=に残されているそうですが、私は見たことがありません。

[江戸下水]

 さて、「江戸の下水」の話に移らせていただきます。さきほども申し上げましたように、江戸では「下水」が流れる水路のことも、水路を流れる「下水」のことも、両方とも「下水」と言っておりました。
「下水道」という言葉が使われていなかったわけではありません。
 例えば、江戸時代前期の明暦三年(一六五七)の九月二十九日の御触に
「一つ、町中大下水道浚え、塵芥銘々の所にて取り上げ、下水滞り無く流れ候ように仕るべく候こと。
   一つ、表の雨落下水道の儀も、念を入れ浚え申すべく候。(云々=以下略)」
 などと、使われています。ほかの御触にも「下水道」という言葉をつかったものがあります。

 ○小侍くもと下水で日を暮らし〔柳多留二〕

 川柳で「下水」という言葉が使われていますのは、この句ぐらいではないでしょうか。私にはほかに見つけられませんでした。
 「くも」は虫の蜘蛛です。この句は「下水」という言葉から、「下水」にいる「ミミズ」を連想させます。「小侍」は武家に雇われている少年です。召使いの少年です。小侍が仕えている武家が飼っている小鳥の餌にする蜘蛛やミミズを採って、ご主人から小遣いをもらっていたのという句です。小遣い稼ぎを大袈裟に「日を暮らし」と言ったのです。
 大名屋敷でなくても、普通の武家屋敷でも、屋敷の廻りにはかなり大きな「下水」が造られていたようです。
 江戸の風俗に詳しいと言われていた岡本綺堂の『半七捕物帳』などを読みますと、半七が武家屋敷へ探索に出かけまして、水の流れていない「下水」に身を潜めて、屋敷の前で立ち話をしている武士の様子を伺う場面が描かれています。そういう所で、この川柳の小侍が蜘蛛やミミズを採っていたのでしょう。

 ○黙礼のなかを流るる割下水〔武玉川二〕

 「割下水」というのは、本所という所にあった排水路です。道路の真ん中を掘り割ってつくられたので「割下水」と言われておりました。「割下水」は地名としても通用していました。葛飾北斎は「割下水」の生まれ、といわれています。割下水で生まれたからッて、ボーフラじゃありません。有名な浮世絵師です。
 本所は、「明暦の大火」の後、武家地を中心に開発された所ですが、もともとが湿地帯でしたので、排水路がたくさんつくられました。
 句は道路の真ん中を流れる「割下水」を挟んで、近所の武家同士が黙礼を交わしている
という光景です。

 ○井出よりも蛙の多い割下水〔俳諧ケイ二〕

 「井出」は京都の井出の玉川といわれた所で、蛙の多いところなのだそうです。井出よりも割下水の方が蛙が多いと言っているのですから、「割下水」の水はそんなに汚れていなかったようです。「割下水」が汚くなったのは明治中期以降、付近に工場が出来てからのことで、それまでは水も綺麗だったし、春には花見客でにぎわった、と書かれている本(『隅田川とその両岸』)もあります。

 ○せせなげへうっかり落ちるほととぎす〔柳多留三四〕

 「せせなげ」というのは、「下水」のことなのだそうです。
 句は、ほととぎすの鳴き声を聞いて、空を見上げながら歩いていたら、うっかり、「下水」へ落ちてしまった、ことを詠んでいます。
 「せせなげ」と言う言葉は『浮世床』という戯作本の中で、巫女さんが口寄せをする場面に出て来ますが、江戸ではあまり使われていなかったと思います。
 一般的には「どぶ」だったと思います。川柳にも「どぶ」を詠んだ句は沢山あります。

 ○曰くと田の字お屋敷の窓とどぶ〔柳多留一一五〕

 二の絵を御覧下さい。現在、外務省が建っている辺りの 「霞ヶ関」の絵です。左右とも大名屋敷です。屋敷の廻りに石組みの「下水」がつくられています。左側の屋敷の「下水」の中に柵のようなものが描かれているのがおわかりでしょうか。
 「下水」と一緒に流れてくるごみを取るための柵だと思います。この絵では「田」の字には見えませんが、「下水」の中に柵が取り付けられているのがわかります。
 「曰く」の字は窓の横桟だと思います。この絵では窓の格子が縦になっていますが、武家屋敷を囲む長屋の窓には横の桟が嵌め込まれていた所が多かったのだと思います。
 もう少し、この絵の説明をさせてください。左側の屋敷の石垣に黒い箱のようなものが取り付けられています。これは屋敷地からの下水を石組下水の中に直角に落とすための工夫だと思います。この箱が無いと、屋敷からの下水は、「石組下水」に入らず、勢いよく道路へ飛び出してしまうわけです。
 それと、左側の屋敷の角の道路に桝のようなものが描かれています。これは、はじめ上水の桝かと思ったのですが、江戸の水道絵図を見ますと、霞ヶ関辺りは玉川上水が道路の真ん中を通っていました。ですから、ハッキリしたことはわかりませんが、これは屋敷の左手と坂の上からの「下水」を合流させる役割と、下水と一緒に流れてくる泥を沈澱させ、汚泥を取り除くための桝ではないかと思います。
 ついでに三の絵を御覧下さい。橋の下を流れている水路は「鮫河」という細流なのですが、『御府内備考』という江戸の地誌の本には、この付近では「大下水」といわれていたと記録されています。ここには丸太の杭が打たれています。家の前を鉤の手に曲がってつくられている。「木組の下水」が「鮫河」に流れ込む所にも杭が打たれています。
 このように、江戸の「下水」には、いたるところで、「下水」を流れるごみを取り除くための工夫がされていたことが考えられます。
 図の四は、日本下水文化研究会が「下水文化叢書」の第一号として発行した『江戸 神田の下水』という本に載っているものです。
 江戸城の外堀に面した町からの下水が、お堀に流れこむ手前の所に、「下水」の底に「合掌」を組んで、ごみの流れるのを食い止める工夫がされています。また、下水がお堀に落ちる手前の道路上に「溜」が設けられています。下水がお堀に落ち込んだ所には、ごみがお堀に流れ出ないように、「ごみ溜矢来」がつくられています。このように、二重、三重に、ごみを取る工夫がされていました。

○二股の土(つち)大根めくどぶさらい〔一一八〕

 「二股の大根」で人の足を連想させます。それに泥がついて「土大根」のようだ、というのです。
 「どぶさらい」をするのですから、足元はどうしたって泥でよごれます。
  五の絵は「どぶさらい」をする人の絵です。大きなお屋敷の廻りの「下水」を浚っているように見えます。
 江戸時代の前期から中期までは、町奉行所から町方に対して頻繁に「下水浚い」をするように、という御触が繰り返し繰り返し、出されていました。これが、江戸時代中期の元禄(一六八八〜)に入ってからになりますが、「下水浚い」の御触は極端に少なくなります。
 「下水浚い」が町方に定着したのでしょう。それまで、同じような御触を何回も何回も出していた奉行所の根気の良さに感心してしまいます。
 
 「下水浚い」は町方ではその町で雇っている鳶の者(火消人足)の仕事とされていました。幕府の施設(例えば、蔵・奉行所・組屋敷・郡代屋敷・評定所・伝奏屋敷)などは「黒鍬の者」という、土木の仕事を担当する武士の仕事とされていました。大名家や旗本などの武家屋敷では、この絵のようにその家の使用人が「下水浚い」をしていたと思います。
 堀や川を定期的に浚う「定浚い」というものもありました。幕府から一定の土地を貸し与えられまして、その土地を人に貸したり、あるいは家を建たりして、その土地代や家賃収入を、堀や川を浚う経費に充てていました。江戸城の外堀や隅田川のような大きな堀や川などを浚うときには、請負に出されていたことがわかる町触もあります。
 
 ○どぶさらい古かね買いも一度はめ〔寛政六年〕

 この句の「どぶ浚い」は「下水浚い」を仕事にしている人です。
 「古かね買い」は使わなくなった金属を買い集める商売をしていた人です。使い物にならなくなった鍋や釜、鉄瓶ですとか、壊れた簪、煙管の吸い口だけ、火皿だけになったものなどを買って、問屋に売り、問屋は集まった金属を材料として再生する業者に売っていたそうです。
 もっとも鍋や釜に穴があいてしまったくらいのものは鋳掛屋という、そういった穴を塞ぐ仕事をしていた人もおりました。ですから、「古金買い」に売るものは直しようのない、使えなくなったものです。
 この句の「はめ」というのは騙すことです。「どぶ浚い」をしていれば、浚った土の中から人がうっかり落とした簪ですとか、煙管なんかを拾い出すことがあったのだと思います。安物の煙管なのに「こりゃァ、お前ェ、本物の銀煙管だぜ」なんて騙して売りつけたのでしょう。
 再利用ということで、ついでに申し上げますと、江戸には古着屋という商売がありました。一般の町人は新しい着物を作ることなどなかなかできなかったようです。みんな古着で間に合わせていました。
 その古着も古くなれば、赤ん坊のオシメにしたり、雑巾に使ったり、とことんまで使いきったようです。
 次の句は、古くなった「流し」を詠んだものです。

 ○流しの再勤箱庭の隠居役〔柳多留(十)別〕

 台所の流し台が古くなったので、新しく作り直したのでしょう。使わなくなった「流し」をごみや薪にする前にもう一働きさせようというのです。古流しを使って箱庭を作ったのです。流しは現役を引退し、箱庭となって隠居しているわけです。
 これは川柳ではありませんが、江戸町触集の中に、古くなった船の板を、下水の側面や底板に使っていたことがわかる文言が残されています。
 「江戸の下水道」とも言うべき、「どぶ」を詠んだ川柳をいくつか揚げてみます。
 
 ○放れ馬旦那どぶから首を出し〔玉柳一二〕
 
「放れ馬」は手綱から放れて走り出した馬です。道路を馬が駆けて来るのですから、危ないので旦那が「どぶ」へ避難をしたわけです。馬が走り去ってから、ひょっこりと首を出して様子を伺っている光景です。

 ○ままごとはどぶへ入った子がお客〔拾遺九〕

 お客さんは訪ねた家へ上がり込むわけですから、低い「どぶ」から、一段高い「道」へ、上がることになります。
 前の句にしても、この句にしても、「どぶ」が道端に造られていたこと、そこは普段は下水が流れていなかったことがわかります。
 雨が降れば道や軒先、あるいは天水桶から溢れた雨水が道端の「どぶ」に流れ込みます。普段、井戸端や台所から出る下水は、家々の裏、町境や屋敷地境の下水に流れこんでいたものと考えられます。
 しかし、大きな武家屋敷やお寺さんですとか神社に近い所ですと、庭の泉水が表の下水に流れ込んでいましたから、普段でもきれいな水が流れていたと思います。二の絵にも下水にかなりの量の水が流れている様子が描かれています。
 
 六の図を御覧下さい。町の屋敷地の絵図です。図の上と、右側が道路です。二重線が道端の下水です。これを「表の下水」とか「雨落下水」とか言っておりました。
 右側の道路に「井戸」があります。井戸端からの下水は長屋と長屋の間の路地の「下水」を通って、図の左側にある隣との屋敷地境の「下水」につながっています。この「下水」には、長屋の台所からの下水も流れこむようになっています。途中には「桝」もあります。「桝」は下水の流れる方向を変えるだけではなく、そこである程度の汚れは沈澱させる役割を果たしていたと思えます。
 この図の屋敷地のあった町が描かれている『江戸切絵図 京橋南築地鉄炮洲絵図』を見ますと、隣屋敷との境の「下水」は、この図の下の方で「鉄炮洲川」という川につながっています。「鉄炮洲川」は隅田川につながっていました。
 
 七の絵は商店の前の「雨落下水」です。軒下に石組の「雨落下水」が描かれています。この絵には蓋が描かれていませんが、道端の「下水」には、人や荷車の車輪が落ちないように蓋をするようにという、御触も出されていましたから、普通は板や石の蓋がされていた筈です。しかし、「下水が汚いから、臭いから蓋をする」のではなく、人や荷車の車輪が落ちないように蓋をしたのです。
 次の句を読みますと、場所によっては蓋のされていない「下水」もあったように考えられます。
 
  ○生酔(なまえい)はどぶで抜き手を切っている〔柳多留一三〕
 
 「生酔」は酔っぱらいのことです。酔って「どぶ」に落ちて慌てている情況です。七の絵のような「どぶ」では、人が落ちることはできませんが、
 
 八の絵ぐらいの「どぶ」ですと、「抜き手を切る」ことも出来そうです。ついでに申し上げますが
 
 ○どぶ端に何のためだかどかり石〔柳多留一四七〕
 
 という句があります。この絵にも上の方の「どぶ端」に石が描かれています。先ほどの五の「どぶ浚い」の絵にも「どぶ端」に石が描かれています。川柳が言うとおり、全くのところ「何のため」なのかわかりません。
 江戸の町の「下水」の様子を、ごく大雑把に申し上げました。


 

[水道と水屋]

 次に、江戸では水をどのようにして得ていたか、また、どんな使い方をしていたのかを見たいと思います。
 江戸の人たちが使っていた水は、細かいことは省きまして、ごく大雑把に申しますと「神田上水」と「玉川上水」、それに掘抜井戸の水ということになります。
 洗濯ですとか、洗い物などの雑用水は、「中(なか)水(みず)の井」と言われたあまり深く掘らずに水を得られた井戸水を汲み上げて使われていました。

 ○ありがたさたまさか井戸で鮎を汲み〔柳多留二八〕

 この句は「玉川上水」を詠んだものです。「上水」とは言っても、川の水そのものです。鮎は多摩川の名物でした。その鮎が、江戸の町の中の水道井戸に流れ込んでいたのです。
 九の絵は、「水道井戸」を描いたものです。この井戸がなぜ「水道井戸」と言えるかと申しますと、水を汲み上げる竿釣瓶が描かれているからです。
 掘抜井戸は水面までかなり深かったのですが、「水道井戸」はそれほど深くはありませんでしたので、竿の先に桶を取り付けた「竿釣瓶」で汲み上げられたのです。
 
 ○井の頭尻尾の長さ四里四方〔柳多留四五〕

 「井の頭」というのは、「神田上水」の水源だった「井の頭池」のことです。
 句は「イノカシラ」から猪を連想させて、尻尾を持ち出しております。
 猪の尻尾の長さが四里四方もある、というのですが、これは「井の頭池」から出た「神田上水」が江戸市中に行き渡っていることを言っているのです。江戸市中の広さを一口に「四里四方」と言っていました。
 「神田上水」は、江戸城を中心にして、北東の地域、神田・日本橋辺りの人たちに使われました。
 「玉川上水」は、江戸城を中心とする、南西の地域、麹町、赤坂、霞ヶ関、芝、京橋辺りの人たちに使われました。
 十の絵を御覧下さい。左側の絵が江戸の水道の仕組みを描いたものです。下の絵を見ますと、水道の水が流れる木樋から呼樋と呼ばれる竹筒を通って水道井戸の底の方に流れこむようになっていました。
 この水道井戸は、工夫の内容は存じませんが、いつも一定の水位を保つように作られていたそうです。ですから、井戸から水が溢れたり、水が無くなってしまうようなことはなかったそうです。
 江戸城や霞ヶ関辺りにあった大名屋敷などにも「玉川上水」が配水されていましたが、殆どが庭園の泉水用だったようです。
 江戸城を初めとして、大名屋敷や、旗本などの武家屋敷の多くはは山の手の高台にありましたから、井戸を掘れば良い水が得られたと思います。飲料水は掘井戸水を使っていたようです。
 
 ○そこが江戸一荷の水も波で売り〔柳多留七二〕

 これは、「神田上水」、「玉川上水」の行き渡らなかった隅田川の向こう側の、本所・深川地域で水を売り歩く「水屋」のことを詠んだ句です。
 本所深川地域は井戸を掘っても飲み水に適する水が得られなかったので、水屋が運んでくる水を買って使っていました。
 今の東京駅の八重洲北口の近くにあった堀に架かっていた「銭瓶橋」という橋のたもとに、「神田上水」と「玉川上水」の余水の落ち口があったのです。そこから、その余水を船に積み込んで本所・深川へ運び、それを水屋が桶に移して担いで売り歩いたのです。 
 天秤棒の両端に提げた桶二つの分量を「一荷」といっていました。
 「波で売り」というのは、一荷を四文で売ったということです。「四文銭」には波形の模様がついていたことから、「波銭」と言われていたそうです。
 「そこが江戸」というのは、「江戸じゃァ水を買って飲んでんだァ」ッてェとこでしょうか。もっとも、大坂にも水屋という商売はあったそうですから、そんなに威張れたもンじゃァありません。
 
 十一の絵に「水屋」が描かれています。
 水屋が運んでくれる水は一荷が四文でしたが、神田上水や玉川上水の方は「水銀(みずぎん)」という水道代のようなものがとられていました。
 現代の「水道料金」とは違って、水道を使わなくても、水道の給水地域内に土地を持っていれば、支払わなければならないものだったようです。町人は自分の持っている土地の間口に応じて、町の経費の一部として支払いました。町の経費というのは、「町入用」と言われ、迷子や捨て子の養育費ですとか、木戸番の経費、上水や下水、道路、橋などの修復費用などに使われる費用のことで、地主が自分の持っている土地の間口に応じて払っていました。武士は禄高に応じて払っていました。


[水汲]

 ○薪水の労をたすける下女が色〔柳多留一二〕

 「水汲み」は重労働でしたが、どういうわけか女性の仕事とされていました。
 この句では薪割りですとか水汲みなどの重労働を下女の恋人が手助けしてやっていることを詠んでいます。
 「水汲み」は大変な仕事でしたから、水は大切に使われていたようです。例えば、朝、顔を洗った後の残り水は下水に捨てたりせずに、桶に取っておいて拭き掃除に使う。それでも残っていれば植木に撒く、とかしていたようです。米の研ぎ汁なども、拭き掃除(艶が出た)や植木の肥やしにしたり、埃っぽいときなら、道に撒いていました。「下水」に入る量はごくわずかだったと思います。
 「水汲みは女性の仕事」とは言いましても、女性より立場の弱い者は女性に使われることがありました。その家に厄介になっている「居候」ですとか、朝帰りをして女房に弱味をにぎられた亭主、それと御用聞きなんかが、オカミサンに水汲みをさせられている場面が戯作本に描かれています。

 ○若水を地主の後で大屋汲み〔柳多留五〇〕

 女房に弱味がなくッても、男が水汲みをしなければならないときがありました。
 新年の「若水汲み」です。正月最初の水を汲むのは男の仕事とされていました。若水はその家の家長が汲んで、その水でお茶を淹れ、雑煮もその水でつくり、正月を祝ったそうです。
 男が若水を汲むということは、正月ぐらい女性を休ませよう、ということのようで、こういう言い伝えはどこの地方にも残されているようです。「水とくらしを考える会」が出された「水とくらし」の冊子にも同じようなことが記録されています。
 長屋では大屋さんがいちばんエライことになっていまが、大屋さんといっても地主から長屋の管理を任されている、言ってみれば地主の使用人なのです。ですから、大屋さんが若水を汲もうとしたところへ、地主さんが汲みに来れば、大屋さんは、地主さんが若水を汲んでから、汲んだわけです。
 しかし、どちらも町役人ですから、権威はありました。

 ○若水を大屋の女房先へ汲み〔柳多留六一〕

 大屋さんご自身は病気なのか、それとも、もう亡くなってしまったのか、この句では大屋さんのオカミサンが若水を汲んでいます。


[井戸]

  ○山の手の目見えは井戸を覗いて見〔拾遺一〕

 先ほども申し上げましたが、大名屋敷や武家屋敷は高台に建てられていましたから、井戸を掘れば良い水が得られました。
 この句は武家屋敷とは限らないと思いますが、武家屋敷かあるいは近所の商店、何れにしましても、山の手の高台の家に、奉公をしようかという女中さんが、水汲みの労を思って「井戸を覗いて」みたのです。あんまり井戸が深ければ「水汲み」が大変ですから、この家に奉公するのは止めようというわけです。
 「水道井戸」なら竿釣瓶で水を汲めますが、深い掘井戸ではそうはいきません。深い井戸ですと「車井戸」といわれ、滑車を使って縄の両端に取り付けた桶で、交互に汲み上げました。

 ○親のない女房は井戸でこわがらせ〔絵本柳樽二〕

 十二の絵に描かれているのが「車井戸」です。夫婦喧嘩の果てに、女房は、親がもう居なくなっちゃいましたので帰る所がない。「くやしいッ」てンで「井戸に飛び込んで死んじゃうッ」と、言うのでしょうが、絵をよく見てください。近所の人達が抱き止めていますが、女房の手はちゃんと縄を掴んでいます。死ぬ気なんか無いんです。「怖がらせ」ただけなんです。

 ○番町の古井戸で呼ぶ焼継屋〔柳多留四六〕

 この句は「番町皿屋敷」という噺をもとにしています。腰元のお菊さんが殿様の言うことを聞かなかったために、癪に障った殿様が家宝の皿をわざと割っておいて、それをお菊さんが割ったと言いがかりを付け、手討ちにして、死骸を古井戸に放り込んだのです。それからというもの、古井戸からお菊さんの恨み声が聞こえるようになった、という噺なのですが、この「焼継屋」というのは毀れた瀬戸物などを釉や鉛の入った粉などを使って繋いで元通りに使えるようにすることを商売にしたのです。こういう商売もあったのです。


[井戸替]

 江戸では年中行事として七月七日に「井戸替」が行われていました。井戸の水を汲み出しますと、井戸屋が井戸の中に入り、井戸の廻りを洗って、井戸側をはずし、底に溜まった泥を掻い出すのです。桶に泥を入れますと、上にいる大屋さんの掛け声で、桶に結ばれた縄を長屋の連中が総出で引き上げます。

 ○井戸替えの綱深さを横に見せ〔柳多留一〇(別中)〕

 十三の絵を御覧下さい。井戸替えの光景です。井戸の底から泥の入った桶を引き上げるのですから、桶に結びつけられた縄の長さで井戸の深さがわかると言っているのです。掘抜井戸ばかりではなく、水道井戸でも同じように井戸浚いはしていたと思います。

 ○人を汲み出すと井戸替え仕舞いなり〔柳多留一四〕

 井戸の中がきれいになりますと、最後に井戸屋が入った桶を引き上げて、井戸側を元に戻して、井戸替えがオシマイになります。井戸替えが済みますと、塩を供え、井戸の中に御神酒を一滴垂らして、お清めをしたそうです。
 
 ○井戸替えだそうで泥水おしてくる〔藐姑柳・追〕

 年中行事の井戸替えならば、江戸中どこの町でも井戸替えをしているのですから、「井戸替えだそうで」ということにはならないと思います。これは隣町あたりから「下水」を泥水が流れてくるので、何事かと思って行ってみたら、井戸替えをしていたのです。
 「下水」が町から町へつながっていた様子がわかる句です。

 ○急な井戸替えひと長屋猫を飲み〔柳多留一六〕
 ○長屋中検死がすむと井戸を替え〔柳多留三〕

 猫が井戸へ落ちたり、人が井戸へ飛び込んだり、といったことがあれば、臨時の井戸替えをしたことでしょう。

 ○井戸側の引きときを敷く悪い道〔柳多留一〇一〕

 「引きとき」というのは綿入れの着物をほどいて綿を抜き、袷や単衣にすることだそうです。でも、これは解いた着物の布のことを言うのではないでしょうか。そうでないと、バラバラにされた板の使いようと合わなくなってしまいます。
 井戸替えの時に井戸側を新しいものと取りかえることがあったのでしょう。古い井戸側の板をばらばらにしたものを、着物の「引き解き」に見立てたのだと思います。
 古い井戸側の板をぬかるみになる路地にでも敷いたのだと思います。言ってみれば、これも再利用の一つです。


[洗濯]

 「洗濯」の句に移らせていただきます。「洗濯」を詠んだ川柳を探していて、いちばん驚いたのは、江戸時代にも洗濯屋があったということです。
 
 ○洗濯屋近所の人の垢で食い〔柳多留三六〕
 
 「洗濯屋」といっても、現在のクリーニング店のように、店をかまえていたかどうかはわかりません。
 
 ○洗濯できれいな後家の暮らしよう〔柳多留六四〕
 
 この句は「洗濯」と「きれい」の縁語仕立てになっています。この句から、亭主の残してくれた遺産で高利貸しを始めたとか、食うに困ってどこかの狒々爺ィのお妾さんになったりはせずに、近所の洗濯物を洗ったりして、一人でつましく暮らしていた後家さんのことを詠んでいます。「洗濯屋」というのは、こういう人たちを指していたのかも知れません。
 でも、「洗濯屋」に何を洗ってもらったのでしょうか。普通ですと、着物などは自分で解(ほど)いて、自分で洗い張りをして、また自分で仕立てていました。腰巻きや襦袢などを洗濯屋に洗って貰うことなど考えられません。多分、人手の足りない家とか、お産や病気でオカミサンが寝込んでる家の洗濯をしたのでしょう。

 ○洗濯のときは足駄を尻へ履き〔柳多留二九〕
 
 十四の絵を御覧下さい。洗濯をしている女性のお尻の下に足駄が描かれています。足駄は足に履くものですが、洗濯の時にはお尻に履いています。
 この絵でもう一つ見ていただきたいものがあります。盥の脇にある小さな桶と、その上に大きめの桶が描かれています。これは「灰汁桶」といって、嫁入り道具として持たされたものだそうです。
 灰を濾して出てくる「灰汁」が洗剤の役割を果たしていたのです。灰は洗濯だけではなく、酒づくりや、染め物、和紙づくりにも使われたそうで、灰を売買する問屋もあったということです。
 江戸時代にはガスや電気はありませんから、煮炊きには薪を使いました。ですから、灰はどこの家からも出るわけです。灰を買い歩く「灰買い」と言う商売がありました。
 それで、町ン中をうろうろ歩き廻ることを「ハイカイ」と言うッて…、これはウソです。
 
 ○豆腐の湯御用に内儀手をあわせ〔柳多留四〕
 
 洗濯の洗剤には「豆腐の湯」も使われたそうです。「御用」は御用聞きです。オカミサンがご用聞きに豆腐屋から豆腐の湯をもらってきてくれないか、と頼んでいるわけです。運ぶのが大変だからでしょう。
 
 ○豆腐の湯たびたび貰うまめな下女〔柳多留九〕
 
 この句は「豆腐」と「まめ」の縁語仕立てになっています。「まめ」は、よく働くことです。よく洗濯をする女中さんなのです。


[入浴]

 風呂の話に移ります。江戸では大きな商店や、身分の高い武家屋敷以外で、自分の家に風呂場を持つことは出来ませんでした。水が豊富になかったことと、湯を沸かす薪代が高かったからです。殆どの人が町の銭湯を使っていました。
 銭湯を詠んだ句はたくさんありますので、下水と暮らしに関連するものを少しだけご紹介しておきます。
 
 ○据風呂の仕舞いどぶから湯気がたち〔川傍柳〕
 
 この句は銭湯を読んだものではありません。「据風呂」はいまでいう内風呂です。大きな商店などでみんなが風呂に入り終わって、風呂の湯を捨てると、家の廻りにあった「どぶ」から湯気が立ったと言っています。この句から、江戸の「下水」が浸み込みなんかでなかったことがわかります。
 大勢の人が入った後の湯ですから、捨てるよりしようがなかったのでしょう。
 これが、農家なんかですと、風呂場の洗い場の床が竹の簀の子になっていて、そこで使った湯を床下に溜めておいて、堆肥に撒いて、肥やしに使ったそうです。
 
 ○女湯のどぶへ流れる子の手桶〔柳多留七〇〕
 
 「女湯」は銭湯の「女湯」のことです。銭湯の洗い場には幅が一寸(約三.三a)ほどの「溝」がつくられていました。洗い場で使われた湯がこの「溝」を通って外の下水へ流されていたと考えられます。
 江戸の下水道について調べはじめましたとき、水をたくさん使うお風呂屋さんや蕎麦屋さんに目をつけたのですが、いまだにそのままになっています。
 いま岩波文庫になっている『近世風俗志』(全五巻)のなかに、江戸と大坂の銭湯の図があるのですが、銭湯の中だけで、銭湯の外まで描いた図面はまだ見たことがありません。江戸時代の絵図面でもあれば、と思って、浴場組合を訪ねたことがありましたが、なにも残されていませんでした。逆に「何かあったら、教えてください」なんて言われてしまいました。蕎麦屋さんの絵図もまだ見つけることが出来ずにおります。
 
 ○明と今日両面の湯の休み〔柳多留一一九〕

 十五の絵の右端に「明日休」と書いた札が下がっています。これで、ここが銭湯であることがわかります。この札を裏返すと「今日(きょう)休」と書いてあります。銭湯には定休日もありましたが、火を使う商売ですから、風の強い日ですとか、将軍が墓参ですとか、鷹狩りなどで外出することのある日などは、休業を命じられました。
 この絵には石組みの下水が描かれています。絵の真ん中には竹筒の雨樋から下水へ雨水が流れ落ちています。銭湯の廻りにはこのような下水がつくられていたものと考えられます。

 ○今日(こんにち)休み小便をして帰り〔柳多留四九〕

 この句の「今日」は、「こんにち」と読まないと字足らずになってしまいます。逆に前の句は「きょう」と読まないと字余りになってしまいます。
 この句は、せっかく銭湯に着たのに、今日は休みだったことをウッカリ忘れていたのか、ことによると臨時休業だったのかも知れません。「いまいましいッ」てンで、銭湯の前の「下水」に立小便をして帰って行ったのです。
 
 ○古(ふる)家(や)高値につき湯銭十文〔柳多留一〇四〕
 
 この句は、古家の木材が値上げされたので、湯銭も値上げされたことを詠んでいます。
 古家を解体した木材が薪として使われていたことがわかります。いま、東京の銭湯で薪を使って湯を沸かしているところがあるかどうかわかりませんが、多分、大部分は重油だと思います。いまでは古家などはブルドザーがあっという間に毀してしまいます。古材もパイプも再利用されることなく、産業廃棄物として処理されてしまいます。

 ○糠袋嫁調合をしては詰め〔柳多留六四〕
 「糠袋」というのは、浴用石鹸の役割を果たしていたものです。木綿の小さな袋に糠を詰めて、肌を洗ったそうです。
 「調合しては詰め」と言っていますのは、烏瓜の実や蛇骨石を糠に混ぜて使ったそうです。烏瓜の実はひびやあかぎれのくすりになり、蛇骨石といのは温泉でよくみかける沈澱した塊のようなもので、肌をきめ細かくする効果があったようです。鶯の糞も使われていたようです。
 
 ○糠袋あけずにおきゃと母の声〔柳多留二八〕
 
 「あけずにおきゃ」というのは「あけずにおきなさいよ」ということです。娘さんの使った糠袋を、後でおッ母さんが使うというのです。一度使っただけで捨てるのはもったいないといったところです。
 糠袋は銭湯でも貸してくれましたが、糠袋は自分でつくって、糠は銭湯で買うようなこともありました。
 江戸では米を籾付のままとか玄米で保存できるのは、それだけの場所を備えた大きな家ぐらいです。普通は搗米屋から白米を買って食べていました。
 糠を買い歩く「糠買い」を商売にした人も居ました。銭湯の他に染物屋とか漬物屋が糠をたくさん使いましたので、「糠買い」は搗米屋から買い集めた糠を糠問屋に売ったのだそうです。


[雨]

 雨に関連する川柳をいくつか見ていきたいと思います。

 ○海道の雲の足まで早き雨〔柳多留一一八〕

 「海道」は「東海道」とか「奥州街道」とかいうときの「街道」のことですが、普通の道路のことも「海道」といっていました。
 江戸時代前期の慶安元年(一六四八)に、『一つ、町中海道悪敷所へ浅草砂に海砂まぜ、壱町の内、高低なき様に中高に築き申すべく事。ならびにごみ又どろにて海道つき申す間敷き事』という「町触」が出されています。ここでも「海道」と書かれています。
 前にも申し上げましたが、江戸の町の道路の両側には「雨落下水」がつくられていました。この御触で道路を、『壱町の内、高低なき様に中高に築き申すべく事』と言っていますのは、道路の中央を高くして、道路に降った雨を両側の雨落下水に流れこみやすくするためです。
 句の雲は「雲助」と言われていた駕籠屋さんのことです。雨が降り出したので、駕籠屋さんが大急ぎで通り過ぎて行ったのです。
 
 ○吹き降りに娘半分蛇に呑まれ〔柳多留一四四〕
 
 十六の絵を御覧下さい。歌川広重の『名所江戸百景 大はしあたけの夕立』です。
 コピーはしてみたものの、どうもモノクロではモノ足りないので、カラー印刷をして参りました。私の大好きな絵ですので、皆様への「江戸土産」です。お持ち帰りください。
 絵の左の方に、橋を渡ってきた女性が二人描かれています。右側の女性がつぼめた傘の中に頭を突っ込んでいます。この情景が「娘半分蛇に呑まれ」なのです。「蛇」は「蛇の目傘」のことなのです。
 
 ○五段目を蛇の目で包む麹町〔柳多留九五〕
 
 この句の「五段目」は、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」の五段目に出てくる猪を指しています。「蛇の目で包む」というのは、使われなくなった「蛇の目傘」に張られていた油紙の再利用です。
 古くなったり、壊れた傘を買い集める「古骨買い」がおりました。使わなくなった傘に張られていた油紙をはがして、骨が壊れていれば直して、新しい油紙を貼り直して、傘は再利用されていました。
 はがされた油紙は猪の肉の包装紙に使われたのです。「麹町」には猪肉を売る有名な店がありました。普通では食べませんが薬食いと称して猪の肉料理を食べていたようです。
 いまでもそういうお店があります。麹町にあるかどうかは知りませんが、「両国」には猪の絵を看板にした「ももんじや」という猪料理のお店があります。私は食べたことはありません。

 ○俄雨池田伊丹に足がはえ〔柳多留五三〕

 「池田」も「伊丹」も灘の銘酒の産地です。にわか雨に降られたので酒屋から酒樽を包んでいた菰、「剣菱」とか「菊正宗」なんかの菰をもらって頭から被って雨を除けたのです。その情景を菰から足が生えたと見立てたのです。

 ○いやそうに嫁は乞食の下駄をはき〔柳多留六〕

 若い嫁さんが顔をしかめて、気持ち悪そうに下駄を履く様子が目に浮かんできます。
 江戸時代の道路は舗装されていませんでしたから、雨が降ればぬかるみになります。普段、出かけるときは草履を履くのが普通だったと思います。
 この句の場合、外出先で雨に降られて、草履では歩けず、いやいやながら乞食の下駄を借りて履いて帰ったのです。
 下駄を借りるということについて、江戸時代前期の万治三年(一六六〇)の御触にこういうのがありました。
『道悪敷町にて往行の者に下駄、足駄を貸し、銭を取り候由お聞きなされ候間、向後左
様なる義仕り間敷く候』
この川柳が載っている「柳多留 第六篇」が出版されたのは江戸時代中期の明和八年(一
七七一)ですから、百年も前から御触では禁止しているのに、相変わらずこういう商売をする者がいたのです。
 
 ○樋竹は軒の小雨のよだれかけ〔柳多留一一八〕
 
 十七の絵は戯作本の『浮世床』の挿絵です。軒先には竹筒を半分に割ってつくった雨樋が取り付けられています。軒の外れには「水溜桶」が置かれ、そこには竹筒の縦樋から雨水が桶の中に落ちる様になっています。
 
 ○一本を片身づつ売る樋竹屋〔柳多留三五〕
 いまも申し上げましたとおり、雨樋は竹筒を半分に割ってつくられましたので、魚屋が鰹を半身で売るように、樋竹屋は竹を半身づつ売る、と言っているのです。樋竹屋は梅雨入り前頃に町中を売り歩いたそうです。


[屎尿]

 次に屎尿の話に移りますが、パリやロンドンにも江戸時代と同時期に下水道がつくられていましたが、江戸の下水道との根本的な違いは、パリやロンドンの下水道は屎尿やごみを下水道に受け入れて、それをセーヌ川なりテームズ川なりに流し込んだために、大変不衛生な都市にになってしまったということです。
 江戸の下水道には、前にも述べましたように「ごみ」を捨てることを厳しく禁じていました。屎尿は近郊農村の肥料として使われていました。ですから、当時の江戸は、諸外国に比べれば格段に衛生的だったことと思います。
 いま、江戸の屎尿は近郊農村の肥料に使われていたと申し上げましたが、「尿」はかなりあとになってからのことで、当初は「どぶ」へ垂れ流しされていました。「どぶ」へ垂れ流しが出来るのは男に限ります。女性はどうしていたのか…。後に触れます。
 
 ○江戸では無用京都では担桶を出し〔柳多留四四〕

 京都・大坂では早くから、屎尿が野菜と交換されていたそうです。「小便担桶」といわれた桶を、外に出しておきますと、お百姓さんが野菜と交換して、桶に溜まった小便を持っていってくれたそうです。
 京都や大坂では路上に小便担桶を置くけれど、江戸じゃ、そんなものは要らない、と言っている句です。

 ○昨日した小便京は汁へ入れ〔柳多留一四七〕
 
 京都では前の日にした小便を翌日に汁へ入れた、と詠めそうですが、そんな馬鹿なことはありません。この句は昨日した小便が今日は野菜と交換されて汁の実になった、と言っているのです。
 この句は「昨日」と「京(今日)」の縁語仕立てにして、さらに「京都」の「京」と本日の「きょう」を、掛詞にしていると思います。
 
 ○惣後架大が兼ねてる小便所〔柳多留一三九〕
 
 いまも申し上げましたように、京都・大坂では屎尿を別々にしていましたが、江戸では小便所が町中につくられるようになったのは、かなり後(後期)になってからです。
 十八の絵でもおわかりのように、江戸の雪隠には小便所がありません。大便と一緒に踏み板の下に埋め込まれた壷や樽に溜められました。これなら女性も安心して用が足せたことでしょう。
 
 ○糞(こい)に朽ちなん酒樽や油桶〔柳多留一四○〕
 
 元本にはもちろん振り仮名は付けられていません。「糞(こい)」は、「肥料」の「肥(ひ)」をアテルのがホントですが、「糞」の文字を「コイ」と読ませます。正しくは「コエ」です。「肥え」を「コイ」というのは江戸訛です。「コエに朽ちなん」ではシャレになりませんので、「コイに朽ちなん」と読ませたのです。
 「恋に朽ちなん」というのは、百人一首の『恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそをしけれ(相模)』からの文句取りで、恋愛の「恋」を、「肥やし」の「コイ」に読み替えさせ、「糞」の文字を当てたのだと思います。
 雪隠の下に埋め込まれていた便壷のかわりに、酒樽や油桶も利用されたのでしょう。
 
 ○肥(こい)ぞつもりて大根が五十本〔柳多留三七〕
 
 「肥ぞつもりて」も百人一首の『筑波嶺のみねより落つるみなの川こひぞつもりて淵となりぬる(陽(よう)成(ぜい)院(いん))』からの文句取りです。
 「肥」の御礼が大根五十本になった、というのです。この謝礼が一年分なのか、何軒分なのか、何人分の「肥」なのかはわかりませんが、江戸の長屋では「肥代」は大屋さんの収入になったそうです。これが馬鹿にならない収入だったようです。肥代は金や野菜などの現物で支払われていました。代金や汲取人は契約で決められたそうです。
 
 ○肥取りはいやがられたり待たれたり〔新編柳多留四〕
 
 「肥取り」は溜まった大便を汲み取りに来てくれるお百姓さんのことです。汲み取りに来たときは、匂いが辺り一面にたちこめますから、「嫌がられ」るわけです。
 私が子供の頃、まだ、便所は汲み取りでしたので「掃除屋」=汲み取りに来てくれる人をそう呼んでいました=さんが来ますと、おふくろが醤油をひとたらし火鉢に落としまして、部屋中に香ばしい匂いが漂うようにしていたのを覚えています。
 また、汲み取りに来てもらえないと、溜まる一方ですから、これは、今日か、明日かと待たれることになります。
 汲み取った肥は、海や川が使える葛飾方面へは船で運ばれ、川の無かった練馬・板橋方面へは馬で運びました。
 十九の絵を御覧下さい。馬に肥桶が取り付けられています。
 
 ○店中の尻で大屋は餅をつき〔柳多留四五〕
 
 長屋の連中の大便の御陰で、大屋さんは暮れの餅をつくことが出来たといっています。
 大坂では、大便は大屋さんの収入、小便は店子の収入になったそうです。武家屋敷や商家など、それぞれの家に雪隠があれば、当然肥代はその家のものになりました。
 
 ○雪隠の小言大屋の女房なり〔柳多留五〇〕
 
 長屋の雪隠を汚したのを咎めているのが大屋さんのオカミサンですから、長屋の便所の管理は大屋さんの仕事になっていたのでしょう。雪隠の掃除も大屋さんの仕事だったのかも知れません。
  
 ○よけの歌大屋の内儀持ち歩き〔柳多留一〕
 
 「よけの歌」というのは虫除けの歌です。四月八日(花祭りの日)に「千早ふる卯月八日は吉日よ、かみさげ虫の成敗ぞする」という歌を、甘茶ですった墨で書いて、便所や流し元に、逆さに張っておくとウジ虫(かみさげ虫)がわかない、という呪(まじな)いだそうです。
 この句からも、長屋の雪隠の管理は大屋さんの仕事であったことがわかります。


[締めくくり]

 最後の一句です。

 ○隅田川ありやなしやと振ってみる〔柳多留五五〕
 
 これは何を詠んだ句かおわかりでしょうか。二十の絵を見ていただけばおわかりになると思います。
 実は酒なんです。江戸には「隅田川」という銘の酒がありました。この「酒」の残り具合を、徳利を振って確かめている光景です。この句は在原業平が詠んだ歌の『名にしおはゞいざこと問はん都鳥我思ふ人はありやなしや』の文句取りになっています。
 江戸の地誌を記した『御府内備考』という本によりますと、浅草並木町(現・台東区雷門二丁目内)の「山屋半三郎」という造り酒屋が、江戸時代前期の寛永年中(1624〜44)に、隅田川の水を汲んで酒を造り、浅草観音様(浅草寺)の本坊である伝法院の僧正の所へ持って行きますと、僧正はご満悦で『隅田川諸白』という名を授けられたそうです。
「諸白」は「清酒」のことだそうです。
 それ以来、この酒が世上に売り広められたのだそうです。
 二十の絵は二つの絵をひとつにまとめたものです。「隅田川諸白」と書いてある方は、「隅田川」という酒を造っていた酒屋さんの広告です。
 二十一の絵は、「隅田川」という酒をつくる水を汲み上げたであろうと思われる辺りの隅田川の絵です。「隅田川」を造った酒屋さんがあった並木町は、この絵の左下延長線上に当たります。描かれている橋は「吾妻橋」です。東京で水上バスに乗られたことがあれば、おわかりでしょうが、今は橋の袂が水上バスの発着所になっています。
 隅田川には、いまの東京の地図からは想像も出来ないほど、たくさんの堀や川を通じて、江戸の町々の下水が流れ込んでいました。それにも拘わらず、幕末頃までの隅田川の水は実にきれいだったそうです。旗本の娘だった人が書き残した本(『名ごりの夢・今泉みね(東洋文庫)』)に『私の幼い頃のすみだ川は実にきれいでした』、『心底(しんそこ)きれいで水晶をとかしたとでも申しましょうか』と書いてあります。
 江戸時代の隅田川の水がきれいだったというのは、繰り返しになりますが、江戸の下水道を流れる水は案外きれいだったからではないかと思います。
 江戸の下水や堀・川にゴミを捨てることが禁じられていました。下水が堀や川につながる所には、杭が打たれていたり、柵がつくられていて、下水と一緒に流れてくるごみが、堀や川に出ないようにする工夫もされていました。また、最近の都心の発掘調査では「沈澱槽」が掘り起こされた例もあります。こういった「仕組み」が施されていたことと共に、江戸の下水道には、屎尿を取り込まなかったことが、「江戸」がそのころの西洋とは違った衛生的な都市になっていたと言えると思います。
 
 長時間に亘り、まとまりのない、大雑把なお喋りをいたしました。ご静聴いただきまして、ありがとうございました。これで、私のお喋りを終わらせていただきます。