読み物シリーズ
弁天様と水を訪ねて
栗田 彰 氏
第7回 高尾山の弁天様
第6回 箱根畑宿・弁天山清流公園
第5回 芦ノ湖・箱根神社の弁天様
第4回 箱根芦の湯・阿字ヶ池弁才天
第3回 箱根・深澤弁財天
第2回 小田原・蓮池弁財天
第1回 京都・吉水大弁財天女
(7) 高尾山の弁天様 (2008/11/04)
研究会員の中西さんから「高尾山に下水道が出来たそうだ。見に行ったら?」という話を聞いて久しくなりますが、先日(平成20.10.21)、高尾山へ行ってみました。
市販されている地図の、高尾山薬王院本坊の傍に「福徳弁財天」が表示されていますので、以前から「高尾山の弁天様」は気にしていました。しかし、弁天様は水の神様だということが頭の中にこびり付いていますから、山の中の弁天様じゃ、観光客目当てのものじゃないのかと思い込んで、なかなか訪ねる気になれないでいました。
今回、「高尾山の下水道」を見に行ったときに、ツイデのツモリで寄り道をしまして「高尾山の弁天様」を訪ねてみました。「高尾山の下水道」につきましては、カンツール (株)さんの情報誌『かんろかんり』第39号(平成21年新年号の予定)に送りましたので、発行されたらお読みいただければと思います。
薬王院の山門を入りまして、本堂への石段の前を通り過ごした奥に、本坊や客殿があります。その建物の脇の細い路地を「福徳弁財天」の案内板に従って入って行きますと、大きな建物の裏側に出た所が突き当たりになります。左手は高尾山の山頂への道です。右手を見ますと山の中腹に小さな祠が見えました。祠へ昇る石段の下に石の鳥居が建っています。まだ、新しいようです。鳥居の左手には琵琶を弾く姿の石の弁天座像が祀られています。弁天像の下の方に筧から水が落ちて、その下は小さな池になっています。まァ、水に縁のあるカタチにはなっています。
鳥居の右手には木札が建っていました。その説明に『この洞窟には古来より弁財天尊が安置されておりましたが、何日の間にか無くなっており、時の当山二十七世範秀大僧正は昭和天皇即位を記念して新たに彫刻奉安し現在にいたっております。』と書かれていました。
何はともあれ、石段を上って祠へ入ってみました。祠の奥は薄暗い電灯の点いた洞窟になっています。しゃがんだ姿勢でないと洞窟を入ることは出来ません。しばらく行くと洞窟は鉄柵で行き止まりになり、鉄柵の前に石の八臂弁財天像が祀られています。暗くて顔かたちはよくわかりませんが、後で写真を見ましたら優しい顔つきをされています。
訪ねて見てわかったことですが、洞窟の中はあちこちから、水がしたたり落ちています。まさに、水源なのです。弁天様が祀られていても不思議ではありません。
それにしても、この弁天様がどうして「福徳」なのかが、わかりません。薬王院で刊行している『薬王院』という冊子を見ましても、この弁天様についてはたった2行しか記されていません。『弁天洞(穴弁天) 洞穴に弁財天を奉ってある。平成十一年四月修復を完了。福徳円満、商売繁盛のご利益を授与する。』
なんとも、サッパリとしたものです。こりゃァ、やっぱり観光客目当てだナ、と思いました。が、どうも、それじゃァ、弁天様が可哀想です。
インターネットで検索をしてみましたら、引っ掛かってきました(釣りをしてるワケじゃないンですが…)。
「穴弁天」ですト。いま鉄柵の前に祀られている弁天様は新しいもののようです。以前の弁天様は洞窟を40bほど入ったところに祀られているようです。琵琶を弾く立ち姿なのだそうですが、平成16年に洞窟内の崩落があって、いまはその弁天様を拝むことは出来ないそうです。それは良いとしてホーム・ページにはこんなことが書かれていました。
『…祠の手前には小さな湧き水があり、ここでお金を洗うとそれが増える、いわゆる「銭洗い弁天」となっています。』
どうも、観光客誘致策としか思えなくなります。ほかのページを開いてみますと、高尾山には「琵琶滝」、「蛇滝」、「清滝」、「布流(古)滝」という、滝の修行場が四箇所あるそうです。強引ですが、私は高尾山の弁天様は修行の場の「滝」を守るために祀られたのではないかと思うことにしました。
ただ、ちょっと心配なのは、「琵琶滝」と「布流滝」の直ぐそばに「圏央道」のトンネルが造られる計画があるということです。滝の水が涸れてしまうのではないかと心配です。
(6) 箱根畑宿・弁天山清流公園 (2001/07/10)
「箱根ターンパイク」に沿った所に弁天山(標高九八七・八メートル)があるのを『箱根観光案内図』で知りましたが、山登りに自信がありませんので、箱根細工で有名な畑宿にある「弁天山清流公園」を訪ねてみました。
バス停から山裾の道を下っていきますと、やがて開けた谷地に出ます。「弁天山清流公園」の入口に当たるところに鉄製の赤い鳥居が建っていましたが、何を祀ったものなのか書いたものが何もないのでわかりません。
山裾の開けた谷地にある「弁天山清流公園」はよく整備されていて、芝が植えられた公園の中に清流が続いています。下水処理水を流して「清流復活」というのとは違って本物の清流です。須雲川の上流になるのでしょうか、鱒の釣り場になっています。
公園内の清流の所々には何とか淵といった名札が建てられています。そのうちの一つに「弁天ヶ淵」というのがありました。立て札には深くて危険だから淵の中に入らないようにと注意書きがさ れています。それほど大きな淵ではありませんが水は透き通っていて淵の底も見えます。
山の頂がいくつも見えますので、釣場の方に聞いてみました。
「弁天山というのはどの山でしょう?」
「知らないなあ。いま聞いてあげる」
といって、どこかに電話をしてくださいましたが、
「弁天山なんて聞いたことがないって」という返事でした。
「ここは弁天山清流公園といいますが、弁天様を祀ったお堂がありますか?」
「公園へ入ってくる所に鳥居があったろ?。ときどき弁天様のお祭りをしているようだから、あれがそうじゃないのかなあ」
引き返してよく見ますと大きな岩のえぐれた所に太い注連縄が吊るされています。洞のようにえぐれた岩のところに小さな石が積み重ねられているのが御神体なのかも知れません。その前には石をくり抜いた水盤と鉄製の賽銭箱が据えられています。水盤に水は入っていません。すぐそばまでゴムホースがのびて来ていますので、お祭りのときには水か張られるのかも知れません。
(5)芦ノ湖・箱根神社の弁天様 (2000/11/25)
『弁才天信仰と俗信(笹間良彦・著)』という本からの孫引きですが『新編相模風土記稿』に『弁才天社 箱根三社権現の末社(堂が島にあり。方三尺五寸の堂に長さ五寸五分、弘法大師作と伝える弁天像がある)』とあるそうです。
箱根には何度も観光旅行で出かけておりますが、芦ノ湖畔の箱根神社に弁天様が祀られていることは知りませんでした。職場旅行で箱根へ行く機会がありましたので箱根神社へ行ってみました。
境内へ入りますと「箱根七福神」の額がある鳥居があります。鳥居をくぐりますと右手に池があり、池の中島に小さな弁天様の祠があります。池の裏手には滝が落ちています。池を廻り込みますと恵比須様の祠もありました。祠の前には恵比須像が置かれています。このぶんなら弁天様のお像にお目に掛かれるんじゃないかと社務所を訪ねてみました。
応対してくださった権祢宜の柘植さんのお話によりますと、箱根神社の弁天様はもともとは堂ヶ島(現・恩賜箱根公園)に祀られていたもので、堂ヶ島に大正天皇の離宮がつくられることになって箱根神社に移されたのだそうです。
弁天像は八臂坐像で現在は箱根町郷土資料館の収蔵庫に納められているそうです。郷土資料館へお願いすれば写真に撮ることが出来るものか伺ってみましたら、お像は古いもので壊れかけているので無理でしょうと言われ、神社で撮った写真を一枚くださいました。写真の弁天像は二臂が残るだけで宝珠や剣・鍵といった持ち物はありません。
箱根神社の弁天池の裏手にある滝は池の水を循環させているもので湧き水ではないそうです。弁天様と水との関係を調べていると申し上げますと、芦ノ湖畔のプリンスホテルの先に九頭龍神社があってそこに修復されたばかりの弁天社があると教えてくださいました。神社を辞して地図を見ますと約3キロほど離れた所になり、バスの便も無いようです。職場旅行の宴会時間に間に合わなくなって酒が呑めなくなるのも悔しいので、今回は諦めました。
湖尻からですと1キロ半くらいのようですから、この次に箱根へ行く機会には是非とも訪ねてみたいと思っております。
(4) 箱根芦の湯・阿字ヶ池弁才天 (2000/7/31)
『箱根観光案内図』を見ますと芦の湯温泉の所に「阿字ヶ池弁財天」があります。箱根町郷土資料館で聞きますと、池は埋め立てられているがいまでも弁天様は祀られているということでした。バス停の「芦の湯温泉入口(国道1号のバス停は芦の湯)」の前に小さな池がありました。「阿字ヶ池」の名残なのでしょう。説明板によりますと「葦の池」が訛って「阿字ヶ池」になったということです。
池から少し離れた所に大きな広場があります。池を埋め立てた跡なのでしょう。その北隅に小さな赤い鳥居が見えました。「阿」の字の部分が壊れて「字ヶ池弁財天」の板看板が鳥居に寄り掛かるようにして立っています。鳥居をくぐって行きますと小高い山の裾に木造の鞘堂に納められた石造りの小さな祠があります。
老婆が一人でお詣りに来ていました。見ておりますと手足が思うように動かないようで、線香に火をつけるのも、線香立ての前まで行く石段を登るのもくようやっとという様子でしたので手を貸してあげました。お祈りが終わるのを待って聞いてみました。
「ここには弁天様のお像が祀られているのでしょうか?」
「男弁天といわれて髭のある石の弁天様ですよ。お祭りのときにはあちらのお社に移されます」
男じゃツマンネェとは思いましたが、老婆が立ち去ってから祠の扉を開けてみますと、人頭蛇身の石像が祀られていました。なるほど顎のところに髭らしいものがあります。祠の前にはワンカップと一升瓶が供えられていました。
老婆の言われていた「あちらのお社」は池の跡の広場の西側にありました。立派な木造のお堂です。お堂の扉には閂が釘付けにされています。ことによったら、こちらに女神の弁天像がありはしないかと、窓から懐中電灯を照らして中を覗いて見ますと「阿字ヶ池辨財天」と書かれた木札が祭壇に納められているだけで、お像はありませんでした。お堂の傍らにある由来碑によりますと「延享元年(一七四四)建碑の文面に「旧蹟再興」とあるので古くから祀られていた」ようです。
お堂の裏にも別に小さな木造の祠があります。扉の中は御弊と木札があるだけでお像はありませんでしたが、ワンカップが供えられていました。
(3) 箱根・深澤弁財天
箱根登山鉄道「塔之沢駅」の小田原方面行のホームと地続きの所に「深澤弁財天」があります。銭洗弁財天の赤い幟が立っていますが、わざわざお参りに来る人は少ないのではないでしょうか。電車を待つ間に覗いてみるという所のような気がします。樹木が鬱蒼と茂る薄暗い境内に弁天様の祠がいくつかあります。池の前に岩を組んだ上にあるのが二つ、奥のほうには岩屋の中にも祠があります。
岩屋の中の祠には、よく神社で見かける丸い鏡が置かれていました。池の前の祠の中は一社は同じような丸い鏡で、もう一社は岩が置かれています。
ご神体が丸い鏡ですとか岩ですとお寺さんではなく、どこかの神社がお祀りしているのかも知れません。
「深澤弁財天」の「深澤」にどういう意味があるのか、説明板もなければ、人も居りません。祠の前に張られた幕に「深澤あつ子」という奉納者名が染められています。「深澤あつ子」さんという方が個人的に祀った弁天様なのかとも思いましたが、境内にたくさんぶら下がっている白い提灯には「小田急電鉄」の文字と旅館名が書かれています。小田急が観光資源として祀ったのかとも思えます。
箱根町郷土資料館へ行って「深澤弁財天」について尋ねてみましたが「詳しいことはわかりません。塔之沢の駅前のお店屋さんでお守りをしているのでそこへ行けばわかると思います」と教えてくれました。その日は他に用事があったのでまだ訪ねてはおりませんが次の機会には是非訪ねてみようと思っています。
郷土資料館でチラッと見たガイドブックには「深澤弁財天」は江戸時代から祀られていると書いてありました。箱根には私も何度も行っているので、若いときから箱根登山鉄道には乗っていたはずですが「塔之沢駅」に弁天様が祀られているのを知ったのは、ほんの数年前のことです。若いときは弁天様に関心がなかったから気がつかなかっただけなのかも知れませんが「塔之沢駅」の弁天様が目立つようになったのはそんなに昔のことではないような気がします。
「塔之沢駅」はトンネルとトンネルの間にある駅ですから、弁天様のまわりは山の傾斜地で、水はかなり豊富に湧き出ています。早川の水源の一つになっているのでしょう。
(2) 小田原・蓮池弁財天 (1999/12/20)
『弁才天信仰と俗信/笹間良彦・著』という本に小田原城内三の丸西方沼地に弁才天祠が祀られている、と書かれていましたので出かけてみました。
小田原駅から東海道線に沿って、″お城通り″を小田原城跡へ向かって行きますと左側の歩道上に「弁財天」と彫られた石柱が建っていました。オヤオヤ沼地は埋め立てられてしまったのかと思って石柱の裏側を見ますと、江戸時代に弁財天曲輪と呼ばれていた所の名称のようです。
城跡公園内にある市立図書館で聞いてみました。応対してくれた若い女子職員は首を傾げるばかりです。郷土史関係の本を見せてもらっておりますと、先程の女子職員よりは先輩らしい女子職員が来て「この蓮池弁財天のことではありませんか」と冊子を持ってきてくださいました。
「蓮池弁財天碑」が旭丘高等学校の裏側にあるように記されています。冊子の解説文によりますと『現在の旭丘高校、小田原検察庁附近一帯は小田原城三の丸の水濠の跡で、水濠の中に小島を設け弁財天を祀っていた。北条氏綱が江の島弁天を勧請したもので、蓮池弁財天と呼ばれ、この水濠一帯を弁天曲輪と称した』ということです。
その女子職員は他にも発掘調査報告書と小田原城についての本も出してくれました。小田原城についての本の中に正保元年(1644)に描かれた『相模国小田原城絵図』と、文久年間(1861〜64)に描かれたらしい『城絵図』が掲載されています。両方の絵図には濠の中の小島に弁財天社が描かれています。
「蓮池弁財天碑」の建っている所を教えていただいて、行ってみました。旭丘高校の脇から城跡公園へ入る所に「蓮池弁財天記」と書かれた説明板が建っていました。もしかすると、「蓮池弁財天碑」は石碑で、「蓮池弁財天記」はその石碑の説明板なのかも知れません。私は「蓮池弁財天碑」の石碑を見落としているかも知れません。説明板の少し先(旭丘高校の真裏、グランド外)に空濠があり、そこには橋が架かっています。橋を渡ったところに赤い鳥居が建っていまして、その先の小高いところに弁天様が祀られていました。弁天様は石像で琵琶を弾く姿をしています。弁天様が祀られている台に「平成十年三月吉日」とありました。
(1) 京都・吉水大弁財天女 (1999/06/20)
「弁天様と水」の共同研究者である鈴木直子さんが京都を一人で旅をされ、円山公園近くにある「吉水天弁財天女」を訪ねて来たと話してくれました。
「吉水」というのは安養寺の鎮守であった弁財天社境内に涌く名水だそうです。また、安養寺近辺の通称地名にもなっているということです。
鈴木さんが調べられた『京洛名水めぐり』という本によりますと、「吉水」は旱のときに祈ると必ず効験があると信じられていたそうですし、江戸時代には祇園の白朮詣り(おけらまいり)に出かけた人は、少し足を伸ばしてここの弁天様へお詣りして元旦の若水用に「吉水」を汲んで帰ったそうです。
『都名所図会』の安養寺の項に『吉水の井は鎮守弁才天の傍にあり、青蓮院宮御代々法親王灌頂の時、この水を閼伽とし、夜深更に例式の列を糺し来臨し給ひ、御手づから汲ませらるゝといふ。当山坊中の書院は昇らずして高楼に至り、清奇典麗いはん方なし』と記されています。青蓮院は粟田御所ともいわれる天台宗のお寺さんで安養寺の北側に現存しています。灌頂というのは仏教上の儀式で受戒ですとか結縁のときに香水を頭に注ぐことをいうようです。閼伽というのは仏様にお供えする水のことだそうです。挿絵には安養寺の門を入から、いくつかの石段の上に「弁天」と「吉水」が描かれています。境内にはいくつかの子院も描かれていますが、子院では席を貸して酒肴も出したそうで、遊興する人々の姿も描かれています。子院の一つであったのがいまの料亭「左阿弥」だそうです。
本文に『当山坊中の書院は昇らずして高楼に至り、清奇典麗いはん方なし』とありますように、鈴木さんも「平地から少し上ったところにありますから、京都の街がよく見える所です」と言います。そして「自川沿い(京阪四条駅北側)の桜は夕暮れから夜にかけてがきれいでした。近くに町の人たちが配っているらしい弁天様がありましたが、由縁などを記したものは何もありません。そこの直ぐ北側が弁財天町で、少し離れた所には上弁天町・下弁天町があるのです。狭い範囲の中に弁天の付く町名が三つもあるのにびっくりしました」ということでした。
これを書きながら、京都の弁天様ならきっと美形だろうなぁと思ったときへ肝心の弁天像のことを鈴木さんから聞くのを忘れていました。